足元に伏していた死体が鈍い機械音とともに消えたとき、の心の中に広がったのは確かな安堵感だった。
 天を仰ぎ、一つ息を吐く。空に浮かぶいくつもの積雲が風で流れていく平穏な様子を見ながら、は両手を上げて背伸びをした。

「終わったあ〜!」

 殺しを生業として十年目を迎え、最初に舞い込んだ風変わりな依頼。それは念能力者が作ったハンター専用ゲーム、グリードアイランドの中にいるターゲットを殺してほしい、というものだった。
 入手困難、かつ一度ゲームの中に入ってしまうとそう簡単には出られない。通常の殺しとは違い、始まる前から障害が多くリスクの大きい今回の依頼をなぜは引き受けたのか。それは彼女が、殺しの難易度を問わず報酬で動く殺し屋だったから。今回の依頼の報酬は、彼女が「そもそもゲームから出てこられないのであれば殺す必要もないのでは?」という疑問を胸の内にしまい込み、即座に快諾するほど巨額だったのだ。
 もう少しすれば、現実世界でもターゲットの死亡が確認されるだろう。期限内に終わらせ、自分が殺したことを証明するためにターゲットの胸ポケットにメモも入れておいた。なんの問題もない。
 通帳に並ぶゼロの数を想像して頬を緩ませるの腹から、ぐううと色気のない大きな音が鳴った。
 凹んだ腹を手で擦りながら、なんとも不思議な世界だ、とは思う。この世界は朝が来れば夜を迎える。暑さも寒さも、痛みも眠気も感じる。そしてもちろん、空腹も。

「とりあえず、マサドラ行くか」

 仕事は終わった。次にやるべきことは、一刻も早くこのゲームの中から脱出すること。は戻り次第購入することを決めていた洋服やバッグの数を指で数えながら、鬱蒼とした森の中を歩み始めた。



「やっぱそんな簡単には出ないよねえ……」

 マサドラに到着後、腹を満たしたはショップで購入したカードの袋を開けてぽつりとそう呟いた。
 このゲームから脱出するための方法。その一つとして『離脱』というスペルカードを使用する方法がある、ということをは事前に調べていた。しかし離脱を手に入れるためには、マサドラのショップにて三枚セットで販売されているカードを買い、その中から引き当てなければならない。袋に入って売られているため中身を見ることはできず、離脱が出るかどうかは運次第である。
 はため息を零し、購入したカードをブックにしまった。適当にお金を稼いでショップで離脱が出るまで買い続けるか。または、場所は定かではないがゲーム内唯一の港へ行って何かをすればゲーム外へ脱出できるという話も聞いた。そっちに賭けるか――。

「すまない、ちょっといいか?」
「へっ?」

 ショップの前で腕を組み思案していたは、急に声をかけられ間抜けな声を上げた。振り返り、背後に立っていた男二人を驚いた顔で見上げる。
 ゲームのプレイヤーは圧倒的に男の方が多い。それもあり女一人で行動しているは見くびられるのか、男性プレイヤーから絡まれることがよくあった。もちろん彼らにとって、カード収集を目的としていないはカードの交換・奪取の相手としては適していないし、何か別の目的で近付いたとしてもそれは同じである。
 じろりと睨みを利かせるに対し、二人は狼狽えながら胸の前で両手を振った。

「そんなに警戒しなくていい、少し話がしたい」
「話?」
「君、離脱のスペルカードを探してるんじゃないか?」

 その言葉にの目元が僅かにぴくりと動いたのを二人は見逃さなかった。目を合わせ頷きあったあと、未だに警戒を解こうとしないに向かって「実は――」と話し始めた。

「つまり、私は数合わせってこと?」

 がそう問うと、二人はゆっくり頷いた。
 話はこうだ。『一坪の海岸線』というSSランクのカードがある。そのカードを手に入れるためには『同行』のスペルカードを使い十五人以上でソウフラビへ行き、そこでゲームキャラとスポーツ勝負をして勝たなければいけないらしいのだ。
 そして彼らの話によると、スポーツ勝負は自分たちで行う、とのことだった。あくまで十五人の内の一人としてついてきてくれればいい、終わったら報酬代わりに離脱のカードを渡す、と。
 願ってもない話だった。このままマサドラに残ってカードを買い続けるのは現実的ではない。かと言って港まで行くのにも時間と労力がかかる。そしてこれはただの勘だが、彼らが嘘をついているようにも見えない。
 少し悩んだあと、は「どうして私?」と首を傾げた。

「他にもその、一坪の海岸線を欲しがってる人はいるでしょ。そういう人を誘えばいいのに」
「いや、カード化限度枚数が三枚だからな。なるべくカードに執着のないヤツがいい」
「ふうん、なるほど」

