「イルミさんは、どんな花がお好きですか?」

 パドキア共和国、デントラ地区。街の中心部から少し離れた場所にある小さな花屋を訪れていたイルミは、花屋の主である女、にそう問われ顔を上げた。
 イルミは過去に何度もこの花屋を訪ねている。しかし、繁盛するどころか店に客が来ているところをイルミは今まで一度も見たことがなかった。確かに観光客が多い街ではあるが、暗殺者一家の邸宅がある山を見たいという物好きがわざわざ花を買いに来るはずはないだろうから、当然と言えば当然である。
 それなのに、店内はいつもこれでもかというほどの花で溢れていた。は銀色の花桶から白い花を一輪抜くと、返事をしないイルミに向かって話を続ける。

「肌が白いからどんな色の花も似合いそうですよねえ、小ぶりな花でも大きな花でも良さそうだし……」
「別に花なんかに興味ないよ」

 あってもなくてもいい存在に何か特別な感情を抱くことはない。それは育った環境に起因しているだけではなく、彼自身の生まれ持った性格とも言える。
 素っ気ない答えにきょとん、と目を丸くする。そんな彼女にイルミは一枚の写真を差し出し、こう言った。

「無駄口叩いてないで、さっさとしてくれない?」

 何とも冷たい言葉だが、は臆することなく写真を受け取ると「相変わらず手厳しいなあ」と言い、花のように笑った。

 
 常に閑古鳥が鳴いている花屋をたった一人で経営していけている理由は、の念能力にあった。
 家は古くからゾルディック家お抱えの情報屋として仕事をしている。すでにの両親、祖父母は他界しているが、全員が情報収集に関係する能力を持っており、その中でもの能力は群を抜いていた。

「ええと、お名前と生年月日は……」
「裏に書いてるよ」
「承知しました」

 は細長い花屋の奥にあるレジ横の椅子に座り、小さな古い木製のカウンターに写真と一枚の紙を置いた。右手には、先程イルミと会話しているときに抜いた白い花。カウンターを挟んで置いてある椅子にイルミも腰を下ろすと、腕を組んで静かにを見つめた。
 ターゲットの写真と名前、そして生年月日。が使用するのはこの三つだけである。紙に翳した白い花にオーラを纏わせていくの瞳は、淵底を覗いているかのような深い黒へと変化していた。
 使用するもの同様、が視て得る情報も主に三つだった。ハンター専用サイトにも載っていない情報、そしてターゲットが今一番望んでいるもの、一番大事にしているものの情報だ。もちろんものではなく人や信念の場合もあるが、大抵の人間は希望と心の拠り所を同時に奪えば簡単に壊すことができる。単純な殺しでは通用しない仕事の際、それらの情報が有用になるのだ。
 虫一匹殺したこともなさそうなこの呑気な女が、僅かなデータと花一輪で人を絶望の淵に沈めることができる。花に興味がなく、以前聞いた花言葉が「真実」らしい白い花の名前を忘れてしまったイルミだったが、彼にとっては有益な存在であった。
 白い花が蝋のように溶けて紙に文字が浮かび上がる。その瞬間、花の香りが一層強くなった。イルミが瞬きひとつしての目を見れば、それはいつもの深緑色に戻り光が宿っていた。
 は顔を上げた。そして視線を落とすことなく、目の前のイルミに紙を差し出す。

「できました」
「うん、じゃあ報酬はいつも通りに」
「あ、イルミさん」

 ドアを押して店を出ようとすると同時に、が「待って」とイルミを呼び止めた。振り返ると、小さな青い花を持ったとイルミの視線がぶつかる。

「これ、どうぞ」
「いつも言ってるよね、いらないって」
「私が差し上げたいんです」

 昔から、はイルミと別れる際に必ず花を一輪渡していた。そして口では「いらない」と言いつつも、イルミはそれを受け取るようにしていた。
 イルミ十歳、八歳のときの話だ。母親とともに初めてゾルディック家を訪れたは、初対面のイルミへ花を贈った。子どもが片手で持てるほどの、小さなブーケだった。
 ゾルディック家の人間とは言え、互いに歳も近いため友達にでもなれると思ったのかもしれない。期待に満ち溢れた目をしたと彼女が持つ花を交互に見やったイルミは、真っ黒な瞳でまっすぐを見据え首を横に振った。

