「いいのか?」

 目の前で起きている乱闘を愉快そうに、それでいて瑣末なものでも見るかのような目で見下ろしていたお頭がそう口にしたとき、初めて私は自分の掌から血が滴り落ちていることに気がついた。
 拳をゆるめ床几に座るお頭に目を向ける。彼の目は私ではなく、先の那貴の発言に怒り狂って暴れる雷土に向けられている。

「別に――」

 私の声は周りの騒がしさに一瞬で掻き消されてしまった。那貴の蹴りが雷土の腹に入り、雷土の拳が那貴の顔に当たる。明らかに雷土は殺しにかかっているのに那貴は微笑を浮かべていて、どこか楽しそうにも見えた。
 もう彼の目に私が映ることはないのだろう。彼の表情を見てそう感じた私は、先程よりも声を張り上げて言った。

「今更何を言っても無駄だと思うので、引き止めません」

 飛信隊に移る。
 乱闘の原因となった那貴の言葉に、雷土や黒桜はもちろん、味方には比較的温厚な厘玉でさえ険しい顔を見せた。此度の黒羊での戦い、飛信隊に入って動いていた那貴にどういう心境の変化があったのか、私には分からない。でもいつもの気まぐれだ、と笑う彼の眼差しからは意志の固さが窺える。

「ちげェよ」
「え?」

 くつくつと笑うお頭を見ると、彼は柘榴酒を飲みながら既に満身創痍となっている那貴を指さした。

「一発くらい殴っとかなくていいのか、って意味だよ」

 勝手に決められて悔しくねェのか。初めてこちらを向いたお頭は、そう言って血の滲んだ私の掌を一瞥した。決まりが悪くて背に手を隠すと、お頭がふん、と鼻を鳴らす。
 お頭は、全部分かっているようだ。今この場で一番那貴に対して怒っているのは、怒鳴り散らしている雷土ではなく私であることを。



 私と那貴が桓騎一家に入ってまだ日も浅い頃。ある日、野盗狩りにやってきた白老を捕らえたお頭は、野盗をやめて軍に入ることを決めた。私たちにとってあり得ない、馬鹿みたいなその決断に誰もが慌てふためいたが、一人だけ冷静な男がいた。それが那貴だ。

「随分と落ち着いているのね、アンタ」

 夜から朝へと向かう途中、東の空が白み始めるのを眺めていた那貴の背中にそう語りかけると、彼は振り向いて「こう見えて驚いてるぜ」と笑った。そんな那貴の言葉を疑いながら彼の隣に立ち、じっと刺青の入った横顔を見つめる。到底驚いているようには見えない。むしろ――。

「お」
「ん?」
「あれ」

 那貴の指さす方向へ視線を向けると、私たちがいるひらけた場所から少し離れた茂みの中に、気配を消してどこかへ向かう男たち数人の姿があった。全員の顔は確認できないが、幾人かは見知った人物であることが分かる。あれは確か、摩論の手下だ。辺りを警戒しながら歩く様から、間違っても朝の散歩でないことだけは確かだろう。
 舌打ちし、腰に差している剣に手を伸ばしたときだった。その手を掴んだ那貴が静かに首を振る。

「放っとけよ」
「だってアイツら、お頭が軍に移るって決めた途端あんなコソコソ逃げて……!」
「な、勿体ねーよな」
「もっ」

 勿体ない……?
 那貴の口から出た言葉に、私は口を開けたまま固まった。勿体ないって、一体何が勿体ないんだ。
 手を掴まれたままであることに気付いた私は慌てて那貴の手を振り払った。那貴は「本当勿体ねー」と、先程と同じことを言いながらもう誰もいなくなった茂みを見つめている。

「何が勿体ないって言うのよ」
「桓騎一家に入ってからさ、俺はお頭のやること、考え、すべてに驚かされてばっかなんだよ」

 すげえよ、お頭は。そう話す那貴の光を宿した瞳に、私は黙って唇を噛み締めた。
 私はお頭の決定に未だに動揺を隠せずにいる。野盗の子として生まれ、野盗として生きてきた私が軍に入って国のために戦うだなんて、心の内では冗談じゃないと思っている。それに比べ、那貴は驚いたと言いつつもこの状況を楽しんでいるようにしか見えない。そのことが、私はとても悔しかったのだ。