 は胸の前で組んでいた腕を解き「協力する、交渉成立ね」と片手を挙げた。

「でも私、本当に何もしないからね。そもそもスポーツ経験ないし」

 殺しなら得意なんだけど。頭の中でそう呟くに向かって、彼らは「分かってる」と頷き微笑を浮かべた。その表情から彼らがに対してなんの期待も寄せていないことは一目瞭然だったが、本人はそのことについて特に何も思わなかった。



 は今までの人生で、あまり後悔をしたことがない。さっぱりとした性格で、仮に自分の判断が間違っていたと後に気付くことがあっても、それを受け入れて切り替えることができる聡明さを持ち合わせている。
 日も傾き空が温かな橙色に染まり始めた頃、を含む六名の数合わせプレイヤーが集まり、全員で残りのメンバーのところへ向かった。

「無事に集まったぞ」

 着いた場所は静かな川のほとりだった。彼らが仲間なのだろう、その場にいた男たちに向かってに最初に声をかけた男がそう言いながら歩み寄る。
 子どもが三人いる。まず最初にはそう思った。そして彼らの背後にいた男を目にした瞬間、は数年ぶりに自らの行動を後悔したのである。
 なんでアイツがこんなところに――。

「な……!」
「おや」

 その場にいた全員の視線が、が最も関わりたくない男――ヒソカへ向けられる。しまった、と思い口元を手で押さえたは、何事もなかったかのようにふい、と顔を逸らし周りの景色を眺めている振りをした。

「ヒソカ、どうしたの?」

 ボールを持った黒髪の少年にそう尋ねられたヒソカは、頑なに視線を外したままのを一瞥するとにんまりと笑い、「別に?」と首を軽く横に振った。
 久しぶりに耳にするヒソカの声。の額にじわりと嫌な汗が滲む。ツェズゲラと名乗った大柄の男が「今後の動きを説明する」と場を仕切り出したところで、ようやくは一つ息を吐いた。
 日没後、ソウフラビへ向かう。ツェズゲラからそう話があり、各々が休んだり来たる勝負に向けて身体を動かす中、は近くあった大木に背を預けた。無意識に全員が見える位置へ移動したのは彼女の本能だろう。
 そしてそんな彼女のそばへ音もなくやってきたヒソカに対し、はため息を零した。あくまで視線は他へ向けたまま、しかし観念したように小声で「久しぶり」と呟く。

「やあ、さっきは無視されて悲しかったよ」
「……アンタ、こんなところで何してんの」

 の一番の疑問に対し、ヒソカはと同じように大木に身を預けると、バンジーガムで吊るしたボールを左右に揺らしながら「楽しそうだから協力しようと思ってね」と笑った。心の奥底で何を考えているか分からない微笑み。ヒソカの『変わらなさ』に全身がぞわりと粟立つ。

「そういう意味じゃなくて、なんでこのゲームに――」

 そこまで話したところで、は背後で組んでいた手に何かがつうっと触れるのを感じて飛び退いた。いや、飛び退こうとした。

「それはボクのセリフでもあるんだけどなぁ」
「ちょ、ちょっと!」
「感動の再会なんだから、熱烈なハグやキスがあってもいいんじゃないのかい?」

 迫り来るヒソカに対し、は身体を反らしながら動かなくなった自分の両手へ視線を向けた。ちっ、と舌打ちを飛ばす彼女の視線の先には、バンジーガムで木の幹に固定された両手。やられた――。そう思いながらぐぐぐ、と力を込めるもののくっついた両手はびくともせず、はヒソカを睨みつけた。油断した。本日二度目の後悔だった。
 能力を発動すればどうにかなるだろう。しかしここではあまり注目を浴びたくない。ただ私は何もせず、楽に離脱を手に入れてさっさと現実世界に帰りたいだけなんだから。
 彼女のそんな考えを知ってか知らずか、ヒソカは余裕たっぷりの笑みを携えたまま指先での前髪に触れる。

「ところでボクたち、まだ恋人同士だよね?」
「んなっ」
「おいヒソカ! 何やってんだよ!」

 ヒソカの発言にかっと顔が熱くなった瞬間、離れたところにいた銀髪の少年、キルアが声を上げたち二人のいる場所へ向かった。それと同時にあっさりとの両手を解放したヒソカは、彼女の前髪に触れていた指先からまるで手品のように一枚の葉っぱを取り出す。