「いらない」

 イルミのその言葉に、驚いたように目を見開いたは顔をくしゃくしゃにして泣いた。きっと今まで自身の好意を拒まれたことがなかったのだろう。イルミはの泣き顔を見ても何も感じなかったが、そばで一部始終を見ていたキキョウから「女性からの贈り物を無下にしてはいけません」と叱責された。後に聞いた話だが、このときすでには能力を開花させており、キキョウをはじめシルバやゼノからも可愛がられていたらしい。
 当時、両親の言葉は絶対だったイルミは、鼻をすするの手から無言でブーケを受け取った。そしてもちろん、彼女が帰った後にごみ箱へ捨てた。
 贈り物を無下にするのは良くない、ってのはまあ分かるけど、いらないと断り続けているものをいつまでも贈ってくるってまあまあ性格悪いよな――。
 そう思いながら、イルミは小さくため息を零す。がいつも決まってイルミに差し出す青い花。これまた名前は忘れたが、「勝利」という花言葉を持つらしい。渋々受け取ると、は目を細めにこりと微笑んだ。

「今日もイルミさんのお仕事が、うまくいきますように」

 仕事とはつまり殺しなのだが、こんなにも無垢な笑顔で殺しを応援するだなんて性格が悪いと言うより単純に狂っているのかもしれない。
 の言葉に応えることなく店の外に出ると、植物の香りが消え風に吹かれて舞う土埃のにおいがした。この店に来ると些か気が抜けるのは、香りも関係しているのだろうとイルミは思う。広い樹海の庭を持つ彼にとって、植物の香りは数少ない心をほぐすものの一つなのである。
 時刻は十八時。もう少しすればこの辺りは深い闇に包まれるだろう。受け取った紙に目を通し、手の中でくしゃりと握り潰す。それをポケットに入れて、もう片方の手で持っていた小さな花をイルミは地面へと捨てた。



 今日はボクの奢り。そう言って怪しい笑みを浮かべるヒソカに、イルミは空色のカクテルに口をつけたまま眉を顰めた。

「もう飲んじゃったんだけど、後出しはやめてよね」
「やだなぁ、この前紹介してくれた情報屋の礼だよ」
「情報屋?」

 そう聞いてイルミの頭に思い浮かぶのは、腑抜けた顔で笑うの姿である。現時点で、情報は家族を除けば彼女からしか買っていない。イルミの反応にヒソカは瞬きをいくつかしたあと、少し呆れた様子で「忘れたのかい?」と言った。
 ブルーキュラソーで作られたカクテルは柑橘系の風味で、そのすっきりとした酸味によってほどよく舌と脳が痺れていく。半分ほど飲んだところでイルミは数か月前のことを思い出した。そういえば前にこうしてヒソカと酒を飲んだ際、いい情報屋を知らないかと聞かれのことを教えた気がする。そして本人にも「ヒソカという男が行く」と伝えていたことを思い出したイルミは、「ああ」と頷きながらカウンターにグラスを置いた。

「そういえば教えたね、思い出したよ」
「彼女、良かったよ。おまけでついてくる情報も興味深いね」

 ヒソカは宙に文字でも書くように指を滑らせながら、歌うように言った。そして何より美人だ、と。イルミは頬杖をついたままヒソカの両頬に描かれた小さなマークを見つめる。美人かな? と呟けば、ヒソカは相変わらず何を考えているか分からない顔をこちらに向けてにんまりと笑った。
 どちらかと言えば、ヒソカの言葉通りは美人の部類に入るのだろう。丸くて大きな瞳は多少子どもっぽいが、右目の下にある小さなほくろのおかげで妖艶に見えないこともない。幼い頃、髪も手足も短く少年のようだったは、年月を経て女らしい丸みを帯びた身体へと成長していた。
 心の内で美人であることは認めていても、それを他人の口から聞くと認めたくなくなるらしい。イルミは「普通だよ」と答えてカクテルを飲み干し、バーテンダーに同じものを注文した。
 しばらくしてイルミはヒソカの名前を呼んだ。ヒソカはカクテルに添えられていたさくらんぼを口に入れているところだった。

「なんだい?」
「情報屋ってあまり他人と共有したくないんだよね。あれは一応ゾルディック家お抱えの情報屋だから、直接依頼は今後なしにしてくれる?」

 どうしてものときはオレを通してよ。イルミがそう言うと、ヒソカはもごもごと口を動かすことを止めてバーテンダーからカクテルを受け取るイルミを意外な目で見つめた。キミがボクに紹介したんじゃないか。声には出さず頭の中でそう呟いたあと、ヒソカはイルミに向かってべえ、と舌を出して見せた。その上には蝶々結びされたさくらんぼの果柄が乗っている。

