03.秋の亡骸

 最近の表情が暗い。そのことに気付いたのは、うだるような暑い日々が過ぎ去ってしばらくした頃だった。
 さて、どうしたものか。変に聞いてただの気のせいだったらそれはそれで恥ずかしい。そう考えていた矢先、が急に「実家に帰らせていただきたいのですが」と言い出したものだから、シャワーを浴び終えたばかりだった僕は濡れた頭を拭くのも忘れて彼女を凝視した。

「それは、あれ? もう貴方とはやっていけません! 実家に帰らせていただきます! ってやつ?」
「ち、違います! そうではなくて、来週の土曜日に日帰りさせてもらえればと」
「なんだ、よかった」

 ん、よかった?
 自分の口からぽろりと出た言葉に思考が停止する。いやまあ、ここでに出て行かれてまた五条家から新しい人間を送られるのも困ると言えば困るから、そういう意味では確かによかったけど。
 に今の呟きは聞こえていなかったのか、彼女は僕の返答を待っているようだった。そのことに安心しつつ「いいけど、なんで?」と聞けば、は目を伏せ呟いた。

「兄の三回忌なんです」
「お兄さんの?」

 そういえばは二人兄妹で兄が家の跡取りだと認識していたが、死んでいたのか。僕の問いかけには神妙に頷いた。
 しかし三回忌なら、僕の元に来たときには既に他界していたことになる。跡取りがいなくなった状況で、家は次の跡取りに据えることも可能だった一人娘をよく五条家に送り込んだものだな。そんなことを考えながら、テーブルに置いていたスマホでスケジュールを確認する。来週の土曜日。幸い、そこには何も記されていない。

「僕も一緒に行くよ」
「……えっ!?」

 僕の言葉に驚いて声を上げたは、皿と布巾を持ったまま「でも、あの」と言いながら分かりやすく狼狽えている。

「お忙しい中わざわざ来ていただくのは、申し訳ないというか」
「でも一応僕はの夫ってことになってるからさ、逆に行かない方がおかしくない?」
「それは、そうかもしれませんが……しかし、」

 僕は背を丸めて渋るに顔を寄せた。はいつも僕が近付くと、困ったように前髪を押さえる癖がある。恐らく目の上の傷のことを気にしているのだろう。
 にとっても、実家で暮らしている家族に夫婦円満であることをアピールする機会はあった方がいいと思うし悪い話ではないはずだ。いつものように前髪を撫でつけながら視線を逸らすに向かって僕は言った。

「僕が行ったら困ることでもあるの?」

 その問いかけにしばらく黙っていただったが、観念したのかおずおずと目線を合わせ「……では、よろしくお願いします」と頭を下げた。


 の実家は京都府南部にある。心霊スポットとして有名なダムがあり、そこは祓っても祓っても呪霊が次々湧くのだとの家に向かう途中彼女は話していた。
 最近ずっと落ち込んでいるように見えたのは、亡くなった兄に思いを馳せていたからだろうか。歳も近かったようだし。未だに顔色が優れないの隣を歩きながら、少し迷って気になっていたことを尋ねた。

のお兄さんってどうして死んだの? 話したくないならいいけど」
「……兄も術師でしたので、京都高専からの依頼で任務にあたっていたときに亡くなりました」

 はそう言うと、思い出したように鞄の中に入れていた手帳から一枚の写真を取り出した。その時点でなんとなく予想はできたが、「これが兄です」と言い手渡された写真はあの日彼女の部屋で見たものと同じ写真だった。
 そうか、これは亡くなった兄との写真だったのか。そう言われてから見てみると、写真の中で笑っている二人は目元が似ているような気がする。

「お兄さんと、似てるね」

 そう言うと、は嬉しそうに笑った。久しぶりに見た彼女の心からの笑顔だった。
 その後、菩提寺で執り行われた法要はつつがなく終了し、の実家にて会食が始まった。本来ならば今回の法要の施主であるの父親が座るはずの上座に座らされた僕は、隣に座るに「ねえ」とそっと耳打ちする。

「これ席おかしくない? なんで娘婿の僕が上座なの」
「なぜでしよう……本当すみません……」
「当主様」
「あ、はい」

 僕のことを当主様、と呼んだのはの父親である。の実家にいるのだからこの場で「当主様」と呼ばれるべきはの父親である彼のはずなのに。そう思いつつ、まあいいやと思いながら返事をする。
 の父親は、隣に座ったの母親と一緒に頭を下げた。
 
「当主様もおいでくださるとは本当にありがたいことで……死んだ息子も向こうで喜んでいることと思います」
「あ、いえ。僕も挨拶に来るのが遅くなってしまい、すみません」

 の父親は快活でよく笑いよく飲む人だった。それに比べての母親は口数が少なく、静かに夫の話に耳を傾けている。古い呪術師の家系でよく見る構図だ。
 はどちらかと言えば、母親似だな。酒を断り烏龍茶を飲みながら父親の話に相槌を打っていたら、何やらそわそわし始めた彼が「ところで」と大事な相談でもするかのように声を落とした。

「娘が嫁ぎ日も経ちましたが、そろそろどうでしょう。子どもの方は」

 うわ、来た。
 内緒話の始まりのようだったのに、その場にいた親族一同の意識が僕らへ向くのを感じる。隣で「ちょっと……!」と分かりやすく慌てるを制したあと、僕はにこりと微笑んだ。

