答えは掌のなか
いつもと変わらない一日のはずだった。
いつも通り任務をこなし、いつも通り報告書を提出し、いつも通り硝子さんのところに寄ってから帰ろうと思い高専の廊下を歩いていたら、たまたま通りかかった部屋のドア近くに死体が転がっていて思わず二度見した。
「何……? え? 嘘でしょ」
ぴくりとも動かず、うつ伏せに倒れている男を見下ろしてそう呟く。死体は上下黒の服を着ていて、制服でもスーツでもないあたりどうやら術師のようだ。
他殺、自殺、もしくは突然死。その三択のうちのいずれかだとして、そもそもこういう場合まず誰に連絡するべきだろうか。高専に消防やら警察やらを呼んでも良いのだろうか。
と、思考を巡らせていたそのときだった。
「う……」
「うっ」
軽い呻き声が聞こえたと同時に男の指先がぴくりと動き、驚いて間抜けな悲鳴が口から漏れる。死体じゃない、生きてる。
「ね、ねえ、大丈夫?」
「やべ、寝落ちた……」
「こんなところで寝ないでよ……」
寝落ちたって。人がせっかく心配したのに。
安堵と呆れからため息を零すが、男は目を覚ましたにも関わらず指先を僅かに動かすだけで立ち上がろうとしない。さすがにおかしいと思い、男の顔のそばに屈んでもう一度「大丈夫?」と先程より大きな声で尋ねる。そこで男はようやく私の存在に気づいたらしく、錆びついたロボットのようにぎぎぎと顔を動かして私を見上げた。
「あ、、サン……」
「はい、です」
名前を呼ばれ、少しだけ驚いて男の顔を見つめる。私はこの男のことを知らない。でも彼は私のことを知っているようだ。
歳は私とそう変わらなさそうだし、何かのタイミングで会ったことがあっただろうか。茶色い前髪の隙間から覗く小さな傷を眺めながら記憶を遡ってみるが、すぐにハッとする。
「立てないみたいだけど、ひょっとして具合悪いの?」
「いや……術式の関係でしばらく動けなることがあるんす」
「なるほど。ここまではどうやって?」
「伊地知さんたち補助監督に……運んでもらって……」
そう話しながら力なく笑う男の口元が切れて血が滲んでいることに気づき、私は彼の腕をとった。
「ちょうど今から硝子さんのところへ行くとこだったんだ。一緒に行こう」
「でも俺、動けないっす……それに大した怪我じゃ、」
「君一人くらい担げるし、小さな怪我でも油断しない方が良いと思う」
うつ伏せに倒れている男の身体を横向きにし、座って足を自分の足と絡めれば彼は慌てたように「んなっ」と声を上げた。確かに初対面の男女がとる体勢ではないよな、と思いつつ、彼を自分の背に乗せてそのまま立ち上がる。以前YouTubeで見た倒れている人の背負い方の知識がこんなところで役に立つとは。それなりに重いが、医務室まで運べないことはない。行くよ、と言えば、耳元ですんません、と些か上擦った声が聞こえて、ほんの少しくすぐったく感じた。
「あれ、猪野じゃん」
医務室のドアを開けると、硝子さんが私の背に担がれている男を見てそう言った。猪野。やっぱり聞いたことのない名前だ。
「術式の影響で動けないらしくて、倒れてたんで連れてきました。怪我もしてるみたいなんで診てもらえます?」
「女性に……しかもサンに運ばれるだなんて、もう俺嫁に行けないっす……」
「軽口叩く余裕があるなら大丈夫だな。そこに置いて」
硝子さんが指さした一番手前のベッドに彼、猪野くんを下ろす。一息ついて肩を回していたら、隣に立った硝子さんが休憩していくか、と聞く。
いつもなら任務が終わったら医務室のベッドで休憩したり仮眠をとるところだが、隣に他人が寝ていたら落ち着いて休めないしな。私は笑って首を横に振った。
「今日はやめておきます。じゃあ、彼のことお願いします」
医務室を出る直前、猪野くんの声が聞こえた気がしたが特に気にせずドアを閉める。今日の晩ごはんは何にしようか。いいことしたし、ちょっと奮発しておいしいものでも食べに行こうか。そんなことを考えながら私は家路についた。
同じ高専所属の術師とはいえ、猪野くんとは今日まで会ったこともなかったのだ。だから今後もそんなに関わることはないだろう。という予想が外れるだなんて思いもせずに。
▼
いつもと変わらない一日のはずだった。
