01.春の牢獄

 何の音か、分からなかった。
 まだ覚醒しきれていない頭の中でふと、ここはどこだ、と思った。その数秒後、ここが自分の――高専ではない方の――家であることに気付いたとき、もう一度先程と同じ音が鳴り響いた。インターホンの音だ。
 起き上がり、充電中だったスマホからケーブルを引っこ抜いて画面を確認する。伊地知に車で送らせて帰宅したのが朝の六時、シャワーを浴びて眠りについてからまだ二時間も経っていない。
 頭をガシガシと掻いてベッドから下りた。こんなに朝早くから一体誰だ。くあ、と大きな欠伸を零しながら寝室を出て壁に設置されたインターホンの画面を見ると、エントランスにスーツケースを持つ一人の女が立っていた。いや、マジで誰。

「誰?」

 通話ボタンを押してそう言うと、画面越しに女がびくりと肩を震わせたのが分かった。女がカメラに顔を向ける。しかし長い前髪のせいで、顔の一部は見えてもその正体は分からないままだ。

「あの、前当主様の命で参りました、」
「あ! あー、そうだったそうだった」

 話を遮って僕が声を上げたせいで、名乗るタイミングを失ったらしい女は「はい……」と気弱そうに返事をする。上がってきて、と伝え解除ボタンを押すと、自動ドアが開いて女は深々と頭を下げた。
 今から数年前の話だ。呪術高専の教師になる。そう決めたとき、父母を含む五条家の人間たちは面と向かって反対の声は上げなかったものの、かと言って快く賛成もしなかった。六眼を持った自分が五条家の当主となることは産声を上げた瞬間から決まっていて、そんな自分が五条家当主以外の肩書きを持ち責任を負うことをよく思わなかったのだろう。
 実際に教師になることが決まったとき、両親は僕にこう言った。東京で教師をやってもいいが、なるべく早く身を固めるように、と。それも五条家の繁栄のためだ、と。
 しかし、結婚などこれっぽっちも興味のない僕が積極的に嫁探しを行うはずがない。そんな僕に痺れを切らした両親から、僕の妻となる人間を送る、と告げられたのが二週間前のこと。普段は僕の采配で動く五条家も、結婚やら跡継ぎやらが絡んでくるとこちらが引くほど強気に出てくるものだから、由緒正しきお家柄というのは本当に面倒なものだ。

「ま、別にどうだっていいんだけど」

 冷蔵庫の中からペットボトルの水を取り出し、一口含む。寝起きに冷たい水が喉を伝い胃に流れていくのは、心地がよかった。
 面倒だ、と思いつつ、内心どうでもいいとも僕は思っていた。そもそも出張の多い僕がこの家にいることは少ないし、どんな形であれ一人女を家に住まわせるだけで実家からの圧力から逃げられるのなら、むしろ大歓迎だ。

「ご無沙汰しております、悟様」

 しばらくして玄関先に現れた女は、長い前髪を横に流し片目を隠していた。
 ご無沙汰……と言われても、今まで会った女たちの中にいただろうか。幼い頃からどこぞの名家のお嬢さんたちと見合いをする機会は多かったが、いまいちピンときておらず悩む僕に向かって、女は顔を上げると不安げに「です」と言った。
 。あ。

「思い出した」

 僕の言葉に、彼女は少しだけほっとしたような表情を浮かべた。
 。僕が今までに見合いをしてきた女たちの中で、一番やる気のなかった子だ。他の、狩りでもしているのかと問いたくなるほど炯々とした女たちとは違い、口数が少なくあまり自己主張しないところが逆に印象に残っている。

「へえ、君が僕の奥さんに選ばれたんだ。すごいね」

 ずいっと顔を近付けてそう言うと、女――は慌てたように目を伏せた。背が高くスラッとしているのは以前と変わらないが、こんなに内気な感じだっただろうか。顔だって、こんな風に隠してなかったと思うんだけど。
 僕からじっと見つめられることに耐えられなくなったのか、は顔を背けると小さな声で呟いた。

「あ、あの、服を着ていただけると……」
「服? ああ、服ね、はいはい」

 そう言われ、自分が上半身裸だったことを思い出す。たった一度しか会ったことのない男の元に嫁ぐ潔さはあるのに、こんなことでいちいち恥ずかしがるのか。そう言いたくなったが、彼女の言う通り服を着るため黙って寝室へ戻った。


「とりあえずこの部屋好きに使って。別に入っちゃいけない場所とかないし、自由に過ごしてもらって構わないから。あとこれ、マンションのカードキーとクレジットカード。暗証番号はこれ。荷物ってそれだけ? あとから何か届いたりする?」
「い、いえ、これだけです」
「あ、そう。生活に必要なものとか欲しいものとか、これ使って買っていいから」
「えっ、でも」
「僕もう少し寝るから、はい」

 狼狽えるの手に二つのカードを半ば強引に握らせる。一刻も早く寝たい僕の説明についていけないのか、彼女はただぱちぱちと瞬きを繰り返している。
 おやすみ、と言って寝室に戻ろうと彼女に背を向けたとき、「悟様」と呼ばれて振り向いた。

