16.あなたの愛したあと


 今思えば、思い出すためのきっかけは私の周りにたくさんあったのに。


「──は?」


 ぽかんと口を開けて私の先輩呼びに呆然としている様子の五条さんだったが、しばらくして少し乱暴にアイマスクを引き上げると、思わず怖気づいてしまうほどの目力で私の顔を食い入るように覗き込んだ。先程急に訪れた身体が浮くような感覚や、激しく動いていた心臓が徐々に平静を取り戻していく。


「…今さ、僕のこと先輩って言った?」
「言いました…あの、多分思い出した、みたいです」
「何を」


 忘れていた五条さんと私の関係、そして思い出。それらが今まで気付かなかった自分自身の記憶の空白の中に一気に流れ込んでくる。
 信じられないのか、五条さんの眼差しは明らかに私を勘ぐっているように見えた。でもそれは仕方のないことだと思う。何せ、ここまで来るのに十年もかかってしまったのだから。
 まだ少し頭が混乱している私は、五条さんの上着の裾を両手で強く握りしめた。持っていたDVDとストラップが床に落ちて音を立てる。


「その、私が五条さんとお付き合いしていたことを…です」
「じゃあ、昔よく二人で手合わせしたことは?」
「私が最初にお願いしたんですよね、強くなるために手合わせしてほしいって」
「じゃあじゃあ、僕が三十五になるまでに子どもは七人つくって、家族みんなで野球しようって約束したことは?」
「…そんなふざけた約束をするような私たちじゃなかったことも思い出しました」
「マジじゃん」


 五条さんはどこかほっとしたような驚いたような、そんなため息を口から吐き出したものの、相変わらず刺さるような鋭い視線をこちらに送っている。
 六眼だからといって、私の頭の中までは覗くことは不可能なはずだけど…。俯いてそんなことを考えていたら、頭上から「とりあえず」という声が聞こえ、顔を上げる前に五条さんの腕の中に閉じ込められてしまった。身動きが取れないほど強く抱きしめられて息ができず、なんとか顔だけを横に向ける。微かに耳に届く五条さんの心地よい心音に、私は目を閉じた。


「いや〜……マジか。え? マジで?」
「…ひょっとしたら、まだ何か思い出せていないことがあるかもしれないんですけど」
「僕とのことを思い出してくれただけで十分だよ」


 もし、今誰かが来たらどうしよう。そんな考えが頭の隅に浮かんだもののそれはすぐに霧散し、何だか離れがたく感じた私は五条さんの背中に腕を回した。すぐに、優しい笑い声が落ちてくる。


「っていうか冷静すぎじゃない? もっとこう、感動のあまり大号泣しちゃったりとかさ」
「とりあえず、今は頭の中で記憶のすり合わせを…」
らしいね」


 時間が経つにつれて、思い出した記憶と元からあった記憶、それらが次第に頭の中で整理されていき綺麗に並んでいく。しかし頭が落ち着いても、心は落ち着かなかった。どうして今まで思い出せなかったんだろう、今まで五条さんは、どんな気持ちで──。
 ぐ、と胸の奥から込みあげてくる何か。少しでも気を緩めるとすぐに涙が零れ落ちそうで、私は唇を噛みしめて五条さんの背中に回す腕に力を込めた。


「…五条さん、すみま」
「謝るのは無しね」


 ぴしゃりとそう言った五条さんは「終わり良ければすべて良し、ってやつ?」と笑った。私の顔を見なくても、恐らく私が泣いてしまいそうなことに気付いているのだろう。あやすように私の背中をぽん、ぽんと叩く五条さんに、少しずつ波立っていた気持ちが落ち着いていくのを感じる。


「ずっと…私のそばで待っていてくれたんですね」
「正直ここまで時間がかかるとは思ってなかったけど」


 大したことじゃない、と言わんばかりに「まあ、思い出さなくても? また惚れさせる自信あったし?」と言う五条さんに笑みが零れる。しかしすぐに、私の頭の上に顎を置いて呟いた五条さんの言葉に、またもや胸が締め付けられる思いがした。


「嘘、ごめん。結構心折れてたわ」
「すみません…」
「謝るなって」
「どうして、」


 言葉に詰まり何も言えなくなった私の背中を、五条さんの大きな手が上下に擦る。
 記憶だけじゃない。学生時代、五条さんに抱いていたたくさんの感情も徐々に蘇ってくる。


「どうしてずっと…覚えていない私のそばにいてくれたんですか?」
 

 絶対、私には分からない苦しみがあったはずなのに。
 もし逆の立場だったら、私は──。


「当然じゃん」
「え…」
「記憶を失っても、でしょ。僕の気持ちは変わらないよ」


 じわじわと身体の中心から熱が広がっていき、緊張で強張っていた全身がほぐれていく。
 ああ、だめだ。必死に堪えていたものが、今にも溢れ出しそうだ。
 五条さんが私から身体を離し、両肩に優しく手を置いたまま私の顔を覗き込む。その顔を見た瞬間、とうとう私の目から涙が零れ落ちた。