いつも通り任務をこなし、いつも通り報告書を提出し、いつも通り硝子さんのところに寄ってから帰ろう、と考えたそのとき。
「サン!!」
「……ん?」
後ろの方から私を呼ぶ大声が聞こえて振り返ると、ものすごいスピードで近づいてくる黒い塊が見えて思わず身構える。まさか高専内に呪霊が、と疑ったのはほんの一瞬のことで、目の前でぴたりと止まった見覚えのある彼の姿に私は「ああ」と言って拳を下ろした。猪野くんだ。
「元気になったんだね」
「その節はマジでありがとうございました! サン、力持ちっすね! 今日はもう終わりですか?」
「追加案件もないみたいだし、一応終わりかな」
「じゃあ、このあと良かったら一緒に飯でもどうすか? この間のお礼もしたいんで」
ニカッと太陽のような笑みを浮かべながら早口でそう話す猪野くんに眩しさを感じる。この間は分からなかったが、術師にしては珍しいバリバリ体育会系の根明男子って感じだ。
「お礼なんて気にしなくていいのに」
予想外の誘いに、私はこちらをまっすぐ見つめる彼の瞳から逃げるように目を伏せた。そんな私の反応を見て、猪野くんは即座に「んじゃ飲み物でも奢らせてください」と私の顔を覗き込んでくる。
普段から周りと一線を引いている私とは真逆なタイプだ。すぐに、そして柔軟に誘い方を変えられるあたり、他人との距離を自然に詰めるのが上手なのだろうな、と素直に感心する。
まあ、せっかくの厚意を無下にするのも失礼か。飲み物を奢ってもらうのなら、そこまで親しくない彼と二人で食事に行くよりハードルも低いだろうし。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「っしゃ」
私の返事を聞いて小さくガッツポーズした猪野くんに、思わずふっと笑みが零れた。なんだろう、少し子犬っぽさを感じる。彼の黒い帽子とお尻に耳としっぽが生えていても違和感なく受け入れられそうだ。そんな本人には言えないことを心の内で思いながら、私たちは医務室とは逆方向にある休憩室に向かって歩き出した。
▼
それがまあ、始まりだったわけです。
まるで怪談でも始まるかのような私の説明に、背を向けて机に向かっていた硝子さんはギイ、と椅子を鳴らして振り返った。こうして彼女と二人きりで会話をするのは随分と久しぶりのことだ。
「最近噂になってたもんな、猪野とが休憩室でデートしてるって」
「私はそんなつもりなくて、」
「でも向こうは違ったんだろ」
いいじゃん、猪野。硝子さんはあっさりそう言うと、ボールペンをカチカチ鳴らしながら手元の書類へ目を落とす。私は小さくため息を零し、枕を抱えたままベッドに倒れ込んだ。
猪野くんの『お礼』は一回では終わらなかった。
顔を合わせる度に飲み物を奢らせてほしいと迫る猪野くんに何度ももう十分だと伝えたが、最低でも十回はお礼しないと納得いかないと食い下がる彼に押される形で付き合うこと計十回。お互いに忙しい身であるのでその十回の間に季節は変わり、奢ってもらう飲み物も冷たいものから温かいものへと変化していったわけだが、その最後の十回目に猪野くんから突如「俺で良くないっすか」と言われたのだ。
「何の話?」
「サンの好きな男のタイプ。常識があって仕事に理解がある人、でしょ? それならもう俺が彼氏で良くないっすか。頭は良くないけど、こう見えて常識人だし、同じ術師だし……」
そういえばお礼八回目のときに、好きなタイプについて聞かれたっけ。そんなこと聞いて何になるんだと思いながら、適当に答えた覚えがある。そのことを思い返しながら、隣に座りペットボトルのラベルをぴりぴりと剥がす猪野くんへと目を向ける。
一級術師の七海さんが格好良かったとか、最近良い感じの古着屋を見つけたとか、高専内で暮らしている猫がようやく撫でさせてくれたとか。いつものような他愛のない話をするときとは全然違う、明らかに緊張した横顔。ほんのり赤く色づいた耳たぶが目に入る。
「なんつーか、俺はサンより二個下ですけど、でもメチャクチャサンを幸せにする自信があるっつーか」
あ、これ。冗談とかじゃなくて、本気のやつだ。
