04.冬の夜雨
今年の秋は随分と短かった。やっと過ごしやすくなった、とほっとしていたら急に寒くなり、ニュースでは異常気象やらインフルエンザの流行やらの話を耳にすることが多い。
そして寒くなると同時に再び忙しい日々が訪れ、あれからとろくに話もできていなかった。第一、僕があまり家に帰れていない。運良くが起きている時間帯に帰れたとしても、彼女が何かを話そうとする素振りを見せるたびに「今日はもう寝るね」と言って逃げる、ということを繰り返している。
「そもそも離婚って。なんで?」
「り、離婚!?」
街の街路樹に取り付けられたイルミネーションのライトを眺めながらついぼそっと呟けば、それを聞き逃さなかった伊地知が声を裏返らせた。
「五条さん、離婚されるんですか!?」
「いや、籍入れてないから離婚以前の問題なんだけど」
「籍入れてないんですか!?」
「伊地知、うるさい」
バックミラーに映る伊地知に向かってそう言うと、伊地知は狼狽えながら「すみません……」と呟き、信号が青に変わると同時に車を発進させた。
今日は夕方から雨になるらしい。でもすぐに止むらしいから、夜になればきっとこの辺はイルミネーションを楽しむ人々でごった返すのだろう。腕を組んで歩いていくカップルらしい男女を追い越したあと、ポケットからスマホを取り出した。とのメッセージのやりとりは四日前で止まっている。彼女から何かメッセージが届くことはまずない。
さすがにこのままってわけにはいかない、か。はあ、と大きなため息を吐き出せば、伊地知のハンドルを握る手が分かりやすく震える。
「ってなわけで夫婦の危機なんだけど、ここでクエスチョン。伊地知、お前がまずやるべきことは?」
「五条さんをこのままご自宅まで急ぎお送りすることです」
「正解~ってことでよろしく」
はい、と返事をした伊地知がナビの設定を変更する。に今日は帰る、と一言メッセージを送ろうとして僕は「あ!」と声を上げた。
「えっ! ど、どうしました」
「帰る前にちょっと寄り道したいんだけど」
「……夫婦の危機なのに、ですか?」
不安そうに尋ねる伊地知に向かって、僕は笑った。
「だからだよ」

四日ぶりに帰宅したマンションは、明かりが消えており誰もいなかった。キッチンを見れば食事の用意は済んでいるようだが、肝心のの姿が見当たらない。靴もないしどこかへ出かけたのかと思いメッセージを送って待ってみたが、既読もつかず帰ってくる気配もない。
二人よりも一人で過ごした時間の方が圧倒的に長い部屋は、がいないというだけで妙に広く、空っぽに感じる。時計の秒針の音が嫌に耳につき、次第にその音の中に別の音が混ざり始めた。雨だ。
「……あーもう」
らしくないな。焦りや不安に振り回されるのは。
片手でスマホを操作しながら、先程脱ぎ捨てたばかりの靴を履き家を飛び出した。呼出音が続くばかりのスマホを耳に押し当てて、マンションを出たところで本降りとなった雨に舌打ちする。灰色の空に向かってどこ行ったんだよ、と吐き捨てたあと、顔を正面に戻したところで遠くからこちらに走ってくるの姿を見つけた。
ぱしゃぱしゃと時折水溜まりを避けながら走るは、近くまで来てようやく僕の存在に気付いたらしい。庇の下までやって来た彼女は、息を切らしながら「お帰りなさい」と言った。
「すみません、買い忘れたものがあって」
「なんでタクシー使わないの?」
「近くに行くだけでしたし……まさかここまで降るとは思わなくて」
「なんで電話出ないの?」
「あ……スマホ、部屋に忘れてました」
「なんで離婚とか言い出すわけ?」
は驚いたように目を丸くすると、「それは」と言ったきり何も話さなくなった。待つのが焦れったくて、の濡れた指先に触れる。冬の雨ですっかり冷えきっている小さな手を包み込むように握り「戻ろう」と言えば、はこくりと頷いた。
部屋に戻り、着替えを済ませたはすでに席に着いている僕を見て食事の準備をするべきか少し迷っていたようだったが、僕と目が合うと黙って正面の椅子を引き腰を下ろした。
しん、と静まり返った部屋。二人で暮らすようになって、今日が一番空気が重い気がする。しばらくしてがぽつりと言った。私は呪術師が怖いんです、と。
「怖い? 呪術師が?」
「……怪我なんて日常茶飯事ですし、どんなに強い人でもあっさり死んでしまうから……呪術師であることが怖いと思うと同時に、呪術師そのものが怖いと思うようになりました」
だから、呪術師である悟様に嫁ぐことも怖いと思ってしまった。
目を伏せて心の内を話すを見ながら、僕はここで初めて彼女と会話したときのことを思い返していた。好きでここに来たわけではないのだろう、と言ったときに、否定せず素直に認めたのことをだ。
怖いなら、僕のところになんて来なければよかったのに。そう思ったが口にはしなかった。
「それでも悟様の元に来た理由は……情けないことに、父には抗えなかったからです。私は父の言いなりになってしまう。だから私と一緒にいても、悟様には何のメリットもないんです」
そう一気に言い終えたは、顔を上げると僕をまっすぐ見据えて穏やかに微笑んだ。
「なので離婚していただきたいと言いました。幸い悟様の戸籍に傷をつけることもないですし、あとのことは私が何とか――」
「ストップ」