「随分とお気に入りなんだねぇ? 尚更興味、湧いてきちゃったな」

 パリン、という乾いた音がした。ヒソカは笑みを崩さないまま、イルミの漆黒の瞳から割れたグラスを持つ彼の右手へ視線を下ろしていく。そしてさらに下を見れば、誰の口にも触れることのなかったカクテルがぽたぽたと滴り落ち、床に小さな染みを作っていた。
 弟のキルアほどではないようが、あの情報屋の彼女も鍵のような役割を担っているらしい。イルミの理性を保つための、鍵――。
 割れたグラスを拾うことも溢れたカクテルを拭くことも、刺さったグラスの欠片で出血している右手を気にすることもしないイルミに向かって、ヒソカは両手を上げた。

「冗談、冗談。彼女……、だっけ? イルミの大事な子に手を出すつもりはないから安心していいよ」

 ま、今あるオモチャで満足できなくなったら、そのときは分からないけど。頭の中でそう唱えるヒソカに対し、イルミは首を傾げる。

「え、大事な子ってなに?」

 ヒソカは苦笑した。そうするしかなかった。


 
 花屋の出入口のドアにはベルが取り付けられている。そのためドアが開くと音が鳴りすぐ来客に気付くことができるが、その日のはイルミが店を訪ねても、振り返ることなく屈んで背を向けたままだった。
 の背後に立ち、彼女を見下ろす。花桶の水を替えている途中で荒れて赤くなっている手を擦り合わせていたが、急に現れた影と上から垂れてきた黒髪でイルミの存在に気付いたようだ。屈んだままの姿勢で顔を上げたは、えへへとはにかんだ。

「イルミさん、こんにちは」
「何、その手」

 イルミにそう問われると、は両手を握ったり開いたりして「花屋の宿命ですよ」と言った。
 花屋という商売は華やかに見えるが、実際には冷たい水や土、花を触ることの繰り返しでとにかく手が荒れるのだ、とは言う。
 大変だ大変だと口にしながら、重い花桶を細腕で抱えるがイルミは不思議で仕方なかった。そんなに大変なら辞めればいいだろう。客なんて滅多に来ないんだし、情報屋の仕事だけでやっていけるくらいの報酬は渡しているはずだ。実際に何度かそう言ってみたこともあったが、決まっては口を尖らせてこう言うのだった。

「嫌ですよ。私、花が好きですもん」

 今日は普段より店内の花の数が多い。そのことにイルミが気が付いたとき、は「さてと」と小さく呟くと、いつも通りレジ横に腰を下ろし両手を出した。

「今日のご依頼は?」
「今日は仕事で来たわけじゃない」
「……ええっ!」

 大袈裟に驚いたが立ち上がり、その勢いで椅子が後ろに倒れる。おろおろと狼狽するが「お茶を淹れてきます!」と奥に引っこもうとしたのをイルミは止めた。

「長居はしないから」
「え、ただお喋りに来たわけじゃないんですか……」
「そんなわけないだろ」

 イルミの言葉に、は分かりやすくがくりと肩を落とし落胆の色を見せる。のろのろと倒れた椅子を元に戻す様子は酷く間抜けで滑稽だったが、イルミは早速本題を切り出した。

「ヒソカ、来たでしょ?」
「あ、来られましたよ。さすがイルミさんのお友達、とてもお強そうな方ですね」
「今度から必ずオレを通してもらうことにしたから」

 もし直接来たら、追い返していいよ。イルミはそう言うと長い髪をかき上げてぐるりと店内を見渡した。
 ヒソカは友人でもなんでもない、利害が一致したときや互いが必要なときに行動を共にすることがある、ただそれだけの男だ。だから彼がどういう人間なのか、実を言うとイルミはあまり知らない。でもこれはただの勘だが、ヒソカは自分よりも花に詳しいような気がした。ひょっとしたらと花の話で盛り上がったりしたかもしれない。
 イルミの言葉にはでも、あの、とぶつぶつ呟きながら戸惑っていたが、しばらくして渋々と頷いた。彼女が了承したことを確認して踵を返したイルミを、は慌てて呼び止める。

