私の目の前で眠る無防備な男は、皆から『鬼の副長』と呼ばれ恐れられているとは思えないほど安らかな顔をしている。いつも不機嫌そうな切れ長の目は柔らかく閉じられていて、私はそっと彼の瞼に唇を落とした。

土方さんのことは、知り合う前から一方的に知っていた。有名だったし、何より顔が綺麗だったから。お近付きになるために、彼がよく通っていた定食屋でバイトを始めた。最初は店員と客の他愛ない会話から始め、徐々に世間話や冗談を言い合ったりするようになった。そして二人きりで食事に行くようになり、いつしか食事帰りに二人で私のアパートに帰るような仲にまでなった。

順調すぎて、怖い。

私は布団に横になったまま、眠る土方さんの顔を眺めた。すうすうと規則正しく寝息を立てる彼の目の下には、うっすらと隈が出来ている。最近会えていなかったから、きっと仕事が忙しかったのだろう。


「土方さん」


小声で呼んでみるが、起きる気配はなく、呼吸が乱れた様子もない。相当疲れているようだ。なるべく音を立てないようにして、布団の外に投げられた自分の下着を手に取る。

──ふりをして、傍にあった彼の上着に触れた時だった。


「、わ」


伸ばした手首を急に掴まれたかと思ったら、瞬きする間に仰向けに組み敷かれていた。すっかり眠っていると思っていた相手の機敏な動きに、私は開いた口が塞がらなかった。


「びっ……くりした、起きてたの?土方さん」
「あァ」
「いつから?」
「最初っから寝てねェよ」


私を見下ろすその顔は不機嫌そうで、どこか楽しそうにも見えた。つい先程まで私の身体のあちこちを優しく弄っていた手で、私の両手首を強く布団に押さえ付けている。少しだけ、背筋がぞくりとした。


「…少し寝たら?随分と酷い顔だけど」

「ん?」
「お前が狙ってる俺の携帯は、屯所に置いてきた」


その言葉に、指先がぴくりと反応した。土方さんはそれを見逃さず、にやりと笑って私の耳元に唇を寄せる。


「もう全部、バレてんだよ」


二人の間に流れた沈黙は、私の長くて大きい溜息によって壊された。


「なんだあ、バレてたのかあ」


自嘲気味に笑う私を、土方さんは何も言わずに見下ろしている。意外にも、焦りなどは一切感じない。むしろ、心のどこかでほっとしている自分がいることに気付いた。

私は小さい頃に親を亡くし、叔父に育てられた。そんな叔父は今の世にはそぐわない偏った思想の持ち主で、私を密偵に育てあげるために奮闘した。そんな叔父の期待に応えよう…と思ったことは一度もなかったが、案外向いていたのだろう。命令された通りに動き、状況に応じて適宜対応することで、叔父が望むような成果を出せるようになった。

ある日、土方さんの写真を見せられて、「なんて綺麗な顔をした男の人だろう」と思った。言われた通り、彼がよく通っていた定食屋で働き、深い仲になった。

標的が誰であろうと、叔父から明確な目的や詳細を聞いたことはなく、ただ「使えそうな情報を手に入れろ」と指示されるだけだった。使えそうな情報かどうかは、自分で判断するしかない。


「順調すぎて、怖いって思ったんだ」


小さくポツリと呟く。すると、土方さんは意外にもあっさり私の手首を離すと、起き上がって上着から取り出した煙草を吸い始めた。私も起き上がり、じんわりと痛む手首を擦りながら、土方さんの背中を見つめる。


「…背中、向けてていいの?殺しちゃうかもよ」
「お前はそんなこと出来る女じゃねェよ、それに」


白い煙がゆらゆらと天井へのぼっては消えていく。土方さんは振り返って煙を吐き出すと、ぼんやり座る私をまっすぐ見据えた。


「俺を殺したって、にとっちゃもう何の意味もねーからな」
「そんなこと、」
、お前最近、育ての親から連絡来てねェだろ?」


思わぬ問いかけに言葉が詰まる。そういえばここ数日、叔父から連絡が来ていない、ような。いつも向こうから定期的に連絡が来るのみで私から連絡をとることは一切なかったため、あまり気にしていなかった。問題は、なぜ土方さんがそのことを知っているのか、だ。

