さ、もう家来なくていいよ。見てるとイライラするし」

 最初、何を言われたのか分からなかった。すっかり冷えてしまったアールグレイの入ったカップ。それを手に持ったまま固まっている私をイルミは一瞥することなく、業務連絡でもするかのような口調で「じゃ、そういうことだから」と言うと席を立ち、長い黒髪を風に靡かせながら去って行った。
 ああ、イルミはとうとう、私を見限ったんだな――。そのことに気付いたとき、既にイルミの姿と気配はなかった。紅茶に口をつけないまま、静かにカップをソーサーへ置く。ゾルディック家の屋敷から少し離れた場所に造られたガゼボ。月に一度、私とイルミがお茶をする場所である。テーブルの隅に置いてあるベルを鳴らせば執事が現れる仕組みになっているが、私はそのベルに向かって伸ばした手をぎゅっと握りしめた。
 今、私の心の内には、慣れたはずのイルミのストレートな物言いに傷つく私と、解放感のようなものを味わいほっとしている私、二人の私がいる。
 幼い頃から、ゾルディック家長男であるイルミの結婚相手候補としてこの家に出入りしていた。結婚がどういうものかきちんと理解はしていなかったが、喜ぶ両親を見るのは嬉しかったし、何より歳も近く同じ境遇の男の子と知り合えたことに素直に喜んだことを覚えている。
 しかし、イルミとは歳が近いだけで、実際には境遇なんて同じどころか似ても似つかなかった。そのことに気付き始めた頃だったと思う。自分に自信をなくし、『イルミに私はふさわしくない、ゾルディック家長男の嫁だなんて重荷すぎる』と考えるようになったのは。
 きっとイルミがイライラすると言ったのは、そんな卑屈になった私に対してなのだろう。ゆっくり静かにため息を吐いたあと、私はベルを鳴らした。

さん」
「キ、キキョウ様……!」

 しばらくして私の元に現れたのが執事ではなくキキョウ様だったことに驚いた私は、慌てて彼女の名を呼び立ち上がった。キキョウ様のスコープの中で揺れ動いていた赤い点が、キュイン、と音を立てて真ん中で止まる。

「ごめんなさいね。イルミは、一度自分で決めたことは周りに何を言われようと覆さないの」

 私の元を去ったイルミから聞いたのか、それとも事前に聞かされていたのか。どちらかは分からないが、キキョウ様はイルミの決断を知っていて、なおかつそれを認めているらしい。
 私はキキョウ様の言葉に首を振ったあと、深々と頭を下げた。

「こちらこそ……長い間よくしていただいたのに、ご期待に添えず申し訳ございません」
「夫も、よろしく伝えてくれと言っていました。最後に会えなくて残念だ、と」

 それまでどこかふわふわとした気持ちでイルミの言葉を受け止めていたせいか、シルバ様からの伝言の『最後』という言葉が心に重くのしかかる。私はぎゅっと唇を結び、顔を上げて精一杯笑ってみせた。
 シルバ様とキキョウ様、二人が私によくしてくれていたのは事実だ。だから、私が考えているように彼らもイルミに私はふさわしくないと思っていたのなら、少し悲しい。
 でももう、『最後』なのだ。キキョウ様に帰ることを告げると、彼女は執事に家まで送らせると言った。本音を言うと、最後だからこそ帰る前にイルミへきちんと別れの挨拶をしたかった。しかし彼のことだから、無駄なことはしたくないと言うイルミのことだから、きっとそれは叶わないだろう。
 ゾルディック家の広い敷地を出るまでの間、私は少しだけ期待してイルミの気配を探った。しかしその努力も徒労に終わる。夕暮れの下、私は二度と訪れることはないであろうゾルディック家を静かに後にした。
 