「イルミさん、お花を――」

 懲りないな。そう思いつつ振り返れば、の手にはいつもと違う花が握られている。イルミが口を開くより先にが笑った。

「今日は母の命日なんです。なんとなく一人でいたくなかったので……イルミさんが来てくれて嬉しかったです」

 花弁が大きく開いた濃い桃色の花。それを受け取ると、は微笑んで静かに目を伏せた。初めて見る、どこか翳りのある笑みだった。
 所謂裏方の情報屋が前線で戦うことはまずないが、命を狙われることは少なくない。実際にの母親も命を狙われ殺された。イルミは母親の葬儀で肩を震わせながら涙を零すと何か言葉を交わした気がするが、一昔前のことなので詳細を覚えていなかった。
 そう、彼女の母親が死んだのは一昔前なのだ。イルミは遠い過去を振り返りながらいつもより物静かなを見下ろした。毎年、母親の命日になるとは普段より多く花を仕入れ、普段とは違う笑みを浮かべていたのだろう。荒れた手で、一人きりで。そのことを、イルミは今日初めて知った。
 気が付けば、イルミはの手を握っていた。男の自分の手よりあかぎれやささくれの目立つ、冷たい手。その手からへ視線を移すと、驚きと困惑、そして羞恥の入り交じった顔でイルミを見つめている。

「手くらい、ちゃんと綺麗にしておきなよ」
「あ、はは、はい……」
「ねえ、一つ聞きたいんだけど」

 はきゅっと唇を引き結び、イルミを言葉を待った。

さ、ヒソカにも花あげた?」
「……差し上げていませんよ」

 震える指先が、とても弱々しい力でイルミの固く長い指を絡みとる。

「私が花を贈る相手は、今も昔もイルミさんだけです」

 その日、イルミははじめてからもらった花を捨てなかった。一輪の花とともに帰宅した息子を見て喜んだキキョウは、彼から花を奪い取ると一輪挿しに入れて食卓の真ん中に飾った。
 何か勘違いをしているかもしれない。変に浮かれている母親に対してそう感じたイルミだったが、機嫌がいいに越したことはないだろうとあえて何も言わなかった。



 が死んだことを聞かされたのは年の瀬のことだった。
 新しい年を清々しい気持ちで迎えたい。そのために、自分にとって不必要、また邪魔なものは年が変わる前に排除したい――。そう考えるのは人間の心理なのだろう。ゾルディック家にとって、十二月は一年で一番の繁忙期だった。
 家族全員が馬車馬のごとく働き、他国での仕事が続いたイルミが自宅に戻ったのは国を出て二週間後のこと。帰宅してまず報告のためにシルバの元を訪れた際、父親の口から出たのは労いの言葉ではなく「が死んだ」という一言だった。

「あ、そうなんだ」

 あっけらかんとしている息子を目の前に、シルバは腰を下ろしたまま目を閉じて息を吐いた。一昨日の夜にの花屋が燃えたこと、放火の可能性が高いこと、そして焼け跡から性別不明の遺体が見つかったことを告げる。
 彼女には両親も兄弟もいない。本人と連絡がとれない以上、遺体はとして処理される。

「当分の間はミルキに情報収集を任せる」
「分かった、異論はないよ」

 じゃ、次はこっちの話。そう言ってイルミは他国で続いた仕事の報告を始めた。その国の情勢を交えて話す彼の口からは時折から手に入れたであろう情報も含まれていたが、イルミは全く顔色を変えることなく淡々と話を続ける。そんなイルミの話にシルバは黙って耳を傾けていた。
 どんなに自分たちに有益な人間であったとしても、死んだ者に思いを馳せることはしない。それがゾルディックだ。
 キキョウが一輪挿しに飾っていた花はいつの間にか食卓から消えていた。
 

 その日の深夜、イルミは山を下りた。の花屋があった場所を見ておこうと思ったのだ。特別な意味や興味があっての行動ではない。単純な、ただの彼の気まぐれだった。
 寝静まった街を一人歩くイルミの身体に容赦なく山からの颪が吹きつけ、彼の長い黒髪を揺らした。ひっそりとしている街はまるで死んでいるようだ、とイルミは思う。
 花屋は跡形もなく焼失していた。風が吹くたびに燃えた木材から黒い灰が舞い上がる。古い木造の建物、おまけに中は植物だらけ。さぞかしよく燃えたことだろう。立入禁止と記された規制線をイルミは跨ぐと、いつもが座っていた場所に立ち足元へ視線を下ろした。

「いらっしゃい、イルミさん」
 
 そう笑いかける彼女は、もういない。

「だから言っただろ」

 イルミはそう呟いてすぐ「ん?」と首を傾げた。だから言っただろ、って、なんだっけ。疑問を抱く彼の頭の中に、なぜか大粒の涙を流すの顔が浮かぶ。
 その場に立ち尽くししばらく考え込んでいたイルミだったが、仕事続きだったことを思い出し早く休もうと夜の闇へ消えていった。