「別に、ただゴミがついていたから取ってあげただけ」

 ヒソカは呆然とするとキルア、そしてキルアとともにそばへやってきたゴレイヌに向かってそう言うと、はらりと葉っぱを地面へ落とし三人から離れていった。
 馬鹿野郎! は心の中で、ヒソカの背中に向かってそう叫んだ。締め付けられたせいで少しだけ痛む両手首を擦りながら、内心穏やかでないことを悟られないようキルアとゴレイヌへ笑顔を作り「ありがとう」と告げる。キルアはをちらりと見やると、ヒソカへ視線を戻し「アイツ、あんな親切なヤツだったか?」と眉を顰めた。
 自分を含む数合わせで集められたメンバー以外はヒソカの仲間なのだろうか――。キルアとゴレイヌを目の前にして浮かんだその考えを、はすぐに頭の中で打ち消した。アイツは群れる人間ではないし、カード集めのためにここにいるわけではないだろう。ヒソカの「楽しそうだから協力しようと思ってね」という言葉は彼の本心だとは思うが、それだけではない気がする。
 ヒソカから目を離さずにいたら、隣に立っていたゴレイヌが「気をつけろよ」とに声をかけた。
 
「え?」
「アイツは……まともじゃないからな」

 顔を上げると、ゴレイヌは先程までの彼女と同じようにヒソカの背中に視線を送ったままだった。そのまま彼の後ろに広がる空を見て、日没が近いことを悟る。

「……分かった」

 そう返事をしたはこう考えていた。そんなの、私の方がよく知っている、と。

◇◇◇

 がヒソカと初めて出会ったのは、彼女が二十歳になり初めて迎えた冬のとある日のことだった。
 その日の夜。は仕事の依頼人からもらった一枚の写真を元にターゲットを探し当て、隠れ家に忍び込んでいた。
 思い返すと、最初から様子がおかしかった。どんなに慎重に歩いても床が軋む古い家。昼にターゲットを確認したときには護衛が五人もいたというのに、家の中はひっそりとしていて歩く度に床が鳴っても人が現れる気配はない。
 まさか、もうここにはいない? いや、そんなはずは――。頭の中で自問自答を繰り返しながら、目の前に現れた扉を開ける。ぎいい、とこれまた軋む音を立てて開いたドアの先に広がっていた光景には目を見開いた。

「え、あれ……?」

 真っ先に感じたのは、鼻につく鉄の臭い。視線を落とせば、床には倒れた男たちと散らばった手足、そして首。はしばらく呆然としていたが、我に返ると答えが返ってくるはずもないのに「死んでるの?」と呟き首を傾げた。
 部屋の奥にある窓から差し込む月明かりを頼りに歩きながら、倒れている男たちの中からターゲットを探す。一歩一歩進むたびにぴちゃり、と血が飛び散る音がした。
 窓から一番近い場所に倒れていた男。かろうじて首と胴体は繋がっているようだが下半身はない。はそばに屈むと亡骸の髪を掴んで頭を持ち上げ、ポケットの中に入れていた写真と見比べた。左手に持つ写真の男はどこかのカフェで食事を楽しんでいる様子だが、右手で持った男の顔は、目玉は飛び出し口や鼻からは赤黒い血が滴り落ちている。そのあまりの差には頭を悩ませたが、顎のほくろが一致していることに気付き静かに息を吐いた。

「コイツだ、けど……」

 ターゲットが既に死んでいた場合って、お金もらえるのかな。ひょっとして自分以外にも雇われていた人間がいたのだろうか。
 そこまで考えたとき、ぴり、と空気が僅かに震えるのを肌で感じとったは咄嗟に写真と亡骸を手放すとその場から飛び退いた。
 今まで感じたことのない、身体中にじっとりとまとわりつくような殺気に自然と力が入る。先程まで自分が屈んでいた場所にトランプが数枚刺さっていることに気付いたは、部屋の入口付近に立っている男へと視線を向けた。

「すごいね、今の避けるんだ?」

 殺気に似たねっとりとした声。くつくつと喉の奥で笑いながら一歩前に進んだ男。は目を凝らし、月の白い光に照らされた男の姿を見た。
 ひょろりとした細長い身体にピエロのような出で立ち。細い瞳の奥には明らかに自分に対する殺意が滲んでいるが、同時に急に現れた女に興味を持ち、かつ実力を測りかねているようには感じた。

「誰に雇われたの?」

 聞きたいことは山ほどあったが、はまずそう尋ねた。男はに向かって投げたトランプと、が放り投げたターゲットの写真を血溜まりの中から拾い上げる。そして警戒するの前に立つと、ひらりと写真を差し出した。

