02.夏の草陰
本格的な夏を迎えた。一歩外に出れば、朝から晩まで蝉の鳴き声が雨のように降り注いでくる毎日だ。
「そういえば、ご結婚されたそうで。おめでとうございます」
本当にめでたいと思っているのか、と思うほどの無表情でそう言った七海は、目の前に座る僕に視線を向けることなく新聞をめくった。七海は毎朝高専に出勤してはコーヒー片手に経済新聞を読むことを日課にしている。
もう会社員じゃないのに。そう思いながら、伊地知に買ってきてもらったバニラシェイクをストローでずぞぞぞと吸う。
「ま、結婚したようでしてないような、って感じなんだけど」
「そうですか」
沈黙。七海は広げていた新聞を読みやすいよう、ばさりと半分に畳んだ。
「ちょっとちょっと、この話始めたの七海なんだからもう少し掘り下げてよ」
ずこっ、と音を立てて飲み終えたシェイクのカップをテーブルに置いてそう抗議すれば、七海は苛立ちを隠すことなく舌打ちをした。学生時代の七海はもう少し可愛げのある後輩だったような気がするが、一年前に呪術師へと返り咲いた彼は社会の荒波に揉まれすぎたせいかなかなかの荒み具合である。
インタビューしてよと急かせば、七海は深いため息を吐いて「どんな方なんですか」と言った。
「まあ貴方と結婚できる時点で相当忍耐力のある方だと思いますが」
「失礼すぎる~僕先輩なんだけど~」
ソファに深く身体を預け、高い天井を見上げて口を尖らせながら七海の質問への答えを考える。
はどんな人間か。そう考えたとき、真っ先に頭に浮かんだのは「料理がうまい」だった。一緒に暮らし始めてから、帰宅が不規則な僕にはうまく合わせて食事を用意してくれていた。和食、洋食、中華などなど、別に家庭料理に飢えていたわけではないが、家に帰ると何の準備をしなくとも勝手に温かくおいしい料理が出てくるというのは、なかなかいい。胃袋を掴まれる、という表現がしっくりくる。けれど。
「それ以外は、よく知らないかな」
「よく知らない?」
初めて七海が新聞から顔を上げる。眼鏡の奥の、こちらを咎めるような鋭い視線に僕は肩を竦めてみせた。
「まあ、僕あんま家帰んないから。多くても週に三日とかだし。だから自由にさせてるよ」
実際、に何か制限をかけたことは一度もない。どこへ行ったっていいし何を買ったっていい、誰と会って何をしたっていいとも思っている。について深く知る必要はない、そう僕は考えているのだ。
いい旦那じゃん、僕。自分を指さしてそう言うと七海から「そうですね」と肯定され、珍しく思った僕は視線を向けた。
「自由にさせている、つまり放置しているということですね」
七海の言葉に黙って笑ってみせる。まったくもってその通りだったからだ。
「でも週三日帰るって僕にしては大したもんよ? それまでは二週間に一回とかだったんだから」
「顔もお名前も存じ上げませんが、少し奥様に同情します」
「おーい、先輩を敬いなさい」
もう話すことはないと言わんばかりに新聞を畳んだ七海は、ふう、と息を吐くと「では私はこれで」と一言告げて去っていった。そんな彼の背中に「独身の僻みだ!」と叫んでみる。反応はなかった。
特級術師は多忙だ。やらなきゃいけないことが多い分、考えなきゃいけないことはなるべくシンプルにしておきたい。今日がどこへ行き、何を買い、誰と会って何をしているのか。まったく気にならないわけではないが、僕にとって現状それらは『考えなくていいこと』に分類されているのだ。
それに、いくら周りから放置していると言われようと、彼女だってその方がいいに決まっている。だって、望んで僕の元に来たわけではないのだから。

その日、の待つ家に帰宅したのは二十二時を過ぎた頃だった。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、僕はおや、と思った。いつも日付が変わるまでだったら起きて待っている彼女の声が聞こえない。玄関まで出迎えに来る様子もない。一瞬出かけているのかと思ったが、靴はあるので家にはいるようだ。
リビングでも、風呂でもない。はて、と思いながら室内を進んでいけば、の部屋のドアが僅かに開いていることに気付いた。ちらりと見えたベッドに姿は見えず、窓が開いているのか白いレースのカーテンが静かに揺れている。
え、自殺?
普段入らないようにしていることなどすっかり忘れて勢いよくドアを開けば、ベッドのすぐそばに置いてあるテーブルに突っ伏しているがいた。とりあえず飛び降りたわけでないことに安堵しながら近付けば、彼女の薄い肩がゆっくりと上下に揺れている。どうやら、寝ているだけのようだ。
「……びっくりした」
そう呟いて僕は一度彼女から離れ、窓を閉めた。暑いんだから冷房くらいつければいいのに。リモコンが彼女の身体を支えるテーブルの上にあることに気付いてそっと手を伸ばしたとき、の手元にあった一枚の写真に目が止まる。
部屋は暗かったが、廊下からの明かりのおかげでそれはよく見えた。と知らない男、二人が写った写真。時期や場所は不明だが、の笑顔は今よりも少しだけ幼く感じる。眠るに目を向ければ彼女の目元には泣いた跡がうっすらと残っていて、そっと指先での前髪を掬うと、いつも彼女が隠している右目には何かで強く引っかかれたような太い傷痕が残っていた。
について深く知る必要はない。
本当に――?