「花?」

 新年を迎え、二か月が経とうとしていた。
 仕事を終え、帰宅したイルミを出迎えた執事から自分宛に花が届いていると聞かされたとき、思い当たる節が全くなかった彼はもう一度「花って、なに」と呟いた。そのイルミの反応に、執事は若干戸惑いの表情を浮かべる。しかしすぐに、送り主も不明であるためこちらで処分する、と告げて頭を下げた。

「いや、いい」
「はい?」
「持ってきて」

 長年暗殺者として生きてきたイルミの勘。彼が花を捨てずに持ってこいと指示した理由は、その勘だけ。しかしイルミはすでにこの時点で、自分の勘が正しいことに気付いていた。
 執事が運んできたのは、イルミにとって馴染みのある青い花だけで作られた花束だった。手にとった瞬間に感じる懐かしい香り。よく見ると、花と花の間に小さく折り畳まれた一枚の紙が挟まっている。イルミは指先でそれを取り出し、開いた。

 
「お前も弱いままだといつかこうなるよ」

 母親の墓前で泣き続けるの背中に、イルミはそう声をかけた。ゾルディック家と敵対する殺し屋に狙われ、悲惨な死を遂げたの母親。そんな母親の死に顔を見て怖気付いたであろうは、きっとこう考えたはずだ。ゾルディック家との関係を絶たなければ、自分も同じ運命を辿ることになる、と――。
 しかしオレたちが黙ってそれを認めるはずがない。イルミはこのとき、手元に針を隠し持っていた。場合によってはに針を刺せ、判断は任せる。シルバからそう指示されていたのだ。
 一歩、また一歩、に近付いていく。イルミがの真後ろに立ったとき、項垂れていた彼女はゆっくり立ち上がり振り向いた。涙で濡れた二つの瞳がイルミを捉える。自然と針を持つ手に力が入るが、自分を見つめる瞳に滲んでいるものが恐怖ではなく覚悟であることに気付き、イルミは僅かに眉を上げた。

「私は母のようにはなりません。もしこの先、誰かが私を殺しに来たら――」

 強風がざわざわと辺りの植物たちを揺らす。イルミとは、互いの伸びた髪が風で舞うのも気にせずに強く見つめ合った。イルミが針を持つ手の力を緩めると同時に、ぽろりとの目から涙が落ちる。これは、イルミが見た彼女の最後の涙だった。

「私はそいつを殺します。私を狙ったことを後悔するように、生きたまま、燃やしてやります」


 執事は思わず目を見張った。ゾルディック家の執事として教育を受け、並大抵のことでは動揺しない彼が戸惑うほどイルミが声を上げて笑うことは珍しいことだった。

「あーあ、なるほどね。騙されちゃったな」

 は、生きている。
 焼け跡から見つかった性別不明の遺体。あれはではなかったのだ。放火ではなく、彼女が自ら火を放ったのだ。
 恐らく自身の住処が漏れている以上、あそこには住めないと判断してのことだろう。とは言えあれほど花が好きだと言っておきながら、自分を狙った相手とともに躊躇なく全てを燃やしてしまうあたり、やはり彼女は狂っている。オレたちと同じように。
 ぞわ、と部屋の空気が揺れる。こんなに感情が高ぶるのは久しぶりだ、とイルミは感心した。天井を仰いでいた彼は、もう一度手元の紙に視線を落とした。
 書式は今までに何度も見てきたものと同じで、記されていたのは三つの情報。その中の今一番望んでいることと一番大事にしているものの項目には、どちらにもイルミの名前が記されている。
 長い付き合いでそれなりにそばにいる時間も多かったはずなのに、が自分自身を視ることができるということを、イルミは初めて知った。
 イルミに「ねえ」と声をかけられた執事はびくりと肩を震わせた。

「はい、イルミ様」
「父さん、いる?」
「シルバ様は自室にいらっしゃいます。恐らくキキョウ様もご一緒かと」
「あ、母さんも一緒なの。なら話は早いや」

 イルミはいつもの無表情でそう言うと、花束を持ったままシルバの元へと向かった。のことを可愛がっていたあの二人のことだ。彼女が生きていると知れば、そして今、イルミが心の内で決めたことを伝えればきっと喜ぶはずだ。
 次に会ったときには、もう一度この花の名前を聞こう。それか、自分から彼女に花束を渡そうか。
 両親の元へと急ぐイルミが穏やかな表情を浮かべていたことは、誰も、本人ですら知らない。


常闇に



(2023.08.19)