「そういうキミは誰かに雇われてここに来たんだね」
「……そうだけど」
「ボクはただの趣味で殺しをしているだけだから、キミの商売敵じゃないよ」

 は写真を受け取ると男を見上げた。
 彼女がターゲットとこの隠れ家を見つけ、計画から実行に移すまでにかかった期間は五日。しかし普段はどんなに長くかかっても三日ほど。つまり、今回のターゲットは相当用心深い人物だった。そんな人間を、『ただの趣味』で殺せるだろうか。
 味方ではない。かと言って敵かどうかも微妙なところだ。先程よりも殺意の弱まった瞳と視線がぶつかる。

「じゃあ、これ私がやったことにしていい?」
「え?」
「私の仕事を勝手に横取りしたのはアンタなんだし……どうしてもって言うなら報酬の、四十……いや、三十パーセントあげる。どう?」

 そう言って首を傾げたあと、すぐに「やっぱり二十!」と訂正しピースサインを作った。そんな彼女に男は何度かゆっくり瞬きをしたあと、声を上げて笑った。
 狭く薄暗い部屋に響き渡った突然の笑い声と消え去った殺気。呆気に取られぽかんと口を開けただったが、無意識に警戒を解いていたことに気付き慌てて眉を顰め男を睨みつけた。

「何がおかしいのよ」
「いや? キミ、変わってるってよく言われるだろ」
「アンタに言われたくないんだけど」
「いいよ。キミの好きにしていいし、報酬もボクはいらない」

 が「本当?」と尋ねるのと、男が「代わりに」と唇に弧を描いたのはほぼ同時で、は息を呑んだ。

「キミの名前、教えてよ」
「名前?」
「ボクはヒソカ、よろしくね」

 いや、よろしくしたくないんだけど。は頭の中でそう独りごちながら男――ヒソカを見つめる。髪型や服装は好みではないが、よくよく見ると整った顔立ちをしている。黙って普通に生きていればさぞかし女にモテただろうに、なぜ殺人鬼みたいなことをしているのだろう。
 そんなことを考えたあと、はため息を零し諦めたように自身の名を呟いた。不思議と偽名を使う気分にはなれなかった。

……いい名だね、気に入った」
 
 ヒソカは笑った。まるで新しいオモチャを手に入れた子どものように、にんまりと。



 はもうヒソカと会うことはないと思っていた。同業者ならまだしも、趣味で人を殺すヒソカと仕事で人を殺す自分。二人の狙う相手が重なることはそうそうないと考えていたのだ。
 ところが予想に反し、二人はその日からしょっちゅう顔を合わせることとなった。が仕事を受け、入念に殺しの計画を練って実行に移す前にヒソカが『片付ける』ということが何度も続いたのだ。どこで情報を得るのか分からないが、ヒソカがわざと先回りしての仕事を奪い殺し回っていることは明確で、二人はしょっちゅう喧嘩した。とは言え怒るのはだけで、ヒソカはそんな彼女を見て楽しそうに笑うだけだった。
 そんな状況が一か月続いたある日の夜。その日は珍しく、ヒソカが現れたのはが仕事を済ませたあとだった。

「おや、今日のゲームはボクの負けのようだ」
「……そもそもアンタとゲームしてるつもりはないんだけど、こっちは」

 仕事が済んだら早々に退散したがるが、ソファに座り彼女の足元で息絶えている女を見つめたまま、冷めた様子でそう答えるのを見てヒソカは不思議に思った。いつもとはどうも様子が違うようだ、と。

「妊娠してたんだって」

 女から目を離そうとしないの言葉に、ヒソカは黙ったまま僅かに膨らんでいる女の腹へ視線を落とした。
 の今日のターゲットは、仕事上彼女と懇意にしていた雇い主の愛人だった。妻子持ちの雇い主は、恐らく愛人の存在が邪魔になって今回の依頼に至ったのだろう、とは推察していた。
 お腹の中に子どもがいるの、だから助けて。壁に追い詰められ泣きじゃくる女は、何度も助けてくれと懇願した。それに対しは「分かった」と頷くことも、「ごめん」と謝ることもせず、ただ、殺した。
 金持ちの愛人が住むにしてはみすぼらしいアパートの一室。明らかに高価なソファだけが異質な存在だった。
 滑らかな革張りを撫でながら、は「あーあ」と声を上げた。そんな彼女の隣にヒソカも腰を下ろす。

「私、子どもは殺さない主義だったんだけどな。まあまだ産まれてないけど」
「珍しく落ち込んでいるのかい?」
「別に。ただ、愛人の始末くらい自分でやれよなと思ってさ」