制するように手を挙げると、は話すのをぴたりと止めて些か緊張した表情を浮かべた。とりあえず、彼女が離婚を切り出した理由はざっくりとだが理解した。
眉間を押さえてううん、と唸っていると、が「悟様?」と困ったように首を傾げる。
「一個ずつ整理していこう」
「あ、はい」
「ええと、どんなに強い呪術師でもあっさり死んじゃうから僕に嫁ぐのも怖いって点は、うん。まず僕は死なないから問題ないよね、最強だし」
はい、次。
そうすぱっと切り捨てると、不意打ちを食らったのかは僕の言葉を理解するのに時間がかかっているようで、何も言わずにただ目を丸くしていた。気にせず話を続ける。
「が父親の言いなりになりたくないのなら、僕が無理矢理にでも何とかする」
「何とか、とは……」
「そこはまあ、うん、僕のやり方で」
頭の中にはの目の前で口にするのが憚られるようなことばかりが浮かんでいて、僕は笑ってそうはぐらかした。と彼女の実家、両者の関係性を詳細には理解できていないが、彼女が望むなら家を消してしまうことも自分には可能なのだ。
最後。と一緒にいても僕には何のメリットもない、という点。
「僕は、と一緒にいることにメリットはあると思ってるよ」
「え?」
「だって僕、のこと好きだし」
知ってた? 頬杖をつき反応をうかがうようにそう尋ねれば、はこれまた言葉の意味を理解できないらしく、ぼんやりと「すき……とは……?」などと呟いている。
いつからか、正確な時期は覚えていない。一目惚れしたわけでもない、明確に好きになった瞬間があったわけでもない。それでもに対する想いは徐々に、まるで季節の移り変わりのように変化していき、気が付けば僕はのことを「好きだ」と認識していたのだ。
実家からの圧力を避けるために置いた紛い物の妻。いざ同居してみれば、怖がりですぐに泣くけど表情がころころ変わって面白いし、拗ねた顔はめちゃくちゃ可愛い。料理上手で、いつ帰って来ても笑顔で僕を出迎えてくれる。彼女が本当の妻になってくれればいいのに。いつしか僕はそう考えるようになっていた。
「だから離婚とか言われても困るんだよね。というか、離婚したいならまずちゃんと結婚すべきじゃない?」
ポケットに畳んで入れていたせいで、いくつもの折り目がついた婚姻届をテーブルに広げる。今日の帰りに寄った区役所でもらってきたものだ。
薄い紙の皺を手で伸ばしながらを見れば、彼女は静かに涙を流していた。
「が不安に思っていることは、僕がどうにでもしてあげるから」
「さ、さとるさま」
「だから、結婚しよう」
人生で初めてのプロポーズだった。しかし、今日返事がもらえるとは思っていない。に嫌われているとは思っていないが、かと言って特別な好意を寄せられているとも思わないからだ。
彼女が僕と同じ気持ちになるまで待てばいい。もちろんただ待つだけではなく、そうなるようにそれなりのことはするつもりだけど。
「どう、今ので惚れたんじゃない?」
ティッシュの箱を渡しながら試しにそう聞いてみれば、彼女はふふ、と笑って涙を拭きながら首を横に振った。マジか。手強いな。
「私は、悟様に初めてお会いしたときから惚れてますから」
「……は?」
何を言い出すんだ、この子は。
「待って待って、嫌々僕のところに来たわけじゃないの?」
「い、嫌々だなんてそんな……ただ、悟様には私よりもっといい方がいらっしゃるのにと思っているというか」
「……って、頭固いよね」
そう言うと、は少しむっとして潤んだ瞳を僕に向けた。僕の好きな表情に少しだけむらっとしてしまったのは内緒にしておく。
しかし初めてお会いしたとき、と言えば、と見合いをしたときのことになる。あのたった一度の面会で僕を好きになるきっかけなどあっただろうか。
「……僕のどこに惚れたの?」
「その……初めてお会いした日に悟様が」
「うん」
「お前といると落ち着く、って言ってくださったんです」
「そんなこと、言ったっけ」
そう聞くと、は懐かしむように笑って頷いた。
記憶を遡ってみるが、まったく覚えていない。しかし僕をハントしようとする他の見合い相手に比べるとは落ち着いていたし、あの頃は見合いが多くてうんざりしていたからつい本音が漏れたのだろう。
「初めて、誰かに認めてもらえた気がして、嬉しくて」
そうか。記憶に残っている初めて会った日のの笑顔は、僕を好きになったときの笑顔だったのか――。
「じゃあ待つ必要なんてないじゃん」
「は……」
「プロポーズの返事、今くれる?」
その言葉に、の顔がどんどん赤く染まっていく。身を乗り出して上目遣いで見上げる僕に、はこくこくと何度も頷いた。
「よ、よろしくお願いします……」
結婚は特別なことのように思えるが、蓋を開けてみればただの日常だ。それでも本当の夫婦になれば、きっと高い山も深い谷もあるだろう。幾久しい幸せなど実はないのかもしれないし、今までしたことのない喧嘩だってするかもしれない。でもそれすら少し楽しみでもある。
手を伸ばし、の長い前髪に触れる。驚いて顎を引いたに「もう隠さないでよ」と言えば、彼女はふ、と笑んで目を閉じた。素肌とはまた違う、ざらりとした感触の傷すら愛おしいと思う。どうやら僕は、相当浮かれているようだ。
いつの間にか雨が止んでいる。雨降って地固まる、とはまさにこのことで、僕たちの夫婦0年目がようやく終わろうとしていた。