「あの……妻としての役目を果たして参りますので、何卒、」
「あー、そういう堅苦しいのいいから」

 そう言うと、は頭を上げてひらひらと手を振る僕を見た。片目しか見えないが、そこには驚きと困惑の色が滲んでいる。

「どうせ君も好きでここに来たわけじゃないんでしょ?」
「それは、その……はい……」

 素直に認められ、思わず噴き出した。いや別にいいんだけど。自分で聞いておいてあれだが、そこは隠すだろう、普通。

「僕もそんなにさ、興味ないし。結婚とか。お互い家がうるさいだろうから婚姻届は出した振りしといてさ、まあ自由に過ごそうよ」

 せっかく一緒に暮らすんだから、少しは楽しく暮らしたいけど。そう言って僕を見上げたまま固まっているの肩をぽん、と叩く。僕にとって、そして彼女にとってもその方がいいはずだ。無理して『夫婦』という関係を築かずに、ちょうどいい距離で互いにいい意味での無関心でいた方が。
 ぼうっとしているにもう一度「おやすみ」と言ったあと、僕は寝室に戻った。ベッドに倒れ込めば再び睡魔が顔を出し、ゆっくりと眠りの中に引きずり込まれていく気がした。
 それにしても――。頭の隅にの驚いた顔や困った顔が浮かぶ。
 望んで僕の妻という役割を果たしに来たわけでないのなら、この家は彼女にとってただの牢獄でしかないだろうな。変に夫としての態度を求められるのは勘弁だが、彼女の境遇には少しだけ同情する。
 まあ、無理だと思ったらすぐに追い返せばいい。扉の向こうにいる彼女のことを思いながら、僕は静かに目を閉じた。


 次に目を覚ましたとき、時刻は正午を過ぎていた。久しぶりにまとめて眠れたおかげか、少しだけ頭がスッキリした気がする。今日は夕方までには高専に行かなければならない。その前に、何か食べておこう。
 そう思って部屋を開けてすぐ、甘い香りが鼻腔をくすぐり一瞬思考が停止した。
 あ、そうだった。いるんだった。
 足音を立てずにリビングへ向かう。そこでまず目に入ったのは、テーブルの上に置いてあるよく泡立てられた生クリーム、いちご、バナナ、ブルーベリー、チョコレートシロップ、そして皿の上に何枚も重ねられたクレープ生地。

「……何事?」

 そう尋ねると、キッチンに立っていた彼女は僕に気付いて「おはようございます」と姿勢を正した。

「甘いものがお好きだと聞いていたので作ってみました。もしよろしければ……あっ、材料費は自分で出しましたので」
「や、そこは気を遣わないでほしいんだけど……これ、僕食べていいの?」
「ぜひ。種類が少なくて申し訳ないのですが、しょっぱい系が良ければこちらもどうぞ」

 そう言ってはキッチンに置いていた皿をテーブルに置いた。そこにはレタスやきゅうり、ハム、チーズ、ツナが乗せられている。ふと気付いたが、彼女はエプロン姿だ。
 なんか新婚っぽいな。結婚してないけど。そう思うとなんとなく気恥ずかしさに似た気持ちが胸をくすぐったが、ごっこ遊びのようにも思えて素直にありがとうとは言えなかった。
 それにしても、所謂普通の料理ではなくなぜクレープなんだろう。そんな疑問を頭に浮かべながら座った僕は、皿にクレープ生地を一枚とり、大量の生クリームを乗せた。用意されている甘い系のトッピングをどんどん乗せていく僕に目の前に座ったはぎょっとしているようだったが、気にせず包んで一口頬張った。

「うっ」
「えっ」
「うっま」

 口の中に広がる甘さに、そういや昨日の昼から何も食べていないんだった、と気付いて吸い込むようにクレープを平らげていく。生地が薄いからいくらでも食べられそうな気がするが、今きっと僕の血糖値は急激に上昇していってるんだろうな。なんとも罪な食べ物をなんとも罪な食べ方で食す僕に、がふっと笑みを零す。

「よかった」

 彼女がここに来て笑うのは初めてのことで、クレープを口へ運ぶ手が止まる。笑うと雰囲気ががらりと変わり、それは今朝会った彼女と同一人物か疑ってしまうほどだった。
 そういえば見合い中は終始やる気の感じられないだったが、たしか僕が何かを言ったときもこんな風に笑ったっけ。しかしその『何か』を思い出すことができず、眉間を押さえて考え込んだ僕にが「あの」と声をかける。

「少しは、楽しい気分になりましたか?」

 こちらの様子を窺うような目と視線がぶつかる。少しは楽しく暮らしたいけど。寝る前に僕が言った言葉を、彼女なりに実行しようとしたらしい。どうやらその方法の一つがこのクレープだったようだ。
 そのいじらしさに思わず声を上げて笑えば、は困ったように慌て出した。

「ありがとう」

 気を遣わなくていいよ、と言うとさらに気を遣わせる気がして僕はそう言った。先程ためらって言えなかった言葉を、なんの迷いもなく素直に口にすることができた。
 今のところ、追い返す必要はなさそうだ。今日、一人暮らしから二人暮らしになった部屋に、開いていた窓から春の風が舞い込んだ。