そのことに気づいた途端、ぶわっと一気に顔が熱くなり持っていたロイヤルミルクティーの缶が手から滑り落ちた。幸い飲み切っていたので中身が零れることはなく、カラカラと軽い音を立てて転がったそれを猪野くんが拾う。そして彼の視線が上がって来る前に、私は慌てて立ち上がった。
「……硝子さんに呼ばれてたんだった」
「へっ」
「えっと、ご、ごちそうさまでした、おいしかった」
「え!?」
休憩室のドアを蹴破る勢いで飛び出し、びゅんっと走り去る私の背中に猪野くんの声が刺さる。それはお礼十回目、そして今からほんの十分前の出来事だった。
さすがに逃げるのはありえないな、と逃げたあとに後悔している自分が情けなくて、私は枕に何度も顔を押し当てた。くす、と笑う声が聞こえて目線だけを上げると、相変わらず書類と向き合っている硝子さんが静かに微笑んでいる。
「……どうして笑うんですか」
「いや? 普段冷静なのそんな顔、貴重だなと思ってね」
「私、どんな顔してますか」
「可愛い顔」
「……可愛くないですよ、私は」
そう返すと、硝子さんは私に目を向けてもう一度「可愛いよ」と言った。こそばゆい気持ちに耐えきれず、固く口を結ぶ。仕方ないじゃないか。こういう展開、慣れていないのだから。
正直嫌われてはいないだろうとは思っていたが、かと言って特別な感情を向けられているとは思いもしなかった。目を閉じれば、猪野くんの赤く染まった耳たぶと緊張で強ばった横顔が頭にちらついて心がざわつく。
術師になってからは特に、他人とはある程度の距離を保って生きてきたつもりだ。でも猪野くんからのお礼が五回を超えたくらいから、彼との境界が曖昧になっていくと同時に今まで他人といて感じたことのない心地良さのようなものを感じるようになっていた。でもそれはあくまで、猪野くんのコミュ力が高いからだ。別に私自身は、彼に対して特別な想いを抱いたりなんて。
「痛っ」
「ほら、出てけ出てけ。今日は夜、学長と会食なんだ」
寝ている私の頭をバインダーで叩いた硝子さんにしっしっと追い払われ、私は医務室を出た。このまま帰るのはさすがに後味が悪い。とりあえず逃げたことだけでも謝らないと、とは思うものの、いざ猪野くんと顔を合わせたら何をどう切り出して良いかが分からない。憂鬱な気分であてもなく廊下をさまよっていたら、「猪野さん!」と誰かの声が聞こえて、頭の中を埋めつくしていた人物の名前に思わずぎくりとする。
気配を消して廊下の先を窺う。そこには猪野くんと、補助監督の白藤さんの姿があった。
「見てください、髪型変えたんですよ」
「……うわ、マジだ」
「どうです? 似合ってます?」
「あー似合う似合う、可愛い可愛い」
ふと、つい先程硝子さんから言われた「可愛い」という言葉が頭を過る。そうだ。本来「可愛い」という言葉は、私みたいな愛想が悪い人間に使われる言葉じゃない。頑張り屋で、いつどんなときでもニコニコしている白藤さんみたいな子に使う言葉だ。
だから猪野くんの隣に立つのは、ああいう子がふさわしい。
「……あ、さん!」
ぼんやりとその場に立ち尽くしていたせいで気づかれてしまった。私の名を呼んだ白藤さんが嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくる。彼女の奥で驚いたように目を見開く猪野くんと視線が重なるが、すぐに白藤さんに腕を組まれ私は彼女に目を向けた。まだ新人の白藤さんはよく私の担当についているせいか、私のことを姉のように慕ってくれている。
「……お疲れさま」
「お疲れさまです! さん、今日の夜空いてますか? みんなでご飯行くんですけど、さんも一緒にどうですか?」
「何それ、俺誘われてねーんだけど」
「猪野さんはこれから任務入ってますよね」
「そりゃそうだけど、一応声かけろよ」
二人は親しいのか、私を間に挟んで会話を繰り広げていく。すぐそばに猪野くんがいる。それだけで冷静ではいられなくなりそうで、私は白藤さんの方へ顔を向けたままぽつりと一言呟いた。
「……行こうかな」
えっ、という驚きの声が両側から聞こえる。猪野くんが何かを言う前に、白藤さんが興奮した様子で「本当ですか!」と目を輝かせた。
「あ、うん……たまには参加させてもらおうかな、って」