「ん……」
が眉間に皺を寄せ身じろぎしたので、僕はパッと彼女の前髪から手を離した。起きるかと思ったが、は顔の向きを変えただけで再びすうすうと小さな寝息を立て始めている。
冷房を設定し、僕は部屋を出た。の涙を見てしまったせいか、今日七海から言われた言葉が頭の中を巡っていた。
「今日さ、一日オフなんだよね」
翌朝。用意された朝食を目の前にそう言うと、お茶を注いでいたは「珍しいですね」と目を丸くした。
「繁忙期も終わったしね。だから、今日は家でのんびりしようかと思って」
「あ、なるほど」
何かを察したらしいは、お茶をテーブルに置いて笑う。
「そういうことでしたら、邪魔にならないよう私は外出しますね」
「なんでそうなんのかなあ」
塩焼きされた鮭の身を箸でほぐしながら呆れてそう言うと、は不思議そうに首を傾げた。まあ、がそう考えてしまうのも無理はないといえばないのだが。
「僕と、二人でやることがあるんだよ」
「二人で……ですか?」
「そ。休みの日に二人でやることと言ったら一つ……映画鑑賞でしょ」
僕の言葉に、はきょとんとしたまま瞬きを繰り返した。

「うっ……」
隣からの呻く声が聞こえて目を向ける。クッションと自身の膝を抱えるようにしてソファに座る彼女は、王道ホラー映画の恐怖から少しでも逃れようと薄目でテレビ画面を睨みつけている。
そんな彼女に向かって「あれ?」と言えば、それにすら驚いたようでびくん、と身体を震わせた。
「ってさあ、元呪術師だよね? これ以上に怖いもんたくさん見てきたでしょ」
「そ、それはそうですが、映像だと気配を感じることができないので心の準備、っが!」
一際大きな音が鳴る。は咄嗟に持っていたクッションへ顔を押し付けた。小さい子どものように怯えている様子が面白くて、僕は笑いながら手を叩く。
「はいはい目開けて~、根性見せろ根性~」
「ぶ、部活ですか……悟様は、怖くないのですか」
「んー、僕これ見るの三回目だしねえ」
そもそも映画を見て驚いたり泣いたりすることって、滅多にないし。そう答えると、は腑に落ちないような顔で僕を見た。
「それなのに、どうして今日は映画鑑賞なんですか?」
その質問にどう答えようか悩んでいる間に、今度は急にBGMが止まってが「ひっ」と声を漏らす。そろそろ来るよ、と耳元で囁くと、は恨めしそうな目で僕を睨んだ。初めて見る表情に、僕はまた笑ってしまった。
昼食を済ませ、もうホラーはいいと首を振る彼女の希望に沿い、二本目に選んだのは感動SFモノだった。最初に「全然怖くないよ」と嘘をついてホラー映画を流してしまったせいで少し疑っているようだったが、ストーリーが進むにつれての口数が減っていく。後半、ぐす、と鼻をすする音が聞こえてそっと隣を盗み見ると、はぽろぽろと大粒の涙を零していた。
笑ったり驚いたり泣いたり。僕が思っていたより、は随分と感情豊かな人間らしい。テレビの映像のせいで光って見えるの瞳と涙を見ていたら、昨日眠りながら泣いていたの姿が頭を過る。
「ねえ、昨日さ」
エンドロールが終わり部屋を明るくしてそう切り出すと、はティッシュで鼻を拭きながら振り向いた。その目にもう涙はなかったが、赤く潤んだ瞳は弱々しい小動物のようだった。
昨日、なんで泣いてたの。あの写真の男は誰。そう尋ねるのは簡単なはずなのに、なぜか迷いが生じて僕は口を噤んだ。なんでもないと言えば、彼女から深く聞いてくることはなかった。
「それにしても、があんなにホラーが苦手とはねえ」
そう言うと、は気まずそうに顔を逸らす。そんな彼女の横顔に、僅かな加虐心が芽生える。
「今日とか怖くて一人じゃ眠れないんじゃない? なんなら僕が一緒に寝てあげよっか?」
なーんてね、と言ったところでと視線がぶつかる。驚いた様子で徐々に顔や耳を赤くする姿に何も言葉が出なくなった。
軽い冗談のつもりで言ったのだが、まさかこんな反応が返ってくるとは。じゃあお願いしますと言われたらどうすればいいんだ。僕は彼女と同じベッドで眠れるのだろうか。一緒に暮らし始めて、そんな思春期男子のようなことを考えたのはこれが初めてだった。
あれ、でも案外嫌じゃないな。そう気付いたとき、黙り込んでいたがわざとらしい咳払いをした。顔は赤いままで、どこか拗ねたようにむっとしている。
「その……そこまで子どもではないので、大丈夫です」
「あ、うん、ごめん。僕が悪かったデス」
「夕飯の材料買いに行ってきます」
は俯き気味にそう言うと、そそくさと部屋を出て行った。しばらくして玄関のドアの閉まる音が聞こえる。
休みなんだから一緒に買い物に出てもいいし、なんなら今日は外食したってよかったのに。
「あー、くそ」
――あんな可愛い顔もすんのね。
を追いかけることができなかった僕は、熱くなった額を押さえぽつりとそう呟いた。