 は天井に向かってそうぼやいた。普段から自分の邪魔ばかりするヒソカをは憎たらしく感じていたが、さらに憎たらしいことに彼女がこんな愚痴を零せるのは彼だけだった。
 しん、と沈黙が流れる。明朝、雇い主がここを訪れて女の死体を確認すれば私の仕事は終わりだ。
 切り替えよう――。そう思いが立ち上がる直前、ヒソカが彼女の手を掴む。

「慰めてあげようか」
「は? だから、落ち込んでないって言っ――」

 がヒソカの手を振り払うより先に、ヒソカが上半身をぐいと彼女に寄せる。の黒い瞳が見開かれると同時に、二人の唇が重なった。
 しかしそれは一瞬の出来事で、ヒソカの唇はあっさりと離れていく。二人はしばらく至近距離で見つめ合っていたが、徐々に今起きたことを理解したは顔を顰め大声を上げた。

「げえっ! 何すんのよアンタ! ぺっぺっ、おえっ気色悪い!」
「……さすがに失礼じゃないかい? もっと色気のある声出せないの?」
「アンタの方が失礼でしょ! 最低、初めてだったのに……」
「あ、初めてなんだ?」

 の反応にがっかりしていたヒソカだったが、初めてと聞くや否やすぐに機嫌をよくしの指を絡みとった。その行為に、掴まれていない方の手の甲で唇を拭っていたの肩がびくりと跳ねる。
 はヒソカと初めて会った日、彼を見て整った顔立ちをしていると思った。その顔が今、自分の目の前に迫っていることに徐々に羞恥が込み上げてくる。

「ちょ、離れて、よ」
「せっかくだから、もっとすごいのしてあげるよ」
「な、やっ」

 慌てて立ち上がろうとしたをヒソカが制する。迫るヒソカを押し退けようと空いている片手で彼の首を狙うが、その手もヒソカに捕まりは為す術なく再び彼と唇を合わせた。
 僅かな隙間からぬるりと侵入してきた舌。はヒソカの舌を思い切り噛んだが、ヒソカは怯むどころか鼻で笑うと、さらにの咥内を荒らした。ゆっくりと広がる血の味と経験したことのない感触にいちいち反応するを、ヒソカは瞬き一つせずに眺めている。
 角度を変えて執拗に繰り返される口付け。きっとこの行為にはなんの意味もないし、なんの感情も含まれていない。はそう考えながら、なぜか胸が締め付けられるような気分を味わっていた。
 酸欠のせいか、気が遠くなりそうだ――。身を捩り苦しそうに「んん」とくぐもった声を漏らすに気付いたヒソカは、最後に彼女の舌を軽く吸ってようやく解放した。

「……ひ、ヒソカ……」

 息を荒くし、涙ぐんだ瞳で何かを訴えるにヒソカは僅かに動揺した。
 の想像通り、ヒソカ自身特別な思いがあって今回の行動に移したわけではない。単純に、をもっと怒らせたかったから。それだけだった。
 しかし、普段自分のことを「アンタ」としか呼ばないが初めて名を口にした。その事実にヒソカの食指が動く。


 
 ヒソカが彼女の服に手をかけたときだった。ヒソカが反応できないほどの素早さでが立ち上がる。

「かっ、帰る!」
「……は?」

 行き場を失った手を下ろすことなくそう呟いたヒソカを、は無視した。テーブルの脚に、倒れていた椅子に、カーペットの端につまずきながら入口へ向かうが、誤って物置らしき部屋のドアを開けては閉めるにヒソカはため息を零す。

「せっかく大人の階段を上るチャンスなのに、いいのかい?」
「……いい、余計なお世話」

 ヒソカを見ることなく、はきっぱりとそう言った。先程から心臓の動きがおかしくて、今にも倒れてしまいそうだった。
 ようやく辿り着いた部屋の出入口のドアを開けると、冷たい風が身体に吹きつける。いつもなら寒さに弱いは身を縮こまらせるところだが、火照った身体にはその冷たさが心地よかった。
 ソファに座ったまま、ヒソカがの名を呼ぶ。は振り返らない。

「……じゃあね」

 それはいつもと同じ挨拶だったが、にとっては今生の別れの挨拶だった。
 もう私は、ヒソカには会わない。ドアを閉めて錆びた階段を下りていく。幸いしばらく働かずとも生きていけるだけの蓄えはある。だからヒソカに会わないためにも、もうこの街で仕事はしない――。は早足で静まり返った街を進みながら、固くそう決意した。
 理由は二つあった。まずは事前に知らされていなかったとは言え、誕生するはずだった命の芽を摘んでしまったことに少なからずショックを受けているから。そして、ヒソカと深く関わりすぎてしまったから、だ。
 鮮明に残ってしまった記憶と柔らかな感触を打ち消すように、は腕でごしごしと強く唇を拭った。
 何かしら情が芽生えてしまうと、後々厄介だ。そう思いつつもの歩くスピードはどんどん遅くなり、とうとうその場で立ち止まった。そしてそのままゆっくり振り返る。