「ぜひ! さんが来てくれたらみんな喜びます! 行きましょ行きましょ!」
ぐい、と白藤さんに引っ張られる。逃げるのはありえない、後味が悪いって後悔したばかりなのに、と後ろ髪を引かれる思いで首だけを動かして振り返れば、不安げな顔でこちらを見る猪野くんと目が合った。
胸の奥が痛い。やはり顔を合わせると何を言えば良いか分からず、「任務、頑張って」とだけ絞り出せば、猪野くんの返事の代わりに白藤さんが私の腕を強く抱き締めた。
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華金の繁華街。仕事や飲み会終わりのサラリーマンたちで賑やかではあるが、その中でもほぼ全員が黒スーツまたは上下黒の服を身に纏っている私たちはそれなりに目立っているようで、通り過ぎる人たちがちらちらと視線を投げかけていくのが分かる。
二次会について話し合っている術師たちを横目に、私は店の赤提灯の下で座り込んでいる白藤さんのそばに屈んだ。
「白藤さん、大丈夫?」
「……あ、さん、なんか飲みすぎちゃったみたいでえ」
えへへ、とふわふわした笑顔を見せる彼女の頬はすっかり赤くなっていて、気分が悪い様子ではなさそうだが二次会はもちろん一人で帰ることも難しそうだ。
そんなに飲んでいるようには見えなかったが、まだ二十歳だしお酒にあまり慣れていないのだろう。そう思いながらポケットの中のスマホを取り出して時間を確認する。まだ二十一時を過ぎたばかり、電車は動いているとはいえ彼女のこの様子ならタクシーを拾った方が安全だろう。
「私、彼女を家まで送っていくから。みんなは二次会に、」
「悪いけど、サンはこのあと俺と約束してっから」
私と同じように白藤さんの様子を心配していた補助監督たちに声をかけたそのときだった。肩越しに伸びてきた手にいきなり手首を引かれて顔を上げると、そこにはいるはずのない猪野くんが息を切らして立っていて思わず目を丸くした。
走って来たのだろうか、額に汗を浮かべて帽子を団扇代わりにしながら、猪野くんは驚いている私ではなく白藤さんに向かって少し呆れたように「酔ったフリとかだせえことすんなよな」と言う。すぐに俯いていた白藤さんから舌打ちが飛んだ。
「サン、こっち」
「え、でも、え?」
いまいち状況を理解できないまま、猪野くんに手を引かれ立ち上がる。そしてそのまま私たちは繁華街を歩く人たちの間を縫ってずんずん進み、あっという間にみんなが見えないところまで来てしまった。
強く繋がれた手、猪野くんの茶色く跳ねた襟足を見つめる。約束なんて、した覚えないけど。任務が終わってすぐにここまで来たのだろうか。
しばらく歩き続け、居酒屋が並ぶ飲み屋街から大通りに出たところで猪野くんは足を止めてくるりと振り返った。少し拗ねたような表情で私のことを見下ろす猪野くんに、どくどくと心臓が激しく動き始める。
「……俺、ちょっと怒ってるんすけど」
「……今日、逃げてしまったのは、本当にごめん」
「そうじゃなくて」
「え」
「白藤に誘われたらあっさり飯行くんだもん。俺は駄目だったのに」
猪野くんは口を尖らせてそうぼやくと、さっと右手を上げた。それに気づいた一台の黒いタクシーが私たちのそばに停車する。
「このまま一人で帰るか、二人で俺ん家行くか。サンが決めてください」
「ず、ずるくない?」
「ずるくないっす」
相変わらず不満そうに眉を寄せる猪野くんの向こう側でタクシーのドアがゆっくりと開いた。いくら待っても乗り込む気配のない私たちに向かって、運転手が怪訝そうに「乗らないんですか?」と問う。
このまま一人で帰れば、明日からまたいつもと変わらない日々が訪れるのだろう。猪野くんと出会う前の、当たり前だった日常が。
でも、猪野くんはやはりずるいと思う。決めてくださいと言いながら私の手、離す気ないんだから。
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猪野くんの家はタクシーで二十分ほど走ったところにある五階建てのわりと綺麗なマンションの最上階にあった。ドアの鍵を開けられるまでは緊張して吐きそうだったが、開けてすぐ廊下にAmazonの箱がいくつか置いてあって少しだけ親近感が湧いた。任務続きで余裕がないとき、定期便で届いた荷物をとりあえず廊下に積んで置いておくのは私も同じだったからだ。