◇◇◇

 イルミと私はそれなりに長い付き合いになるが、決して冗談を言い合ったりするようなフランクな関係ではなかった。二人でお茶をするときの会話は、主に近況報告。それ以外は仕事の話、家族の話。それくらいだった。
 それでも、たった一度だけ。イルミと仕事の話でも家族の話でもない話をしたことを、私は今でも昨日のことのように覚えている。
 イルミ十一歳、私八歳のときの話だ。

「あ、リス」

 私の小さな呟きを、前方を歩いていたイルミが拾う。イルミは相変わらずの無表情でゆっくりこちらを振り返ったあと、無言で私の視線の先にいた小さな生き物を見つめた。
 幼かった私たちがただのお茶だけで時間を過ごせるはずもなく、こうして広い樹海の中を二人でよく散策していた。とは言え、一人で歩いて行ってしまうイルミを私が追いかけていただけだったけれど。
 昼間でも薄暗く深い森は、静かでどこか不気味である。しかし私は、イルミとの形式的なお茶の時間よりもこうして樹海のあちこちを歩き回る方が好きだった。都会の屋敷で暮らす私にとって、野生生物を多く見ることができる機会はそうそうなかったからだ。

「好きなの?」

 するすると器用に素早く木を登っていくリス。それを目で追っていた私は、驚いてイルミを見た。イルミから質問をされるのは、それが初めてだった。

「うん……可愛い、から」

 そう答えたあと、固唾を飲んでイルミの言葉を待つ。しかしイルミは返事の代わりにどこからか太い針を取り出すと、それが一体何なのか私が理解するより先に枝先で匂いを嗅いでいたリスに向かって投げた。
 音もなく飛んでいった針が、ストン、とリスの首へ刺さる。突然のことに小さな悲鳴を上げた私が落下したリスの元へ走ろうとするのを、イルミは手首を掴んで止めた。

「こっ殺しちゃったの?」
「殺してない」
「でも、針が」
「見て」

 イルミが指さす方向へ恐る恐る視線を向ける。首に針の刺さったリスが、ふらふらと、たどたどしい足取りでこちらに向かって歩いて来るのを見て私は息を呑んだ。
 手を差し出せば、足元までやって来たリスはゆっくりと手のひらに乗った。温かく胸の辺りが脈打っているが、目の奥の光も、先程までの俊敏さもない。例えるなら、まるで――。

「生きた、人形みたい」

 小さな焦げ茶色の額を指で撫でながら、ぽつりとそう呟く。瞬きも、逃げることもしないリスをじっと見つめていたら、ぬっと大きな影に覆われて私は顔を上げた。すぐ隣に立っていたイルミがこちらを見下ろしたまま「嬉しい?」と首を傾げる。

「えっ」
「可愛いって言ったから、触りたいんだと思ったんだけど」

 その言葉に、私は小さく「あっ」と声を上げた。無表情で言葉足らずのイルミがどうして急にそんな行動を取ったのか分からなかったが、そこでようやく私は理解した。イルミはイルミなりに、私を喜ばせようとしたのだ。
 そのことに気付いた瞬間、先程までイルミに対し感じていた『恐ろしい』という気持ちが薄まっていく。代わりに心にじわじわと広がったのは、不器用なイルミを『愛しい』と思う感情だった。

「ありがとう」

 そう言うと、イルミは「うん」と返事をしてふい、と顔を逸らした。その横顔はいつもよりも少しだけ優しく見える。

「この針、抜いたらどうなるの?」
「操るために刺しただけだから、抜いたら元に戻るだけだよ」
「そう……抜いてもいい?」
「好きにしたら」

 針はそこまで深く刺さっておらずあっさりと抜けた。その瞬間、リスは正気を取り戻したように慌てて私の手から飛び降りると、ものすごい速さでそばにあった木へと登っていく。少し出血していたが、あの様子なら自然治癒するだろう。