「馬鹿、変態、すけべ野郎」
 
 当たり前だがそこにヒソカの姿はない。強風が、地面に落ちている葉やゴミを運んでいく。自分以外誰もいない夜に向かってそう吐き出したあと、は再び歩き出した。
 その日以降、がヒソカと会うことはなかった。

◇◇◇

「何が恋人同士よ……」
「ん? 何か言った?」

 久しぶりに過去に思いを馳せていたは、斜め下から急に声が聞こえびくりと身体を震わせた。先程までスポーツ勝負に備えレシーブやアタックの特訓をしていた黒髪の少年、ゴンが大きな瞳でこちらを見上げている。
 いつの間に――。気付かぬ間にゴンがそばに来ていたことに驚きつつも、独り言をごまかすように「なんでもないよ」と手を振った。

「ねえ、お姉さんってさ」
「うん?」
「えっと、やっぱなんでもない!」
「何、それ」

 頭を掻きながら少し困ったように笑うゴン。そんな彼に対しが呆れたようにそう言うと、離れた場所にいたツェズゲラから集合の声がかかった。すっかり日も落ちたことだし、いよいよソウフラビへ向かうのだろう。これが終われば、私は現実世界へ戻るだけだ。行こう、と張り切った声を上げるゴンには頷いた。
 なぜゴンたちのような子どもがツェズゲラたちに混ざっているのか分からないし、間違っても協力するつもりはない。しかしひた向きに練習していたゴンの姿を目にしていたは、小さな声で「がんばってね」と呟いた。どうせやるなら勝ってほしい。そう思うのは、至極当然なことだろう。
 の小さな応援を受け取ったゴンは、嬉しそうに、元気よく頷いた。

「うん!」



 ソウフラビで始まったスポーツ勝負は、ボクシング、ボウリング、フリースローと順調に勝利を収め追い風が吹いているように思えた。しかしそんな状況も、仲間割れなのか相手チームの一人の頭が吹き飛んだことで一転する。
 飛び散った脳みそとともに倒れた男を見て一番最初に騒ぎ出したのは、と同じく取引によって数合わせのために集められた五人の男たちだった。ツェズゲラがうまく宥めるも、次のゲームであるドッジボールに数合わせのメンバーの中から二名が参加しなければならないことが分かると、口々に「話が違う」「帰る」などと叫び始める。
 まずいな――。はなからゲームに参加するつもりのなかったも、静かに焦りを感じていた。
 離脱のためには、勝負が終わるまでここに残らなければならない。しかしこの状況だと、数合わせの自分たちの中から誰かが参加しない限りゲームは進まないだろう。そんな思いを巡らせたままヒソカを見れば視線がぶつかり、は慌てて顔を背けた。
 結局、以外に数合わせで集められた男たちは逃げるように去って行ったが、ゴレイヌが念獣を二体具現化したことによって通常通りゲームは行われることとなった。当初の予定通り、ゲームに参加しないで済みそうだと安心したは、既に別ゲームを終えている男たちのそばに腰を下ろす。
 そしてコートの中へ向かうヒソカの背中を見ながら、ぽつりと言った。

「アンタのことは、絶対応援しないからね」



 ずっと腑に落ちなかった。しかし優勢と劣勢を繰り返しながら進むゲームを見ていて、ようやくは納得した。「楽しそうだから」とはまた別の、ヒソカが彼らに協力している理由。あの子どもたちだ。
 馬鹿だな、私。全然普通の子どもじゃないじゃん――。
 は全身がぶるりと震えるのを感じて自分の腕に目を向ける。鳥肌が立っている二本の腕を組んで、はは、と自嘲気味に笑った。
 ヒソカは気に入った相手には自分が飽きるまでとことん執着するタイプだ。きっとゴンとキルアも、いつどうやって彼と出会ったのかは知らないがヒソカの目に留まったのだろう。かつての自分がそうだったように。
 そしてはゴンとキルアの能力だけでなく、ヒソカにも驚いていた。いつも私の邪魔ばかりしていたアイツが、彼らと共闘している様子が信じられなかったのだ。
 ひょっとしたらこの数年でヒソカは変わったのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだときには、もうヒソカから目が離せなくなっていた。倒れたゴンに向かって飛んでいく念の込められたボールを、ヒソカがバンジーガムで弾き返す。単純に避けてしまえば勝てるはずなのに、わざわざゴンのために。
 そうだ。私、別にヒソカが嫌いだったわけじゃないんだよね――。
 歓声が上がり、ゲームが終了する。隣で両手を上げて喜ぶ男たちの隣で、は一人微笑んだ。

