生温い風に乗ってやってくる血の臭いは、いつも私を憂鬱にさせる。一番血が流れる戦場にいるときは何も感じないのに、なぜ戦が終わったあとの方が気になってしまうのだろう。

 趙国との黒羊戦。その熾烈な戦いを我らが秦軍は見事に勝利で飾った。戦の内容については到底納得できるものではなかったものの、桓騎将軍の策によって勝利に導かれたことはまぎれもない事実だ。
 当初、その事実を私たち飛信隊の面々はなかなか受け入れられなかったが、今では切り替えて西の丘の砦化および黒羊外周の警邏を行っている。

 陽が傾き始め、警邏を終えて丘へ戻ったときのことだ。慌てた様子で、そして少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた河了貂が「手当てしてやって」と言いに来たので、私は馬上で一人首を傾げた。
 今日、警邏隊に負傷者は出なかったはず。ということは、丘で作業に当たっていた誰かが怪我でもしたのだろうか。
 そんなことを考えながら河了貂の後を追い、そしてすぐに「手当て」が必要な人物を前にして私は目を丸くした。

「えっ、那貴さん?」

 もう二度と呼ぶことはないかもしれない、と思っていた相手の名が、自分の口から間抜けな音となって零れ落ちる。
 天幕の中にいたのは、桓騎軍に戻ったはずの那貴さんだった。なぜここに、と問う前に疲労の色を滲ませた彼が口を開く。しかし紡がれた言葉は、河了貂が私の甲冑に竹籠を押し付けて鳴った鈍い音によってかき消された。
 状況を理解できないまま、負傷した隊士の治療に使う薬籠を胸の前で受け取る。河了貂は呆れたように、それでもやはりどこか嬉しそうに溜息を吐いてみせた。

「那貴たち、桓騎の野郎に直談判して正式に加入しに来たんだってさ! 飛信隊に!」
「ちょ、野郎って……え、本当に?」
「ひっどい怪我だからよろしくな、

 ひらひらと手を振り、去ろうとする河了貂の背中に向かって「別に手当てするほどの怪我じゃない」と那貴さんが呟く。その言葉を聞いた河了貂は足を止め、くるりと振り返った。そして私の前を早足で通り過ぎ、座る那貴さんの前に立ちはだかると何の躊躇いもなく彼の目の前に指を突き付けた。

「うちに来たからには明日から容赦なく働かせるから、そのつもりで!」

 小さい体に見合わない度胸を持ち合わせた、頼りがいのある我らの軍師。そんな彼女の一挙一動に目を見張っていたら、今度は私の方に身体を向け、力強く私の肩に腕を回した。
 突然のことに、私は小さな悲鳴を上げる。しかし河了貂は差程気にも留めず、口元に手を当てて「後悔してただろ、礼を言う絶好の機会だぞ」と私に耳打ちすると、こちらが引き留める前に走って天幕を出て行ってしまった。
 普段ありとあらゆることを考えていなければならない彼女が、私のいつかの独り言を拾って覚えてくれていただなんて。そのことに驚きを隠せないまま那貴さんに目を向ければ、私を見つめていた彼と視線が重なり大きく心臓が跳ねた。天幕の外からはいくつもの賑やかな声が聞こえてくるのに、私たち二人の間には静かな沈黙が流れている。
 そもそも、私は那貴さんと親しく会話を交わす間柄ではない。思い返してみても、話した回数など片手で数えられる程度だ。
 それでも、私は彼に礼を言いたかった。ごくりと喉を鳴らし、籠を両手で抱き締めて那貴さんのそばに腰を下ろす。

「あの……甲冑、外せますか?」

 籠を置き、顔を伏せて中に入っていた薬や包帯を確かめる振りをしながらそう声を掛けた。なぜこんなにも緊張しているのか、自分でも分からない。ややあって甲冑を外す音が聞こえ、私は静かに胸を撫で下ろした。

 那貴さんの怪我は多くが打撲で、骨が折れている様子もなければ出血している箇所もそこまで多くはなかった。一体何をしてこんな怪我を負ったのか、そもそも先程河了貂が言っていた『正式に加入しに来た』とはどういう意味なのか。何からどう聞くべきかを考えながら、止血した右腕に薬を塗る。幾重にも巻かれた包帯を長く伸ばしたとき、それまで黙っていた那貴さんがぽつりと呟いた。