「はい、励んでいます」
「うっ、げほ、」

 突如噎せて咳込んだの背中を擦る。大丈夫? と彼女の顔を覗き込めば、は顔を赤くし何かを訴えるような目で僕を見つめ返した。
 今日ここに来たのは僕との関係が順調であることをアピールするためでもあるのだから、ある程度『そういう振り』はしておかなければならない。でも今の発言は、ただのこの顔が見たかったからだ。二人で映画を見た夏の日、羞恥に耐えながら少しだけ怒っていた、の可愛い顔を。
 僕たちの様子を見て、の父親は声を上げて笑った。

「仲がいいようで安心しましたわ」
「ええ、それはもう」
「娘には言い聞かせておりますが、ぜひ元気な男の子を二人は産んでもらわないといけませんからねえ」

 その瞬間、ハンカチで口元を押さえていたがハッと息を呑むのが分かった。
 男の子を、二人? 男を産めというのはまあまだ理解できるが、『二人』の理由がいまいち分からず「二人ですか」と尋ねれば、の父親は仰々しく頷いた。

「一人は五条家の、そしてもう一人は我が家の跡取りとして育てたいと考えておりますので……五条家前当主様にも、そのようにお話しております」

 そう言ったあと、の父親は僕ではなくに目を向け説き伏せるように話し始めた。間違っても女を産むのではないぞ、と。傷物のお前が当主様の妻になれただけで恵まれているのだからな、と。
 テーブルの下で、委縮したがぎゅっと拳を作るのが見えた。ああ、なるほどな。今まで疑問に思っていたことがすべて分かった気がして、思わずふ、と笑みを零した。
 がどうして最近暗い顔をしていたのか。僕が一緒に行くと言ったとき、なぜあんなにも渋ったのか。跡取りにもなり得たを、どうして僕の元に妻として送ったのか。彼らは娘の幸せなんてこれっぽっちも考えていない。ただ手っ取り早く、五条家の恩恵に与りたいだけなのだ。あまりにもアホらしくて笑いが止まらなくなった僕の名を、が不安そうに呼ぶ。
 きっと兄が死んだとき、も死んだのだろう。僕はの拳をそっとほどき、優しく握り締めた。

「なるほど。そういうことなら男の子を作らなければいけませんねえ」

 がぱっと顔を上げる。正気か、とでも言いたげな瞳は儚く震えていて、少しだけ僕は反省した。両親に的外れな期待を寄せられていることをきっと誰かに相談したかっただろうに、一番近くにいて最も関係のある僕にそうできなかった。それは僕の責任だ。
 正面に顔を戻すと、の父親はそれはそれは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 
「さすが、分かっていただけましたか」
「ええ。でも確か子どもの性別は精子の染色体によって決まるとか。なのでもし女の子が産まれたら、百パーセント僕が悪いってことになりますね」

 賑やかだった座敷が水を打ったように静まり返る。

は僕の妻です。アンタらの道具じゃない」
 
 その場にいる全員に聞こえるようにそう言ったあと、の父親だけでなく母親までもが呆気に取られる中、僕は今にも泣き出しそうなの手を引いて立ち上がった。

「家に帰ろう、


「やっばいね、さすがに言い過ぎちゃったかな」

 なんとなく離すタイミングを逃した手を繋いだまま、駅までの道のりを二人で歩く。言い過ぎた感は否めないが、どちらかと言えば悪いのは向こうだしな。独り言のようにそうぶつぶつと呟いていたら、後ろから鼻をすする音が聞こえて振り返った。俯いたの目からぽろぽろと、小さいガラス玉のような涙が零れ落ちている。

「どうして泣くの?」
「はず、恥ずかしいのと、申し訳なくて……」
「あー、さすがに励んでますとか精子がどうとか恥ずかしかった?」
「そうではなくて……悟様に向かってあんなことを言ってのけた、父が……」

 眉を下げ、「すみません」と謝るの頭に僕はそっと手を置いた。
 仮に僕たちの間に男の子が二人産まれたとする。それでもその内の一人が家の跡取りとして育てられることはまずないだろう。五条家の血筋が他所へ流れることを、うちが認めるはずがない。の父親の口振りだといかにも僕の父へ話は通しているようだったが、恐らく言葉通り、一方的に『話していた』だけで了承など得ているわけではないだろう。
 そもそも、僕らの間に子どもが産まれるなんて、有り得ないわけだし――。そう思いながら、手で溢れる涙を拭うを見下ろす。何度もすみません、と鼻声で謝るの後頭部に手を回し、彼女の頭を自分の胸へ抱き寄せた。

「別に僕は気にしてないよ。呪術師の家系って面倒なことばっかだよねえ」

 あやすように背中をぽんぽんと叩くと、の身体が僅かに硬直し、それにつられて僕の手も止まった。
 しまった。流れと勢いで抱き締めてしまったが、まずかったか。抱き寄せておきながら触れるのをためらい両手を彷徨わせていたら、腕の中でがぽつりと僕の名を呼んだ。

「悟様……」
「ごめん、つい手が滑ったというか勢いでいっちゃったというか」
「……しと、」
「え?」
 
 小さな声だったが、はしっかりと僕に届くように言った。

「私と……離婚していただけませんか」