「おっ、お頭がすごいことは私だって分かってるし」

 悔し紛れにそう言ったものの、口にしたらしたで余計情けなく感じる。私は遠くを見つめたままの那貴を指さした。

「で、だから何が勿体ないってのよ!」
「ん? ああ」

 那貴はそこでようやく私に視線を向けた。私の人差し指を手で払いながら「人を指さすなよ」と笑う。

「きっと、これからもお頭には驚かされることばっかだと思うんだよ、俺は。さっき逃げてったアイツらは、そんな驚かされる楽しみを自ら捨てちまったんだよ」

 な? 勿体ねーだろ。そう話す那貴に今何を言っても、自分の不甲斐なさや弱さが浮き彫りになるだけな気がして私は口を噤んだ。
 悔しい。悔しいけれど、なぜ私より那貴の方がお頭に気に入られているのか、その理由がようやく分かった気がする。
 那貴の結った長い髪が揺れる。少し休むか、と言って屋敷の方へ戻る後ろ姿に向かって「那貴!」と声を上げた。恐らく、私が彼に向かって名を呼んだのはこれが初めてだ。そのことに気付いていないのだろう、那貴は振り向くといつもの調子で「なんだ?」と、私をまっすぐ見据えて言った。自分でもどうして呼び止めたのか分からず、言葉に詰まる私に那貴が眉を顰める。

「なんだよ」
「い、言っておくけど私の方が桓騎一家に入ったの、三日早かったんだからね!」
「たった三日な」
「軍に行ったら、私の方が絶対、絶対先に出世するんだから」

 私の言葉に那貴は一瞬だけ目を見開いて考える仕草を見せる。しかしすぐにぱっと顔を上げると、「俺はそういうの興味ないな」と言い放った。

「んなっ……じ、じゃあどっちが先にお頭の右腕になれるか勝負よ!」
「それもどうでもいいわ、まあ頑張れよ」

 背を向けてひらひらと手を振る那貴に向かって「アンタむかつくわね!」と言えば、那貴は振り返り、ははっと笑った。いつも自信たっぷりで涼しい顔をしている那貴が無邪気に笑うのを見るのは初めてで、意表を突かれた私はそれ以上何も言えなかった。

「驚かされる、楽しみ……」

 一人になって、先程の那貴の言葉を静かに繰り返す。
 桓騎一家に入ったとき、この男について行けば先の人生で何かを間違えることはないだろう、と思った。桓騎という男には、そう思わせるだけの力があった。楽しもうだなんて、これっぽっちも思わなかった――。

「やっぱ、むかつく」

 そう言葉にしたけれど、先程感じた苛立ちが再び顔を出すことはなかった。悔しいけれど、那貴は私より先を行っている。だったら私のやることは、那貴に追いついて、そして追い越す。それだけだ。



「あんなに勿体ない勿体ない言ってた男が桓騎軍から逃げ出すなんて、ほーんと笑えるわよね」
「なんだ、今更」

 宜安城から眺める空からは奇しくもあの日、那貴と二人きりで言葉を交わした日の空と同じにおいがした。なぜ今、そんな昔話をするのか。そう言いたげな顔でこちらを見つめる那貴に向かって、べえと舌を出す。すぐそばでは飛信隊の隊長と女軍師、白老の孫たちがああでもないこうでもない、と戦略を練っている。
 窮地。そんな言葉しか思いつかないほど追い込まれた状況。趙攻略を試みたものの李牧にしてやられたのだ。夜通し川の中を進んできたためぽたりぽたりと身体から水が滴り落ちる。薄暗いせいかそれが血のように見えて、私は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。喋っていないと、耐えられない。この状況を乗り越えるために、私は那貴に向かって話し続ける。

「あの日、言えなかったことを全部ぶちまけてやろうと思ってさ」
「そういうお前は俺より先に出世するとか言ってなかったか? まだ俺と同じ千人将だろ」
「うるさいな」

 那貴の軽口に少しだけ気持ちが楽になった気がして、私は空を見上げて息を吐いた。あまり時間はない。今のうちに少しでも休んでおかないと、身体が持たないだろう。
 隣で同じように空を見上げていた那貴がぽつりと「お頭は」と呟く。お頭は、目を閉じて座っている。

「お頭は……一体、何考えてんだろうな」
「え?」
「どこに向かってて、何のために戦ってんだろうな」

 広い空に向かって吐き出すように言った那貴の横顔には、当たり前だけれどこの状況を楽しもうとする余裕さは微塵も感じられなかった。でもそれも致し方ないことだ。再び空へ視線を戻し、那貴の独り言ともとれる呟きの意味を考えてみる。

