24時間営業の飲み屋でのアルバイトを終えて店を出た頃には、もうすっかり眠らない街は眠らないまま朝を迎えていた。忙しくて気が付かなかったが、夜の間に雨が降ったらしい。一歩踏み出すたびに地面や木々に残る雨粒がキラキラと輝いて、辺りにはうっすらと雨の匂いが残っていた。

主に肩や腰、そして脚に蓄積された疲労を実感しながら家路を歩く。今日は休みだから、帰ったらお風呂に入って、とりあえず寝たい。そして何か食べながら明日が返却期限の映画を見て…と、今日一日のスケジュールを順番に組み立てていく。重い身体を動かし、のろのろと路地裏の前を通り過ぎた時、何やら見覚えのある銀色が視界の隅に入って私は立ち止まった。


「ん…?」


何だ、今のは。不思議に思いながら、少しだけ迷った私は一歩二歩、後ろに下がった。そして目の当たりにした光景に驚愕する。


「銀さん…」


そこには建物の壁を背もたれにし鼾をかいて眠る常連客、銀さんの姿があった。ゆっくりと近付き、銀さんの前にしゃがみ込む。昨日の夜、私の店に飲みに来た銀さんは、確か日付が変わる前には千鳥足で帰って行ったはずだ。もしかして、あのあと帰らずにここで眠ってしまったのだろうか。雨が降る中、地面に座ったまま、一晩?

規則正しく上下する銀さんの肩にそっと触れると、衣服はじっとりと濡れていて指先の体温が奪われるほど冷たくなっていた。私はそのまま肩に手を置いて、銀さんの身体を揺する。


「ちょっと銀さん、何してんの?」
「んん…なんだよ、もう飲めねェって」
「風邪ひくよ、っていうか下手したら死ぬよ」
「もう酒は一生分飲んだから…」
「しかも銀さん、ちょっと臭いよ」
「誰が加齢臭だコラ」


ぼんやりと夢の中を泳いでいるようだったのに、そういうお年頃なのか『臭い』というワードで覚醒した銀さんは瞬きを何度か繰り返し、ようやく私の存在に気付いたようだった。しばらくして自分が置かれている状況を理解したのか、頭を抱えて「痛ェ…」と呟く。


「ねえ、まさか店出たあとずっとここで寝てたの?」
「…っぽいな、記憶ねェわ」
「やばいよそれ」


銀さんが頭を片手で軽く叩きながら「新八と神楽に何て言われるか…」と嘆き出したので、軽い気持ちで「じゃあ、うち来る?」と問いかけた。すると銀さんがぎょっとした表情で私を見つめてきたので、私も驚いて目を見開く。


「そんなに驚かなくても」
「いや驚くだろ、普通」
「銀さん臭いし、うちでお風呂入ってから帰ったら?」


夜中、休憩なしで働いたからだろうか。自分が突拍子もないおかしなことを口走っていることは十分理解しているつもりだ。しかし意外にも、銀さんは驚いていたわりには私の提案を突っぱねることなく、「…じゃあ、行く」と言ってふらふらと立ち上がった。これから一日が始まるという清々しい朝に、気怠そうに街を歩く男と女の姿はさぞ滑稽だろう。

帰宅後、私は浴槽にお湯を張り銀さんを浴室に放り込んだ。銀さんの濡れた服をそのままにしておくのもどうかと思ったので、こちらは洗濯機に放り込んで回しておいた。着替えは、ちょっと前に別れた元カレが置いて行った遺物(Tシャツと短パン)があるから、それを着てもらえばいい。少しサイズは小さいだろうが、着れないことはないはずだ。パンツは…諦めてもらおう。

もともと広くもない、一人暮らしの1Kの部屋。そこにお風呂から上がった銀さんがただ座っているだけで、さらに狭く感じる。


「じゃ、私もお風呂入って寝るから、銀さんは帰っていいよ」
「おー、わりーな」
「洗濯物は干して返すし」


じゃあね、と手を振って、着替えを持った私は浴室へ向かう。湯船に浸かると寝てしまいそうだから、シャワーだけで済ませてしまおう。冷蔵庫の中、何か食べるものあったかな…。疲れきった頭でそんなことを考えながら服を脱ぎ終える頃には、もうすっかり銀さんのことは考えなくなっていた。


「……なんで?」


こんもりと膨れ上がったベッドを見下ろしながら、私は素っ頓狂な声を上げる。私、帰っていいよって言わなかったっけ。そりゃあ別に、帰れとは言ってないけど。

腰を屈め、布団から僅かに出ている銀さんの顔を確認すると瞼は閉じられていて、鼾はかいていないが微かにすうすうと寝息が聞こえる。どうしたものかと少しだけ迷ったあと、考えることが面倒になった私はそのまま布団を捲り、銀さんの隣の狭いスペースに潜り込んだ。

春とは言えまだまだ肌寒いこの季節。いつもは冷たい布団の中がじんわりと程よく温まっていて、とても心地良い。

疲れたときは一人でのびのびと寝たい派だけど、これはこれで案外悪くないな。うとうとしながらそう考えていた時、目の前にあった銀さんの背中がぐるりと動く気配がして、気が付いた時には銀さんの背中ではなく胸元が私の目の前にあった。


、お前危機感なさすぎだろ」
「うん?」


危機感、と銀さんの口から出た言葉をそのまま呟けば、私の太ももを銀さんのざらざらとした手が滑ってびくりと身体がはねた。なるほど、危機感って、そういう意味。私は太ももを襲う擽ったさに我慢できず、ふふ、と短く笑った。


「大丈夫、銀さんはそういうとこ、きちんとしてそうだし」
「…お前は意外ときちんとしてないことが分かったわ」


銀さんは「あー、酒のせいで勃たねえ…」と零す。「勃っても困るよ」と返せば、銀さんは私の太ももから手を離し、今度は私の腰に手を回してぐいっと身体を引き寄せた。銀さんに抱きしめられながら、本当この人良い体格してるよな、と改めて実感する。たくましい体、温かい体温、程よく私を抱きしめる力、全てがとても心地良くて、思わずうっとりしてしまう。


「銀さん…」
「なんだよ」
「ソフレになってよ、添い寝友達」
「はあ〜?」


銀さんの胸元に顔を擦り付ける。当たり前だが、自分と同じ匂いがしてひどく安心した。


「やだよ…彼氏ならいいけど」
「私、次の彼氏は金持ちでお酒の飲み方分かってて、パチンコにも行かない真面目な直毛男子って決めてるから」
「まんま俺じゃん?」


とく、とく、とく。銀さんのくぐもった心音を聞きながら目を閉じる。どうして他人の心臓の音って、こんなにも落ち着くんだろう。それに加えて頭上から聞こえてくる銀さんの少し掠れた声が、なぜだかどうしようもなく好きだと思った。

どんどん頭がふわふわしてきて、眠りの中に引きずり込まれていく感じがする。もう瞼は開く気がしない。


「…ねえ、銀さん」
「なに」
「本気…?」
「なにが?」
「……」
「…おーい」


今までに、こんなに気持ちの良い眠りの入り口に立ったことがあっただろうか。

彼氏ならいいけどってやつ、本気なのかな。銀さんの真意を問いたかったのに、肝心なところで限界を迎えてしまった。それにしても、聞いたところで私はどうしたいのだろう。

一番近く、そしてどこか遠いところで「本気だよ」という答えが聞こえたような気がしたが、それが夢だったのか現実だったのか、定かではない。





(2022.04.18)