「どうぞ、水」
「あ、ありがと」
通されたリビングは猪野くんらしく黒を基調としていて、突然の来客でも問題ないくらい綺麗に片付けられていた。ソファではなくソファの脚元に座る私に猪野くんは冷蔵庫から出したペットボトルの水を手渡すと、少し気まずそうに頬を掻いて同じように私の隣に腰を下ろした。
沈黙の中、壁に掛けられたシンプルな時計の秒針の音だけが耳につく。冷たい水を一口だけ飲んで、ペットボトルをテーブルの上に置いた。とりあえず、何か話さなければ。そう焦る私の隣で、猪野くんがふう、と小さく息を吐く。
「で、早速本題なんすけど」
「えっ」
「え?」
「……ほら、今日の七海さんの何々が格好良かった~みたいな話はいいのかなと思って」
「七海さん、今週九州出張でいないんで。まあ多分、九州男児に負けず劣らずバリバリ格好良いのは変わらないと思います。で、本題」
「はい……」
「正直俺、サンに相手にされないだろうなって思ってたんすよ。何馬鹿なこと言ってるの、って一蹴されんだろうなって」
床についていた手の小指に猪野くんの小指が絡まる。ふと顔を上げると、思っていたよりずっと近くに真剣な表情を浮かべた猪野くんの顔があって、私はそのまま目が離せなくなった。最初の頃に感じた子犬っぽさはどこへやら、すっかり男の人の顔だ。
「なのにサン、分かりやすく狼狽えて挙句の果てに逃げるし。俺、逆に脈アリだなって思ってますけど」
「えっと」
「それに、帰らないで家まで来てくれたし」
「い、猪野くん、近い」
「返事はいつまででも待つつもりでいましたけど、俺は多分脈アリの好きな人が家に来てくれたら普通に手出しますよ」
小指から薬指、中指、人差し指、そして親指。すべての指を絡めとると、猪野くんはかちこちに固まっている私の耳元に唇を寄せた。全部俺の勘違いならすみません、と話す掠れた声に、背筋がぞくぞくと震える。
「か、勘違いとか、好きとか嫌いとかは、よく分からなくて」
「ん」
「でも、その……猪野くんのいない毎日は、きっともう寂しいんだろうなと思う」
時計の秒針がゆっくり五回音を鳴らしたあと、猪野くんがはああああ~と緊張が解けたように私の肩に顎を置いて大きく息を吐いた。手の甲を親指で何度か優しく撫でられてすぐにこつん、と互いの額がぶつかる。そして猪野くんは「嫌だったら本気で拒んでくださいよ」とだけ言って私と唇を合わせた。
触れるだけ、軽く下唇や上唇を噛まれるだけ、そんな何かを確かめるかのような行為が続いて、徐々に深く重なって絡み合っていく。猪野くんの舌が怯む私の舌を捕らえるたびに、耳を塞ぎたくなるような音とくぐもった声が口の端から漏れ出て頭がくらくらした。
「……は、好きです、サン」
「う……」
「すっげー好き」
告白されただけで付き合っているわけではないのに、何しちゃってんだろうな、私。そう冷静になっている自分がいるのに、この心地良さを手放すことができない。
小指の先ほどしかなかった余裕が完全になくなったところで猪野くんの唇が離れていく。ぎらぎらとした瞳と見つめ合っていたら、猪野くんは困ったように眉を下げて笑い私の身体を優しく抱き締めた。
「……あー、もう本当、どうすりゃ俺だけのものになってくれんの」
「猪野、くん」
「サン、可愛い」
猪野くんの片手がするするとシャツの背中側から中へと侵入してくる。可愛い、という言葉を聞いた瞬間、頭に白藤さんの笑顔が浮かび私は思わず猪野くんの両肩を掴んで引き剥がした。
「ス、ストップ!」
「すんません調子乗りましたごめんなさい!!」
こんな時間にそんな大声出して大丈夫? と思わず心配してしまうほどの声量で叫んだ猪野くんが焦ったように両手を上げる。ちゃんと拒んだらやめてくれた猪野くんの良心にほっとしながら乱れてしまったシャツを整える私に対し、猪野くんは青ざめた顔をしてその場で姿勢を正した。
「付き合ってもないのに……マジですみません……嫌、でしたよね」
「嫌、ではないんだけど」
「嫌じゃないんですか!?」
「あの、私可愛くないから」