「俺はあんたに、礼を言われるようなことをした覚えはないが」

 私は手を止めて、彼の横顔を一瞥した。暫し迷って、持っていた包帯を彼の腕にきつく巻き付ける。

「……聞こえてたんですね」
「元野盗なもんでね、耳の良さには自信がある」

 螺旋状に巻き終えた包帯の端を引き裂いて結ぶ。そしてすっかり隠れた患部を手でぽん、と叩けば、那貴さんはふ、と小さく息を吐いて「ここの女たちは乱暴なやつばかりだな」と笑った。
 質問は山程ある。しかし、まずはその前に──。
 腕や手首を回し、感覚を確かめている那貴さんの名前を私は呼んだ。

「那貴さん」
「ん?」
「その……ありがとうございました」
「……だからそれは、何に対しての礼なんだ?」
「初めて会った日、私が桓騎軍に行くのを引き留めてくれましたよね」

 あの日、尾平がやや興奮気味に桓騎将軍について語るのを聞いていたときに現れた那貴さんはこう言った。「飛信隊を気に入った桓騎将軍が隊員と話したいと言っている」と。
 蓋を開けてみればそれは『隊の入れ替え』だったわけなのだが、当時その場にいた全員がすぐに戻れるものだと認識していた。そのため、尾平同様に古参である私も桓騎将軍の元へ行こうとしたのだが、それに気付いた那貴さんから「女はやめといた方がいいよ」と引き留められたのだ。
 最初は女だからなめられているのか、と眉を顰めたものの、戦が終わり飛信隊へ戻ってきた尾平たちは口々に「は行かなくてよかったよ、あんなとこ」と私の肩を叩いた。理由を尋ねれば、飛信隊以上に桓騎軍での戦いが厳しいものだったから、という説明をされたのだが、それが本当なのか、もしくは最初の『女つきの接待』が私に見せられないようなものだったからなのか、詳細は分からない。
 私の説明を那貴さんはしばらく黙って聞いていたが、そのときのことを思い出したのか「ああ」と声を上げた。

「あのときね。あんたお頭の好きそうな顔してるから、行かせたらまずいかもなーと思ったんだよ」
「ま、まずいとは?」
「なに、言わなきゃわかんねーの?」
「いえっ! 大丈夫です!」

 まさかの理由に戸惑う私の反応を見て、那貴さんが笑う。
 もう何度か戦に出ているが、幸いにも顔に大きな傷はない。だからと言って特別見目麗しいわけでもないこの顔を、あの女には困っていなさそうな桓騎将軍がわざわざ選ぶだろうか。
 那貴さんの言葉を怪しんだが、もしそれが本当ならばやはり那貴さんには感謝してもし足りない。私はもう一度「ありがとうございました」と頭を下げ、顔中に熱が集中していくのをごまかすように、籠の中に薬や包帯を投げ入れて立ち上がった。
 河了貂の話しぶりから考えるに、飛信隊へ来たのは那貴さん一人ではないはず。他の人も手当てが必要か問えば、那貴さんは必要ないと首を横に振った。

「じゃあ、私はこれで」
「ああ」
「……あ、そうだ」

 天幕を出て行く直前、後ろを振り返ると再び甲冑を着ようと立ち上がった那貴さんと目が合った。

「もう一つお礼を……尾平のことも、ありがとうございました」
「あ?」
「桓騎兵にやられていたところを助けてくれたって……那貴さんが来なかったら死んでいたかもしれない、と聞いたので」

 そこまで話し、私と同じく那貴さんにお礼を言えなかったと嘆いていた尾平の顔が頭に浮かんだ。彼は、私より先に那貴さんと再会することができただろうか。
 甲冑を着る手を止めたままじっと私を見つめる那貴さんに「では、また」と声をかけ天幕に触れたとき。急に背後から手首を掴まれ、私はぎょっとした。
 再び振り返れば、離れた場所にいたはずの那貴さんがいつの間にか私のすぐそばに立っている。驚いて言葉も出てこないまま、私はただ那貴さんの顔と掴まれた手首を交互に眺めた。
 油断、というより特に警戒もしていなかったせいか、何の気配も感じなかった。そう言えばまた「元野盗だから」という言葉が返ってくるのだろうか、と頭の隅で考える。

「あの……?」
「あんたさ」
「はい?」
「ひょっとして、出っ歯君の女?」

 思いがけない質問に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。そして虚を突かれた私だったが、すぐに「はい!?」と大声で聞き返した。出っ歯君、というのは恐らく尾平のことだろう。つまり、私が尾平の女かって?
 私は思わず吹き出した。片方の手首は掴まれ、もう片方の手で籠を持つ私はけらけらと笑いながら大袈裟なほど首を横に振ってみせた。