◇◇◇

「あ、お姉さん!」

 灯台の上で、無事に一坪の海岸線を手に入れたゴンがを呼ぶ。先に去ったヒソカを追うために階段を下りようとしていたが振り返ると、ゴンとキルアが立っていた。

「お疲れさま」
「もう行くの?」
「うん、離脱のカードももらったし現実世界に帰るよ。って、ここも現実世界だったみたいだけど」

 の返事にゴンは「そっか」と言うと、何かを聞きたげな様子で視線を彷徨わせた。不思議に思ってがキルアに視線を向けると、彼もよく分からないのか肩を竦めてみせる。

「どうしたの?」
「あのさ、お姉さんってヒソカと知り合いなの?」

 ゴンのその質問に最初に反応したのは、彼の隣にいたキルアだった。

「はあ〜? んなわけねぇだろ」
「……どうしてそう思うの?」

 確かに皆のいる場所でヒソカと言葉を交わしたが、そんなに親しく会話をしていたわけではない。なぜゴンが自分とヒソカのことを見抜いたのか不思議に思ったは、否定せずにそう尋ねた。キルアの言葉にゴンは自信をなくしたのか、「う〜ん」と悩ましげな声を漏らす。

「オレ、結構そういうの分かる方なんだけど、なんていうか……お姉さん、勝負が始まる前にヒソカと話してたでしょ?」
「まあ、少し」
「ヒソカはゴミを取ってあげただけって言ってたけど、なんかお互いに信頼し合ってるように見えたから」

 なんとなくだけどね、と付け加えて舌を出すゴンの肩を、キルアは「結局勘かよ」と言い肘で突いた。
 は予想外の「信頼」というゴンの言葉に思わず笑った。私たちの関係は、そんな綺麗な言葉で言い表せるものではない。

「気のせいだよ、本当にゴミを取ってもらっただけだから」
「うーん、そう?」
「うん。じゃあ私はこれで、ケガお大事に」

 急いで階段を下りていくの背中に向かってキルアはわざとらしくため息を吐くと、こう言った。

「アンタ、強いんだから少しくらい手貸してくれてもよかったのにさ」

 は振り返らなかった。ヒソカと知り合いということだけでなく、そこまで見抜かれていたのか――。そのことに、小さく苦笑した。



「ヒソカ!」

 森の中へと歩いていくヒソカの姿が見えて、は大声で彼の名を呼んだ。振り向いたヒソカの額には、ボールを受けたときにできた痛々しい傷が残っている。
 はヒソカの元に辿り着くと、膝に手をつき息を整えながら「なんで何も言わずに行くのよ」と咎めるように言った。

「先に何も言わずに消えたのはキミの方だろう?」
「それは、まあそうだけど……これだけは言っておきたくて」
「ボクのことが好き、って?」
「違う、馬鹿」

 大きく深呼吸をして、膝から手を離したはまっすぐヒソカを見つめた。数年前、初めて会ったときにはなかった頬のペイントがより一層彼のピエロらしさを際立たせている。

「変わったのね、アンタ。口では協力とか言いつつ引っ掻き回すかと思ってたけど」
もせっかくだから一緒にスポーツを楽しめばよかったのに」
「あれはもうスポーツじゃないでしょ……」

 海岸沿いということもあり風が強い。突如吹いた風で乱れた髪の隙間から、ヒソカの穏やかな瞳が見えては咄嗟に俯いた。
 今日はたまたま再会したが、ここで別れてしまえば恐らくもうヒソカと会うことはないだろう。もともと離脱を手に入れたらすぐに帰る予定だったが、なぜかカードを使用することに躊躇していた彼女はヒソカの手のことを思い出す。

「手、大丈夫? すごい音してたけど」
「ああ、指砕けちゃったけど、まあすぐに治るよ」
「見せて」

 そう言うと、ヒソカは素直に両手を差し出した。ありえない方向に曲がっている指にはそっと触れようとして、すぐに手を引っこめる。

「ま、勲章みたいなもんだよね……痛いだろうけど」
がハグしてくれたら早く治るかもしれないね」
「するわけないでしょ」
「そうかな?」

 ヒソカの返事にが眉を寄せたとき、腰の辺りに何かを感じて視線を下ろす。するとそこにはバンジーガムで覆われている自身の腰があり、は目を見開いた。そして慌てて顔を上げ口を開くと同時に、彼女の身体が目の前にいるヒソカの身体へと引き寄せられる。
 不意に密着した身体。咄嗟に両手で押し返し仰け反るも、ヒソカの手がの背に回る。二人の距離がゼロになったことで、の心拍数がどんどん上がっていく。