私の言葉に猪野くんは何度か瞬きしたあと、「はあ?」と素っ頓狂な声を上げて首を傾けた。
「え、サン、メチャクチャ可愛いっすよ?」
「可愛いっていうのは、白藤さんみたいな子に使う言葉であって」
「白藤ぃ?」
猪野くんの顔が分かりやすく歪む。そういえば、彼女はあのあと大丈夫だっただろうか。他に人もいたし、なんとか無事に帰宅できただろうか。
「なんで今アイツが出てくるんですか」
「……今日、猪野くん、白藤さんのこと可愛いって言ってた」
「……あー、あれはああ言っとかないとアイツ俺に嫌がらせしてくるから、」
「猪野くんには、私よりああいう女の子らしい子の方が、似合うのかなって……思ったりして」
どんどん声が萎んでいくと同時に自然と視線が下がっていく。今日、猪野くんが白藤さんに対して「可愛い」と言っているのを聞いたときと同じだ。自分の感情が暗くて黒い何かに支配されていくような、そんな変な気持ちに眉を顰める。
こんなの私らしくない。自己嫌悪に陥る私をよそに、正面で正座したままの猪野くんが「それってさ」と呟く。恐る恐る顔を上げると、頬を赤くしてなんとかニヤけるのを抑えようとしている彼が目に入り、思わずえっと声を上げた。
「あの……それってヤキモチってことであってます?」
「……違います」
「マジかあ~、サンがヤキモチ……そっかあ、へへ」
「ねえ、違うって言ってる」
「白藤の髪型見て、何も気づきません?」
急に話が変わって言葉に詰まる。白藤さんの髪型。そう呟いて、彼女の胸元まであった長い髪がばっさり顎下で切り揃えられていたことを思い出す。
「随分と短く切ったんだな、とは思ったけど」
「一緒じゃないすか」
「何が?」
「サンの髪型と」
そう言われ、無意識に自分の髪を指で梳いた。ショートヘアは似合わない、かと言ってロングは面倒くさい、という理由でギリギリ結べる長さの扱いやすいボブを維持してもう二年ほど。一緒と言われれば確かにそうだが、そんなに珍しい髪型ではない。
「たまたまじゃない?」
「……俺が言うのもアレっすけど、サンはいろんな奴から狙われてる自覚を持った方がいいです」
「……白藤さんも私も女だよ」
「誰かを好きになんのにそんなの関係ないでしょ」
髪に触れていた手に猪野くんの大きな手が重なる。なんかもうグダグダになってしまったからちゃんとやり直したい、と嘆く彼を目の前に私も正座した。元はと言えば、グダグダになってしまった一番の原因は告白を受けたときに猛スピードで逃げ出してしまった私にあるのだ。
猪野くんの掌は大きくて温かくて、少しゴツゴツしている。彼は私の髪を耳にかけると頬を包み込むように優しく触れた。
「俺はサンがいいんです。他の誰にも渡したくない」
「……うん」
「俺がいない毎日は寂しくて、俺にキスされても嫌じゃなくて、俺が白藤のことを可愛いって言ったことに対して妬いてるサンに改めて聞きますけど、もう俺が彼氏でよくないっすか」
「だから、ずるいってば」
「何とでも言ってくださいよ」
ずい、とこちらに顔を寄せた猪野くんは上目遣いで私をじっと見つめたあと、「俺、子犬なんかじゃないんで」と言って意地悪な笑みを浮かべた。
いつどのタイミングで私のことを好きになったのか、そもそも私のどこが好きなのか。細かく聞きたいことは山ほどあるが、いざ質問したら最後、猪野くんのことだからそれはそれは長い話が始まって自分の気持ちを伝えるタイミングを逃してしまいそうだ。観念した私は彼の手を握り返した。
「私、猪野くんが思ってるような女じゃないかもしれないよ」
「上等っす」
「白藤さんに、嫌がらせ? されるかもよ」
「余裕っす」
「今日から猪野くんの彼女にしてもらってもいいですか」
「大歓迎っす」
絆されているだけかもしれない。でもタクシーに乗る前に彼が私の手を離さなかったように、今、私も猪野くんの手を離したくないと思っている。それだけで十分な答えだろう。
二人で目を合わせて小さく笑い合う。すると、すぐに猪野くんが視線を泳がせてそわそわし始めたので、私は不思議に思い首を傾げた。
「どうしたの」
「あの……ちなみに、ちゅ、ちゅーの先とかこのまましていい感じっすか」
「ばか」
(2024.10.18)