「すごいね、針を刺すだけで操れるなんて」
「まだ動物でしか成功してないけど、そのうち人間相手に試すつもり」
「もし成功したら、もう敵無しだね」

 冷静に考えると子ども同士とは思えない恐ろしい会話だが、私は素直にイルミがしてくれたことを喜んでいた。もしこの人と本当に結婚できたら幸せかもしれない、とすら考えた。
 イルミ自身も私にすごいと言われ悪い気はしなかったのだろう。「ミケは無理だけど」と言いながら、時間になっても戻らない私たちを不審に思った執事やシルバ様、キキョウ様が探しに来るまで、野鳥やキツネ、アナグマなど生き物を見つけては針を刺して遊んだ。
 心から楽しくイルミと過ごしたのは、それが最初で最後だったように思う。その約一年後、ゾルディック家に三人目の子――キルアが生まれてから、イルミはそれまで以上に家のためにと自分や周りを追い込むようになった。
 そしてもちろん、それは私も例外ではない。家に嫁ぐつもりならこれくらいはできないと、と言い、私に様々な要求をするようになったのだ。まるで試験のような実践訓練や耐毒訓練。それらを一生懸命頑張ったのは、あの日イルミに抱いた『愛しい』という感情がずっと心に残り続けていたから。
 それでも最終的には不合格の烙印を押されてしまったようだが、やり切った私に後悔はなかった。きっとイルミには私以外にも結婚相手候補がいたはずだ。そのうちの素質のある誰かがイルミの妻として彼をそばで支え続けてくれるのならば、こんなに喜ばしいことはないだろう。

◇◇◇

さんは素敵な奥さんになりそうですね」

 明日でイルミに会わなくなくなって二か月になる。
 両親は私がゾルディック家からふるい落とされたことを悲しむことも、責めることもしなかった。むしろ私の方が落ち込んでいるように見えたのか、気を遣ってしばらく仕事は休むよう告げたあと、こうして日中に普通の女の子らしくデートできるような相手を見繕ってもくれた。
 イルミと同い歳で銃器の卸業を営んでいるという男は、私が「そんなことないですよ」と言えば頬を染めて笑った。

「そういう謙虚なところ、僕は好きですよ」

 ああ、面倒くさい――。思わず浮かんだそんな言葉を腹の奥へと押し込むように、私は曖昧に笑って苦くてまずいコーヒーを流し込む。
 家族以外の男性と二人きりでお茶するなんて、イルミ以外だと初めてだな。不意に浮かんだイルミの俯いた横顔に、少しだけ目頭がぎゅっと熱くなる。
 滅多に感情を表に出さず、死んでもお世辞なんて吐かないイルミとは両極端な男。そんな彼からの分かりやすい好意が、なんだか鉛玉のように重く感じる。
 イルミのことが恋しくないと言えば嘘になる。しかし両親の手前、今目の前にいるこの男を無下にすることもできない。当たり障りのない会話をし、大しておもしろくもない話で笑う。そんなことを少し続けただけですっかり疲弊してしまった私は、夕方に出る飛行船のバーでお酒でも、という男の誘いを断って家路についた。

「はあ……」

 深く重いため息とともに、自室のベッドに沈む。枕に埋めた顔を少し動かして窓の外を見ると、青とオレンジの混ざった夕暮れの空が見えた。
 ゾルディック家の樹海から見る夕焼け空はもっときれいだったな――。

「イルミ、」

 今や口にすることも躊躇われる名前。ゆっくり声に出して呼ぶと、胸の奥が切なさでいっぱいになる。
 もう今日は寝てしまおうか。そう思い目を閉じてすぐ、控えめにドアをノックする音で私は身体を起こした。

「どうぞ」
「失礼いたします、様」

 現れたのは我が家の執事長だった。家に一番長く勤め、数十名いる執事たちをまとめる立場にいる彼の少し困った表情に私は眉を顰める。

「……どうしたの?」
様に仕事の依頼をしたいというお客様がいらっしゃっております」
「ああ」

 執事長の言葉にそう返事をして立ち上がる。きっと彼のことだから、両親が私にしばらく仕事を振らないよう念押ししていたのかもしれない。
 ウォールミラーの前に立ち、髪や服を整えながら彼に向かって「大丈夫よ」と微笑んだ。

