17.あのときの続きから


「みんなに注意したいことがあります」


 そう切り出したあと、私ははっとした。そういえば前にも似たようなことがあったな。一年生三人の視線を浴びながら、一人思いを巡らせる。
 私の手には報告書と概算見積書がそれぞれ一枚ずつ。私は概算見積書に並んだゼロの数にため息を零しながら、話を続けた。


「先日の埼玉での任務…なんでも補助監督の指示に従わず、その結果全く関係のないビルの一部を破壊した人がいるようですね」


 私のその言葉に、分かりやすく動揺した一名がまっすぐ手を挙げる。


「でも先生! 被害者はゼロでした!」
「被害者ゼロは当たり前です、虎杖くん」


 そう返せば、虎杖くんは分かりやすくしゅん、と身を縮こまらせた。
 どんな内容の任務であろうと、祓除の現場においてある程度建物の損壊は仕方のないことだと思っている。こちらだって、命をかけているのだから。しかし今回の場合、補助監督の指示通りに動いていれば被害は現場となる建物のみに抑えられたこと、そして虎杖くんの破壊した全く関係のないビルが今週末にグランドオープン予定だった商業施設だったことから、各方面への謝罪・賠償など本来発生するはずのなかった対応が生まれたことなど、さすがにいつものように『仕方ない』の一言で終わらせるのは難しいところまで来ていた。
 私の脳裏にチラつくのは、青筋を立て低い声で「虎杖にキツく言っておけ」と言い放った学長の姿だ。


「今回のことは伊地知がうまく対応してくれると思うけど…今後はこのようなことがないように、」
「ふぁーい」


 虎杖くんの気の抜けた返事に毒気を抜かれていたら、机に頬杖をつき話を聞いていた釘崎さんが少々イライラした様子で「っていうか」と呟き、私の背後を指さした。


「なんか不機嫌そうで腹立つんだけど。フキハラよ、不機嫌ハラスメント」
「え?」


 彼女の言葉に何も考えずに振り返れば、そこには確かにどこか不機嫌そうに口を真一文字に結んだ五条さんが壁に背中を預けて立っていて、思わずぎょっとした。まさかいるとは思っていなかったので、恐る恐る名前を呼ぶ。
 今回の件、さすがの五条さんも立腹しているのだろうか。そう考えていたら、五条さんが「」と私の名前を呼んだので、私は首を傾げた。


「何でしょう、五条さん」
「なんで『さん』なの? もう先輩って呼んでくれないわけ?」
「え? いや、さん付けの方が慣れているので…というか今その話は」


 …何やら嫌な予感がする。と言うより、嫌な予感しかしない。小さい声で、でも他のみんなにも聞こえるように愚痴を零す五条さんに、冷や汗が流れる。


「なんかさあ、全部思い出した割には今までと変わんないよね?」
「そ、それは…」
「あれから一か月経つけど、僕の予定では一日に最低でも十回はキスしてなんならもうセックスも済ませてるはずなのに、何一つできてないし」
「ちょっと!?」


 まさかの発言に慌てて五条さんの口を両手で押さえれば、確信犯なのか私の手の中で五条さんの口元がにやりと緩められるのが分かった。からかわれているようで腹が立った私は五条さんを睨みつけ、小声で「生徒たちの前でなんてこと言ってるんですか」と咎める。


「だってが冷たいんだもん」
「別に冷たくしているつもりは…」


 二人で押し問答を繰り広げていたら、釘崎さんの「夫婦漫才復活ね」という呆れた声が飛んできた。
 その瞬間、『夫婦』という言葉に以前と変わらず機嫌を良くした五条さんが私の手首を掴んだ。そしてそのまま高く掲げ、「注目〜」と声をあげる。


「長いこと夫婦漫才と言われてきた僕たちですが、とうとう本当の夫婦になっちゃいまーす」
「…何言って、」
「え! マジで!?」


 信じていないのか、はたまた興味がないのか。無反応な伏黒くんや釘崎さんとは違い、虎杖くんが驚いたような反応を見せる。反論しようとしたものの、先程私に注意されたことなんてすっかり忘れてしまったのか、虎杖くんが顔を輝かせながら


「俺、五条先生と先生どっちも好きだからめちゃくちゃ嬉しいんだけど!」


と無邪気に笑う様子を目にした途端、何も言えなくなってしまった。
 いや、それにしても『本当の夫婦』って──。五条さんは困惑している私の手を握ったまま、「質問のある方は挙手でお願いします」と空いている方の手を挙げる。


「はい!」
「はい! 悠仁くん!」
「えーとえーと、いつの間にプロポーズしたんすか!?」
「プロポーズはねえ」


 五条さんは顎に手を当てて私をちらりと見下ろしたあと、すぐに微笑んでこう言った。


「もう随分前にしてるんだよ」




 廊下を足早に進む私に対し、五条さんは急ぐ素振りも見せずゆっくりと大股で歩いている。それでいて私についてこれていることに少しだけ悔しさを感じていたら、「〜怒ってるの?」という猫なで声が私の背中に飛んできた。


「当たり前です」
「なんで?」
「なんでって…生徒たちの前であんな変なこと言わなくても…」
「変なことって、本当の夫婦になりますってやつ?」
「そうじゃなくて──」


 立ち止まって後ろを振り返れば、五条さんは本当に分からないといった表情を浮かべていて、私は開きかけていた口を閉じて視線を泳がせた。


「…その、もう少し前の」
が冷たいんだもん?」
「それより前の…」
「ああ、もうセックスも済ませてるはずなのにってやつ?」
「声に出して言わないでください!」
「いや、今のはが言わせたよね」