「積極的だねぇ、興奮しちゃうなあボク」
「ばっ馬鹿、最低! 離せ!」
「すっごくドキドキしているね、顔も真っ赤だ」
「う、う〜、むかつく……」

 殴ることもできたが、はもう一度「むかつく」と小さな声で言うと抵抗をやめた。そんな彼女の様子にヒソカは笑みを浮かべ、彼女に気付かれないようつむじに唇を落とした。
 人の身体って、こんなに温かかったんだ。はヒソカの腕の中でそう思った。誰かを殺すときに感じる身体や血の温もりは、命が尽きればすぐに失われてしまう。殺し以外で人肌に触れることのないにとって、こんなに長い時間誰かの身体に触れること、ましてや抱き締められることなど生まれて初めてのことだった。
 だからこそ、彼女の頭の中は安心よりも困惑でいっばいだった。ヒソカに対してなんの感情も持っていないし、持ちたくもない。そう思っていたのに――。

「……ん?」

 は違和感を覚えて声を上げた。お腹に、先程までなかった何かが当たっている。
 その『何か』を確認するために少しだけ身体を動かし下を向いたとき、それまでずっと黙っていたヒソカが熱い吐息を漏らした。

「ああ……気持ちいいよ、
「え、あ?」

 はヒソカの股間を凝視した。服の上からでもしっかり確認できるほど主張しているヒソカのそれ。経験のないが初めて見るには凶暴すぎるほど膨らんでいて、辺りに彼女の絶叫が響いた。

「なっな、なんてもん見せてくれてんだアンタ!」
「あんな熱いバトルのあとにに誘われたらこうなるのは仕方ないだろ?」
「誘ってない!」
「どうする? このまま森の中で……ってのもなかなか悪くないと思」

 ヒソカが最後まで言い切る前に、の手刀がヒソカの首に直撃する。両手の負傷もあってか反応が遅れたヒソカはその衝撃で念を解いてしまい、はその隙にヒソカから距離を取った。
 信じられない、変態野郎だとは思ってたけどまさかここまでだなんて――。ばくばくとうるさく鳴り続ける心臓、燃えるように熱い身体。離れた今も先程まで自分の腹に当たっていたヒソカのものの感覚が残っていて、はそれを打ち消すように腹を何度も手で擦った。
 やれやれ、と呟くヒソカは膨張している股間を隠すこともせず、堂々とした立ち姿で乱れた髪を掻き上げている。

「相変わらず素直じゃないなぁ……」
「うるさい! アンタそれ早くなんとかしなさいよ!」
「無理だよ、とヤるか誰か殺してこなきゃ」
「じゃあさっさと誰か殺、」

 そこで再びを違和感が襲う。頭に血が上って気付かなかったが、なんだか胸の辺りがすかすかすると言うか、重くなったような……。
 が自身の胸に触れると同時に、ヒソカが隠していた方の手をすっと上げた。その手には見覚えのある下着がぶら下がっており、それを目にした瞬間は両胸を強く押さえ声にならない悲鳴を上げる。

「あっ、あ、アンタ……!」
「油断は禁物、だね。へえ、意外と胸あるんだ?」

 先程まで両胸を支えていた下着。いつ、どのタイミングで抜き取ったのか、ヒソカはそれを口元へ近づけると、すう、と深く息を吸い込んだ。

「〜〜〜!」
「残念だけどボク、まだやることがあってね。ここでと追いかけっこしてる暇はないんだ」
「うるさい! 返せ!」
「次の再会は偶然じゃなく、ボクがに会いに行くよ」

 一番の楽しみは最後に取っておくものだろう? そう言って立ち去ろうとするヒソカをが追おうとすれば、彼女の顔面目がけてトランプが飛んでいく。はそれを避けながらどうにかして森の中を進んでいくヒソカを追うが、彼の「ついてきたら無理矢理犯すよ」というおぞましい一言にぴたりと足を止めた。
 怒りに震える彼女に向かってヒソカは「いい子だ」と笑う。そして深い森の闇に溶けながらこう言った。

「三度目はないよ。次は必ず、今日とあの日の続きをしよう」

 その発言と、初めて会ったときにも感じた自分へ向けられる殺気にはごくりと喉を鳴らす。
 少しでも変わったと思った私が馬鹿だった――。自らを襲う三度目の後悔には唇を噛む。
 ヒソカの気配と殺気が完全に消えたとき、の叫びが森中に響き渡った。

「ヒソカ! 殺す!」



三度目に抱くのは



(2023.09.08)