「もうそろそろ仕事を再開するつもりだったから。ちなみにどなたがお見えになったの?」
「新規のお客様で……ギタラクル様という方です」
「新規? 紹介状は?」

 その質問に、執事長の言葉が止まる。鏡越しに見えた彼の不安げな表情に、なんだか少し嫌な予感がした。
 我が家は基本的に古い付き合いの顧客からしか仕事を受けない。新規の客がどうしても家の誰かに仕事を頼みたい、となった場合、その古い顧客たちの誰かから書いてもらった紹介状が必要となる。
 紹介状を持っていない新規の客は門前払いされるため、執事長がこうして私を呼びに来たということは紹介状を持っていないわけではないのだろう。振り向いて「誰の紹介?」と尋ねると、執事長は伏せていた目をこちらに向けて意を決したように答えた。

「紹介状には……イルミ=ゾルディック様のお名前がございました」

◇◇◇

 一体、イルミはどういうつもりなのだろう――。来客室へ向かう私の心の中は不安と疑問でいっぱいだった。
 確かに昔、ゾルディック家とは一緒に仕事をすることもあったらしく、形式上お互いがお互いの顧客ということになっている。しかしイルミと知り合って十数年になるが、イルミどころかゾルディック家の紹介で新規の客が来たことは一度もないし、そもそも殺し屋が他の殺し屋を紹介するだなんて有り得ないことだ。
 こんなときに限って両親、兄二人は遠方へ仕事に出ている。私以外に対応できる人間はいない。
 二か月前、一方的に切られたと思ったイルミとの縁。それが再び繋がろうとしている。不安と疑問でいっぱいなことに間違いはないが、そのことにほんの少しだけ期待している自分がいた。
 来客室の前で深呼吸をする。ごくり、と喉を鳴らしてドアをノックしたが返事はない。失礼します、と声をかけ、私はドアを開けた。

「初めまして、ギタラクル、さ……ま」

 テーブルの前に置かれたソファに座る男の姿に、私は思わずぎょっとした。顔中に刺さった針。カタカタ、という乾いた音を鳴らしながら首を動かすギタラクルという男は、私の挨拶に応えることなくただ彼の正面に座るこちらの動きを目で追うだけだった。
 不気味としか言いようがない――。しばらく黙って様子をうかがっていたが、彼から何か話を切り出してくる気配はなく、私は軽く咳払いをする。

「イルミ……様からの紹介状をお持ちと聞きました。念のため確認させてもらっても?」

 そう言うと、ギタラクルは相変わらず返事をしないまま胸ポケットに手を入れると、一枚の封筒を取り出した。テーブルの上に置かれたその紹介状らしきもの。それと一緒に自然と目に入った彼の手に、一瞬思考が停止する。
 この人の手、イルミに似てる――。
 そう思いながら、私はそっと目線を上げてギタラクルを見た。手だけじゃない。背格好もイルミに似ているし、何より彼の顔に刺さっている針を私は見たことがある。
 すべてが繋がって、どくどくと心臓が大きく脈打つのを感じた。いつの間にか口の中がからからに乾いていて、そんな私の口から出た声はなんとも情けなく頼りないものだった。

「ひょっとして、イルミ……?」
「よく分かったね」

 カタカタと動いた唇から聞こえたのは、私にとって涙が出そうになるほど懐かしくて恋しい声色。ギタラクルは驚く私の目の前で顔から針を一本ずつ抜いていく。恐ろしい音を立てながら変形していく彼の顔は、あっという間に私が今一番思い焦がれていたイルミの顔へと変化した。

「ふう、すっきりした」
「ど、どうして」
「今日一日ずっと尾行のために顔変えててさ、そのまま来たんだよ」

 どうして家に来たの、という意味で聞いたのだが、どうして顔を変えていたの、という意味に捉えたらしい。仕事だったらしいイルミは「顔変えるの地味に疲れるんだよね」と軽い調子で言いながら、抜いた針を服に刺していく。