「そんなの、誰も分かんないでしょ」
「……ま、そうだな」
「……終わったら、お頭に聞いといてあげる」
「終わったら、か」

 そう聞かれ、私はもう一度「終わったら、よ」と返事をする。私と那貴の間になんとも言えない沈黙が流れた。
 那貴の言いたいことは痛いほどよく分かった。終わったら。そう言ってはみたけれど、今のところここにいる面々誰もこの戦いの勝ち筋が見えていない。もちろん、お頭は別かもしれないが。
 ってか、飛信隊に移ったくせに今でも『お頭』って呼ぶのね。そのことがなんだかおかしくて、私は軽く笑った。

「だから、アンタは――」
「ん?」

 すべてを話し終える前に、女軍師が「あっ!」と大声を上げた。彼女の視線の先には三本の狼煙。それは、望みであった赤麗が趙に落とされたことを意味している。空気が一層重くなった。
 話の続きは、終わったらしよう――。一人心の内でそう決意して、暁の空を仰いだ。



 目の前が霞む。お頭の姿は見えるのに、身体がうまく動かない。腹から下がぬるま湯の中に浸かっているような気がして、ゆっくり視線を下ろすと腹に槍が突き刺さっていた。
 確か私たちは宜安城を出て、肥下城へ向かって、李牧に奇襲を……そうだ、李牧を、今すぐ李牧を討たなきゃ――。
 顔を上げて振り向こうとしたとき、ずるりと腹から槍が引き抜かれ信じられない量の血が噴き出した。手綱を掴んでいた手から力が抜けていく。ぐら、と身体が揺れて落馬する直前、こちらを見て何かを叫ぶ那貴の姿が見えた。
 もう彼の目に私が映ることはない――。あの日、那貴が飛信隊に移ると決めた日にそう思った。でも確かに、那貴の目にはしっかりと私が映っているように思えて、なぜか分からないが涙が零れた。

「なん、で……」

 なんで。飛信隊のアンタが、なんでこんなところにいるのよ。

「だから、アンタは――」

 宜安城で、那貴に言おうとしたこと。お頭が何を考えていて、どこに向かっていて何のために戦うのか、私が聞いておいてあげるから。

「だから、アンタは飛信隊で、仲間たちと楽しくやってな」

 ようやく心からそう望めるようになったのに。どうしていつも、私の望みを踏み躙ることばかりするのよ。私はただ、那貴に楽しく生きていってほしかったのに。そう思えるように、なったのに。
 土埃の中、血が地面に流れていくのを感じる。霞む視界の中で最後に見えたのは、馬に乗り、私を越えて先を行く那貴の背中だった。


「俺はまあ、楽しく生きてた方だと思うけどな」
「えっ?」
 
 目を閉じて開けた、一度の瞬きの間に現れた那貴の姿に、私は素っ頓狂な声を上げて辺りを見渡した。周りは暗く何も見えないのに、目の前にいる那貴の姿だけははっきりと見える。先程まで感じていたはずの痛みや苦しみ、暑さ、寒さは感じない。那貴の表情も柔らかなもので、彼の身体には血も汚れもまったくついておらず、私はそれに酷く安心した。
 
「楽しく……生きてたの? 本当に?」
「ああ、しょっちゅうお前が突っかかってくるのも嫌いじゃなかったし」
「べっ別に突っかかってたわけじゃ」

 那貴が慌てる私の後ろへ視線を向け、「全員揃ったみたいだな」と呟く。振り返ると、那貴と同じく暗闇にいるのに、厘玉や黒桜、そして雷土とお頭の姿が見えた。厘玉が私たちに気付いて手を挙げる。

「俺たちも行くか」

 そう言って歩き出した那貴の隣に並ぶ。不思議と足取りは軽い。

「どこに行くのかな」
「さあな。でもお頭の行く先ならどこでもいいだろ」
「それも、そうね」

 にぎやかに言葉を交わす四人のうち雷土はまだこちらに気付いていないようだが、彼が那貴を見たらまた喧嘩になるのではないか。そんな不安に駆られていたら、まっすぐ前を見たまま那貴が「勝負するか」と言った。勝負? 雷土と?

「どっちが先にお頭の右腕になるか」

 那貴のその言葉に私は目を丸くした。

「興味ないんじゃなかったの?」
「気が変わった」

 お頭が軍に移ると決めたときと同じく希望に満ちた那貴の横顔に、自然と口元が緩んでいく。

「望むところよ」

 私の返事に那貴は笑った。あの日と同じ、無邪気な笑顔だった。


(2023.8.1)