「おかえり、
「ただい──」
「ってことで、ちゅーしていい?」


 五条さんは私の言葉を遮って食い気味にそう尋ねながら、ずい、と私に顔を寄せた。なんとも直接的で色気も何もないその言葉を聞いても涙が止まることはなく、私は鼻をすすりながら先程の五条さんの言葉を思い出す。


「空気は吸うものでもあるけど読むものでもあるって、さっき虎杖くんに言ってましたよね…」
「え? だって今、明らかにそういう空気じゃなかった?」


 今まで散々勝手に口や額にキスしてきたくせに。小さくそう言えば、五条さんは指で私の頬を撫で、次々と伝う涙を拭っていく。そして口元に笑みを浮かべながら、嬉しそうに囁いた。


「嫌ならしないけど?」


 ──ずるい。私が嫌がっていないことに気付いておきながらそう言ってくるところも、思い出した途端キスしていいかわざわざ聞いてくるところも。でも記憶が戻った今思い返してみると、五条さんは昔からこういう人だった気がする。そして私は、そんな五条さんのことを好きになったのだ。
 何も言わず黙って見上げれば、五条さんは柔和な笑みを見せたあと私の頬に口付けた。そしてすぐに「しょっぱい」と言って笑う。
 妙にふわふわとしたこの雰囲気がむず痒く、顔を逸らしたものの五条さんの両手が私の両頬を挟み、すぐに戻されてしまった。


「ちょっと、なんで逸らすわけ?」
「そ…そういえば昔、学校でこういうことはしないって約束したなと思って」
「げ、なんでそんなことまで思い出してんの」
「…さっき、嫌ならしないって言いましたよね?」
「前言撤回〜、嫌でもする」
「ちょ、ちょっと、待っ──」


 五条さんの肩を押し返しながら、半分諦めて目を閉じたときだった。ドアが開く音がして、つい先程聞いたばかりの底抜けに明るい声が私たち二人の元へ飛んでくる。


「あ、やっぱまだいた! 先、生…」


 まるで時間が止まったようだった。目に涙を浮かべながら必死に両腕を伸ばし後ろに仰け反る私と、そんな私の頬を押さえて口付けしようと唇を前に突き出す五条さん。呆気に取られたような表情でドアの前に立つ虎杖くん、及び彼の後ろに並んだ伏黒くん、釘崎さん。両者の間に、嫌な沈黙が流れる。
 しん、と静まり返った職員室。その沈黙を破ったのは、伏黒くんの「五条先生…それはさすがにまずいです」という言葉だった。それに対し、五条さんはきょとん、と首を傾げる。


「え、何が?」
「え、何が? じゃねえよ! 何学校で発情して泣いてる女手篭めにしようとしてんだコラ!」
「野薔薇、よく『手篭め』なんて言葉知ってるねえ」


 一気に賑やかになった職員室の真ん中で、さすがに解放された私は伏黒くんと釘崎さんに責め立てられる呑気な五条さんを苦笑しながら見つめる。
 変な場面を見られてしまった、と思う反面、もう少しみんながやって来るのが遅かったらもっと大変な場面を見られていただろう、とこっそり胸をなで下ろした。
 私のそばへ近付いてきた虎杖くんが「先生」と小声で私を呼ぶ。


「虎杖くん」
「ごめん、さっき先生と五条先生二人とも様子がおかしいような気がしてさ…それ釘崎に言ったら、嫌な予感がするからみんなで行くぞってなって…だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫…ごめんね、気遣わせて」
「…俺さあ、ひょっとしていつもタイミング悪い?」


 申し訳なさそうに、そして少し照れたように頬を掻きながらそう尋ねる虎杖くんに、首を横に振ってみせる。何をどう説明しようかと考えていたら、彼は足元に視線を落とし、何かに気付いてしゃがみ込んだ。彼の手には、私が落としてしまったDVDとストラップ。少しだけ躊躇ったあと、虎杖くんは私にストラップを差し出した。


「これ、先生の?」
「うん、ありがとう」
 

 受け取って握り締めれば、「なんか意外」と虎杖くんは笑った。


「意外?」
先生、そういうの持ってるイメージがないからさ。大事なもん?」
「これは──」


 ちらりと五条さんへ視線を向ける。五条さんに触れられないことによる苛立ちから、釘崎さんは地団駄を踏んでいた。


「つーかこの間から伏黒といいお前といい、何先生泣かせてんだよ!」
「ちょっと待って? 恵、のこと泣かせたの?」
「泣かせてません」
 

 私は笑う。もう涙は零れない。


「大事なものだよ」
「そっか」


 今まで忘れていた、ずっと大事だったもの。そしてこれから先、ずっと大事にしていきたいもの。ようやくそれを、取り戻すことができた。


「大事なもんなら、もう落とさないようにしないとね!」
「うん」


 いろんなものを噛み締めながら頷けば、相変わらず教え子二人に怒られている五条さんと目が合った。
 そういえば、謝りはしたものの肝心なことを言えていない。声には出さず口だけを動かしてみれば、五条さんは一瞬だけ目を丸くしたあと清々しい笑顔をこちらに向けた。

 私のそばにいてくれて、ずっと待っていてくれて、そして諦めないでくれて。


『ありがとう』



(2022.08.09)