「……何しに来たの?」
 
 私を見ているとイライラする。そう言ったのはイルミなのに。そう思いながら聞いたせいで、酷く冷たい口調になってしまった。
 そんな私に対し、イルミは大きな黒い目をぱちぱちと瞬かせた。イルミに見られている。そのことに自分でも驚くほど緊張している。

「え、オレ、執事に言ったんだけどな。仕事の依頼をしたいって」
「仕事って……殺しなら、自分ですればいいでしょう」
「確かにそうだけど。でもに頼んでも問題ないだろ? 顧客なんだし、仮に新規扱いでも紹介状あるし……まあ書いたのオレだけど」

 ははは、と笑い声を上げるイルミの目の奥は笑っておらず、私はぐっと押し黙った。
 イルミの考えていることが分からない。でも、ここで断る理由も見つからない。
 もしかしたらものすごい無理難題を押し付けられるかも。そう思いつつもやはりイルミに対する気持ちはまだ根強く残っていて、半ば諦めた私は「分かった」と頷いた。
 私の返事にイルミは表情を変えないまま、テーブルの上に置かれていた紹介状の封を切った。封筒を逆さまにすると、紹介状とともに一枚の写真がはらりと落ちる。

「この男、殺してきてよ」

 とん、とイルミの爪で押さえられた写真。そこには数時間前、私のことを素敵な奥さんになりそうだと評価した男の笑顔があった。
 何も言葉が出てこなかった。でもそれは両親が紹介してくれた男を殺してこいと言われたから、だけではない。今私が目にしている写真が、明らかに今日、しかも私と一緒にいるときに撮られたものだったからだ。
 イルミの言ってた「尾行」って、もしかして――。そこまで考えたところで、とんとん、とイルミが爪で写真を叩く。はっとして顔を上げると視線がぶつかって心臓が跳ねた。
 イルミの考えていることは相変わらず分からないが、それでも長い付き合いの中で、彼の無表情の裏に隠れている感情を読み取ることはできるようになっていた。イルミは今、すごく怒っている。

「どうして? この人、何かした?」
「何かした? はは、おもしろいこと聞くんだね」

 彼の周りの空気がぐにゃりと歪んだ。膝の上に置いている手をぎゅっと強く握りしめる。
 イルミは顎に手を当てて「んー、そうだなあ」と考える素振りを見せたあと、写真をくしゃりと握り潰した。

「あえて言うなら、今日と二人でお茶した罪。そのときに阿呆面で『素敵な奥さんになりそう』とかほざいた罪」
「イ、イルミ」
「カフェを出て階段を下りる間の十二秒間、の腰に手を回した罪。あ、でも飛行船に乗らないって判断はよかったね。もし乗ってたらオレ、多分飛行船丸々潰してたから、死んでたかもよ」

 月に一度の逢瀬を十年以上も続けた。それでも結局私はイルミがどういう男なのか、ちゃんと理解できていなかったようだ。
 ねえ、イルミ。それはもう、私のことを好きだって言っているようなものだよ。
 イルミは立ち上がると、二人の間にあるテーブルを踏み台にして私の目の前に下りた。こちらを見下ろすイルミの何かを求めるような視線から逃れることができない。

「でもイルミ、私のこと、見てるとイライラするって言ったじゃない」

 そう言うと、イルミは自分のその発言を忘れていたのか、きょとんとした顔を見せた。そしてすぐ思い出したように「ああ」と呟く。

「だって、絶対オレのこと好きなはずなのにいつまで経っても好きって言ってこないから」
「な……」
「そもそもオレがああ言ったとき、なんで縋りついてこないわけ? 意味分かんないんだけど」

 イルミの言葉に、今まで抱いていた不安や疑問が全部どろどろになって溶けていくような気がした。力が抜けて、身体がソファに深く沈む。しかし次第に言われっ放しでいることが悔しくなった私は、思い切って彼の手を握った。
 私の行動に目を眇めたイルミが何かを言う前に、「座って」と彼の手を引く。イルミは黙ったまま、素直に私の隣に腰を下ろした。