私が考えている間に土方さんは最後の煙を吐き出し、持っていた携帯灰皿に短くなった煙草を押し付けた。


「一昨日、俺が殺した」


土方さんの言葉を、頭の中でゆっくり反芻する。殺した、一昨日、土方さんが。ようやく意味を理解できたとき、不思議と悲しい気持ちが微塵も湧いてこず、私は首を傾げた。冷静に「そうなの」と納得する私を、土方さんは黙ったまま見つめている。

彼の目の下の隈は、ひょっとしたら私のせいなのかもしれない。たった一人の身内が死んだことよりも、そちらの方が心苦しかった。

恐らく、私も殺されるのだろう。私は布団に潜り込み、顔だけ出して目を閉じた。


「土方さんって、何にでもマヨネーズかけるのね」
「当たり前だろ、マヨネーズはどんな料理にも合う万能調味料だぞ」
「ふふ、変なの」
「笑いやがったな、ホラお前も食ってみろ」
「いや!やめてー!」



頭に思い浮かんだのは、初めて二人きりで食事に行った日のこと。あの日の楽しい思い出も、全部捨てなければならない。

密偵として近付いたのは事実だが、土方さんと二人で過ごす時間は楽しかったし、何より土方さんのことが大好きだった。しかし、それを伝えたところでもう何の意味もない。信用もされないだろう。

一人で感傷に浸る私の鼻を、土方さんがぎゅっと摘んだ。私は驚いて目を開ける。


「…何するの」
「何て面してんだ」
「だって土方さん、私のことも殺すんでしょ」
「あ?なんでだよ、殺さねェよ」
「え?逆になんで?」


ぽかんとする私の顔を見て鼻で笑った土方さんは、私と同じように布団に潜り込んできた。温かくて、少し煙草臭い。


「どうせ大した情報なんて盗めてねェだろ、俺も一応警戒はしてたからな」
「それはそうだけど…」
「それに情報をリークする相手も死んだんだ、もうお前はスパイじゃなくてただの女なんだよ」


目の前のこの人は、本当にあの「鬼の副長」なのだろうか。私が言うのもなんだが、いくら何でも甘過ぎるのではないか。そう言おうとした私を、切れ長の目が素早く捉える。そしてこう告げた。


「過去は捨てて、普通に生きてくんだな」
「──普通に?」


今更、普通になんて生きていけるだろうか。小さい頃から人を騙すことだけ教えられてきた私が、普通にだなんて。それどころか、今まで当たり前に与えられてきた役割や私の存在意義が一瞬でなくなってしまったことに対し、恐怖すら覚える。頭の中で色々な考えが巡る中、土方さんから「」と呼ばれ、我に返った。


「普通に生きるっていうのが、よく分からない…」


そう呟くと、土方さんは瞬きをして、「じゃあ言い方を変える」と笑った。布団の中で私の腕を引き、あっという間にすっぽりと抱き締められる。


「普通に、俺と生きていくぞ」


その言葉に、心を支配していた恐怖が薄らいでいくのを感じた。

普通に生きることはまだよく分からないが、土方さんと生きていくことは想像出来る。過去の、密偵として生きていた頃の思い出を全て捨てて、共に生きていく。またマヨネーズの量で笑ったり、驚いたりしながら。

私は土方さんの背中に手を回し、胸の中で小さく笑った。涙ぐんでいることに気付かれないよう、強く彼の胸に顔を押し当てる。不思議と煙草臭さも気にならなかった。


「それより、土方さんは大丈夫なの?私を見逃して立場が悪くなったりしないの?」
「お前とお前の育ての親のことは俺しか知らねェし、内密に処理したから問題ない」
「どうしてそんなに優しいの?」
「…そりゃ、惚れた女には優しくするだろ」
「どこに惚れたの?」
「オイ、いい加減にしろ」


口ではイラついているが、私の頭を撫でる手つきはとても優しい。これが彼の性格なのだろう。私はこれからの未来に思いを馳せて、静かに目を閉じた。





(2022.02.05)