 はは、と短く笑った五条さんに向かって抗議しようとしたとき、五条さんは私の髪を一束手にとるとそのままそこに唇を滑らせた。不意に近くなった距離に、髪を触られていて後ろに引くこともできない私は思わず息を呑んだ。


「今まで散々待ったからもうあんまり待つ気ないんだよね、僕」
「ご、五条さん…」


 指で私の髪を梳く五条さんに、意を決して学長も出席する定例会議まであまり時間がないことを告げる。すると五条さんは少し名残惜しそうに私の髪から手を離し、今度は私の後ろではなく隣を歩き始めた。
 今まで何度もこうやって二人肩を並べて歩いてきたはずなのに、なんだか妙に緊張してしまう。それもこれも、五条さんが変なことばかり言うから──。そんなことを考えていたとき、「そういえば」という言葉が隣から投げかけられてさらに心臓が跳ねた。


「今度お祝いしようよ、二人で」
「お祝い…?」
「そ、記憶が戻ったお祝い。ついでにの昇級祝いも兼ねてさ」


 五条さんはそう言うと私の返事も聞かずにスマホを取り出し、歩きながら何かを調べ始めた。「やっぱ寿司かな〜」と言っているあたり、もう早速『お祝い』の場所を探しているようだ。
 昇級のため私が単独で一級任務に当たることを拒み続けていた五条さんだったが、記憶を取り戻した私の説得と学長の助力もあり、なんとか了承を得ることに成功。その結果、つい先日私は晴れて一級術師の仲間入りを果たしたのだ。
 念願叶った、と言えばそうなのだが、いつまでも浮かれてはいられなかった。一級に上がったということは必然的に今後の任務のランクも上がり、その分危険も増すということなのだ。


は行きたい店とかない? お祝いだから普段行かないようなめちゃくちゃ高い店でもオッケーだよ」
「特には…」
「じゃあ僕にしてほしいこととかさ、何かあるでしょ」


 どうやら二人でお祝いをすることはもう決定事項らしい。妙に張り切っている五条さんの隣を歩きながら、腕を組み思案する。五条さんにしてほしいこと…もっと真面目に教師の仕事をしてほしい…。
 そう考えたところで、私は「あ」と声をあげた。


「じゃあ…あの映画の続き、一緒に見てくれませんか?」
「映画? いいけど、確か悠仁にネタバレされたんじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど」


 確かに五条さんの言う通り、映画の結末は虎杖くんに聞いてしまった。しかしそんなことはどうでもいい。記憶を失う前に五条さんと交わしたあの日の約束を、きちんと果たしたいのだ。
 そううまく説明できずに口ごもる私を見て、五条さんは私の考えを理解したのか「いいよ」と頷いた。


「じゃ、適当に食べ物とか買って映画鑑賞会しよ」
「ありがとうございます」
「その日までに変な呪霊に当たって、また全部忘れたりしちゃだめだよ」


 私の顔を指さし、「次また忘れたら今度は怒るからね。強引に、秒で思い出させる」と宣言する五条さんに思わず笑ってしまう。
 つまりそれは、もしまた私が記憶を失っても諦めないでくれるのか。笑うのを我慢できなかった私に、五条さんは僅かに唇を尖らせた。


「この前、『心折れてた』って言ってた人とは思えないくらい強気ですね」
は?」
「え?」


 五条さんが立ち止まったので、私も一歩前で立ち止まり振り返る。彼はポケットに手を入れたまま、こう尋ねた。


「僕がもし、とのこと全部忘れちゃったらどうする?」


 その問いかけに、私は記憶を取り戻した日のことを思い出した。五条さんのこの質問は、あの日自分で自分に対し抱いた疑問と同じだった。
 もし逆の立場だったら──。私のやることは決まっている。


「そのときは…待ちますよ。十年でも二十年でも、五十年でも。五条さんが思い出してくれるのを」


 貴方が私にそうしてくれたように。

 私の返事を聞いた五条さんは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐに口角を上げからかうように笑った。


「約束だからね」
「約束です」


 ポケットの中でスマホが軽く震える。いよいよ時間がないようだ。「早く行きますよ」と五条さんを促せば、彼は再び私の隣に並んだ。


「あと僕、に言わなきゃいけないことがあって」
「なんですか、会議前にとんでもない爆弾落とすのやめてくださいね」
「爆弾と言えば爆弾なんだけど──僕、のことめちゃくちゃ好きなんだよね」


 予想だにしなかった言葉に勢いよく隣を見上げれば、五条さんはまっすぐ前を見据えたまま小さく笑った。


「学生の頃、結局言えなかったから。今言っとく」
「そう、ですか」
「そうなんです」
「…私も」


 好きですよ。
 小さく、囁いた言葉を五条さんが拾ったかどうかは分からない。でも顔を正面に戻し、ちらりと目線だけで捉えた五条さんの横顔は今まで見た中で一番嬉しそうに見えた。
 あんなに『五条さんのことが分からない』と悩んでいたのが嘘のように、今では彼の気持ちが手に取るように分かる。そしてそのことを、どうしようもなく嬉しいと思っている自分がいる。


「そういや『夫婦になります』発言は認めてくれたってことでいいんだよね?」


 ご機嫌な様子でそう問いかける五条さんに、今度はきちんと届くように、聞こえるように返事をする。戻ることは叶わないけれど、あのときの続きからまた始められるように。


「プロポーズの返事は、もう随分前にしてますから」


 遠くなりつつある学生時代。歩んできた道の続きを、今再び歩み始めた。新しい約束とともに、二人で一緒に。



(2022.08.16 ~fin~)