「イルミは、その……私のことが好きなのね」
がオレのことを好きなんだろ」
「それは、」

 認めるけど……。
 うつむき加減でそうぽつりと言うと、イルミの手が私の頬を包むように触れた。ゆっくり顔を持ち上げられ、親指の腹で撫でられる。今までにされたことのない触れ方とキスする直前のような仕草に、身体中の血が沸き立つような気がした。

「私、ショックだった。イルミにもう来なくていいって、見てるとイライラするって言われたとき」

 本当はあのとき、泣き叫びたかった。イルミが私に課す厳しい訓練から逃れられることに少しほっとしたのは事実だが、それ以上にイルミともう会えないという事実が辛くて苦しくて死んでしまいたいと思った。
 もう後悔はない、と言うのも私の強がりだ。本当は、イルミの隣に立つのは私でありたい。確かに私はゾルディック家からしたら実力不足だろう。それでも他の候補者がイルミの隣で、彼の名を呼び、彼に触れ、彼に愛されるだなんて許せない。全員この手で殺してやりたい――。
 言葉にするとただの醜い嫉妬だったが、イルミは何も言わずに私の話に耳を傾けている。

「私、もっと努力するから、イルミには私を選んでほしい」

 私の頬に触れているイルミの手にそっと自分の手を重ねてそう言うと、イルミが「うーん」と困ったように唸る。

「選ぶも何も、オレにはしかいないんだけどな。他の候補者って何の話?」
「え、っと、私は候補者の一人って聞いてたから」
「それは昔の話。他の奴らは訓練に耐えきれずあっさり逃げてったよ」
「そうなの……」

 頭の中を羞恥が駆け巡る。なんだ、私が勝手に想像して、勝手に嫉妬していただけか――。
 恥ずかしくなってイルミの手に重ねていた手を下ろすと、イルミはその手を離さないと言わんばかりに掴んで指を絡めた。互いの体温が溶け合うようで、ずっと心の中で燻っていたもやもやをすべて吐き出したおかげもあってかとても心地よく感じる。
 兎にも角にも、私はイルミに見限られたわけじゃない。嫌われたわけじゃないのだ。油断すると涙が零れそうで、ぎゅっと奥歯を噛み締めて耐える私にイルミが「及第点かな」と言う。

「え?」
「実力不足は、まあ否めないけど。そんな卑下するほどでもないよ」
「あ、ありがとう」
「で?」
「……で?」
「明日、家来るでしょ」

 イルミの言葉に私は一瞬だけ呆気に取られる。そうか、本来なら明日はゾルディック家に行く日だった。
 じっとイルミを見れば、彼は頭を傾けてもう一度「来るよね」と言った。私に判断を委ねているようで「来い」と命令しているような話し方がイルミらしくて、胸が熱くなる。

「私、お茶だけじゃなくて、イルミと二人で樹海を歩きたい。昔みたいに……だめかな」
「何それ、全然いいけど」

 そう言うイルミから、つい先程まで滲んでいた怒りや苛立ちはもう感じられない。お互いに話すことがなくなり、黙って手を繋ぎあっている状況が恥ずかしくなって「ちょっと執事と話してくる」と席を離れようとすれば、私の手を握るイルミの力が一層強くなった。

「それにしてもさ、ってオレが思っている以上にオレのこと好きなんだね」

 ほんの少し、驚いてそう言うイルミの言葉に私は思わず笑った。気が抜けたせいで、とうとう我慢していた涙が溢れる。
 それはむしろ、私のセリフだよ。そう言う代わりに「うん、すごく」と返せば、イルミは「ふーん」と一言だけ言ってふい、と顔を横へ向けた。その顔が私に初めて針で動物を捕まえてくれたときと同じ懐かしく優しい横顔で、私はさらに笑って、泣いた。


逆回りのピリオド


(2023.09.17)