「まさか、そんなわけないじゃないですか! そもそも尾平にはちゃんと相手がいますよ、東美ちゃんっていう」
「あ、そ」

 質問を投げた本人の大して興味なさそうな返事に、一人で笑っていることが次第に恥ずかしくなった私は黙ってこちらを見下ろす那貴さんの顔を見つめ返した。涅色の瞳の奥で一体何を考えているのだろう。特に場を和ませようとして質問した訳でないことは明らかだが。
 掴まれている手首がじわじわと熱を帯びていく。ふと視線を逸らし、那貴さんの右頬に走る蛇の尾のような墨を捉えたとき、外から河了貂の元気な声が聞こえた。そうだ、夕飯の準備を手伝いに行かなければ。頭ではそう考えているものの、那貴さんが私の手首を離す気配は全くない。

「あんたが桓騎軍に行くのを止めた理由だけど」
「へっ」

 声が裏返ってしまった。いきなり話を最初の方に戻した那貴さんは、そのまま私にずいっと顔を寄せた。手首に集中していた熱が頭のてっぺんからつま先まで広がっていく。自然と背筋が伸びて、私は僅かに仰け反った。
 那貴さんの口元がゆっくりと緩められていく。

「お頭の好きそうな顔してるから、ってのが半分」
「半分?」
「あとの半分は、──私情かな」

 にやり、と何かを企んでいるような笑みを携える那貴さんを目の前に、私は唖然とした。
 なぜ那貴さんが『私情』で私が桓騎軍へ行くことを引き留めたのか考え始めたとき、急に天幕ががばっと開いたので二人同時にそちらへ視線を向けた。
 そこに立っていたのは楚水副長だった。まさか人がいるとは思わなかったのだろう、冷静沈着な彼の目がどんどん見開かれていく。そして深い意味はなくとも顔を寄せ合っている私たちの姿に困惑の表情を浮かべた副長は、「……失礼」と短い謝罪の言葉を告げ、静かに去っていった。

「な、なんか、誤解されちゃいましたかね」

 追いかけて説明を、と思い天幕を出ようとしたら、手首を掴んでいた那貴さんの手が下がっていき、私の手の甲をするりと撫でた。毎日剣を持つ彼の手の平は私と同じくかたく、そのざらりとした肌になぜだか全身が震える。
 
「まー、俺は誤解されてもいいけど」
「……え?」

 思わず聞き返したもののそれに対する答えはなく、那貴さんは私の手を離すと一言だけ呟いた。

「手当て、助かった」

 那貴さんが外へ出ると、一層辺りが賑やかになるのが分かった。たった一枚の天幕を隔てているだけなのに、外と中で別世界のようだ。一人残された空間で、ただただ全身が熱い。
 思考が追い付かずしばらくの間その場に立ち尽くしていたが、顔だけを覗かせた河了貂と目が合い私ははっとした。彼女も私がすぐそばに立っていると思わなかったのか、些か驚いた顔をしている。

「那貴出てきたけど、ちゃんと礼言えたか?」
「あ、うん、言えた」
「……なんか、顔赤いな。大丈夫?」
「大丈夫だよ」

 軽く笑って外へ出る。いつの間にか、空はもううっすらと暗くなり始めていた。隣を歩く河了貂が今日の夕飯の話をするのを聞きながら、頭の中ではいろんな考えが駆け巡っている。
 結局、私情とは一体何なのだろう。それより早く楚水副長と話をしなければ。誤解されてもいい、というのは、どういうつもりで言っているのか──。
 ふと立ち止まる。少し離れた場所で、信と話す那貴さんの姿が見えた。正面から颯々と吹く風を受けて「あ」と声を上げた私を、河了貂が不思議そうに見上げる。

「……におい、変わった?」
「え、何の? 夕飯の匂い?」

 昨日と変わらず風に乗ってやってくる微かな血の臭いを感じるのに、いつものような鬱々とした気分は訪れない。それどころか高揚感すら覚える。

「本当に大丈夫か? やっぱし熱あんじゃねーの、熱」

 私の真正面に立ち、背伸びをして額に手を伸ばす河了貂。しかし私はそのずっと奥にいる那貴さんから、どうやっても目を離すことができなかった。


−半分の理由−



(2022.10.04)