15.約束の映画のつづき


 じわじわと鳴く、蝉の声。容赦なく照りつける太陽の下、私は誰かに手を引かれて歩いていた。一歩一歩ゆっくり進みながら、繋がった指先を見つめる。そこから視線を少しずつ上げていけば、私よりずっと背の高いその人がこちらを振り返り、私の名前を呼んだ。、と。優しく、全てを包み込むような声で。


「──先輩…」


 自分の口から零れ落ちた寝言で目を覚ます。右手に持っていたスマホが震えていて、その振動によりぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりとしてくる。あと数分で東京駅に到着する、という旨のアナウンスが流れ、私はスマホのアラームを止めた。ぐん、と背伸びをしたあと、すぐそばにある小さな窓からビルが密集した景色を眺める。
 なんだか不思議な夢を見た気がする。それに何か変な寝言も呟いてしまったような──。
 そこまで考えたところで新幹線が少しずつスピードを落とし始め、荷物をまとめた私は静かに立ち上がった。

 当初一週間の予定だった仙台出張。それを五日で終えて高専に戻ったときには、すでに時刻は午後八時を回っていた。
 遠くから職員室に明かりが灯っているのを確認する。この時間なら、恐らくまだ伊地知が仕事をしているのだろう。そう思って部屋の中に入ると、そこに伊地知の姿はなく、奥に置いてあるソファから長い脚が伸びていてぎょっとした。顔を見なくてもすぐに誰だか分かる。五条さんだ。
 着替えなどが入った鞄を自席に置いて、そっとソファへ歩み寄る。こういうとき、人の気配に敏感な五条さんは大体狸寝入りをしているのだが、今回はどうだろう。自身の頭の後ろで手を組み、長身の人にとっては小さいソファで横になる五条さんの顔を覗き込む。直接顔を合わせるのは、三週間ぶりだ。


「…五条さん?」


 試しに小さな声で名前を呼んでみる。しかし返事はなく、微かに呼吸を繰り返す音が聞こえるだけ。それでもやはり寝ているのか起きているのか分からず、そっと手を伸ばして五条さんの指先に触れてみた。ざらついていて、私よりもずっと大きな手。二つの繋がる指先を眺めていたら、新幹線の中で見た夢のことを思い出した。


「何を忘れてるんだろ…」


 このまま何も思い出せないまま、悶々とした気持ちを抱えていくのだろうか。
 ふと、ソファの正面に置いてあるテーブルの上に転がっているチョコレートが目に入った。五条さんがいつも食べているもの。いつも「疲れたときには甘いものでしょ」と言って私にくれるものだ。
 その場を離れようとしたとき、五条さんの指が動いて私の手のひら全体を包み込むようにして握ったのだが、それに対する驚きはそこまでなかった。


「やっぱり起きてたんですね」
「まあね。に寝込みを襲われたもんだからきゅんとしちゃった」
「襲ってません」


 いつも通り軽口を叩く五条さんは、私の手を離すと起き上がりソファに座りなおした。そのまま「座れば?」と空いたスペースを指さす。言われるがままに五条さんの隣に腰を下ろした私は、持っていた紙袋を差し出した。『喜久水庵』と書かれた袋を見て、五条さんが喜びの声を上げる。


「喜久福じゃん!」
「一応、お土産です」
「え〜どういう風の吹き回し?」


 袋の中を覗き込みながら顔を綻ばせる五条さんを横目に、新幹線の改札内にお店を見つけてたまたま買ったのだ、と話す。本当の理由は、五条さんに対して申し訳ない気持ちがあったから、なのだけれど。


「実は僕もにお土産あるんだよね〜」


 喜久福の袋をテーブルに置き、ポケットの中をごそごそ探る五条さんを黙って見守る。出てきたのは、小さく細長い袋に入ったストラップだった。五条さんはそれを私に渡すと反応を窺うかのように、頬杖をついて「それ、が好きそうだなと思って」と笑う。
 スマホに変えてからあまりストラップを買うことももらうこともなかったため、少しだけ新鮮な気持ちで先端にぶらさがるマスコットを眺める。


「可愛いですね、これ」
「今回の出張先のご当地キャラクターらしいよ」
「何ていう名前ですか?」
「さあ」
「何がモチーフなんですか?」
「さあ」
「…ふ、なんですかそれ」


 私の質問に何も答えられず、首を傾げてみせる五条さんに思わず笑いが込みあげてくる。ストラップを眺めながら「大切にします」と呟けば、五条さんは大きなため息をついて「なんだかな〜」と声を上げた。


「僕は別にを困らせたり怒らせたりしたいわけじゃないんだけど、なかなかうまくいかないもんだね」
「え…」
「圧倒的にさ」


 五条さんが再び私の手を握る。あまりにも自然な流れだったので、抵抗するのも忘れてしまった。
 冷静になって考えてみたら、今までにいろんな形で五条さんに触れられることは多々あったけれど、どれも特に嫌悪感を感じたことはなかったように思える。


「話をする時間が少なすぎるよね、僕たち」
「…そうですね」
 

 私だって、五条さんと同じだった。五条さんを困らせたり、怒らせたりしたいわけじゃない。むしろ逆で、もっと五条さんの役に立ちたいと思っている。
 私たち二人、しっかりと話し合う時間があれば、何か一つでも些細なきっかけがあれば、お互いこんなに苦しい思いはしないで済むのかもしれない。
 一人でいくら考えてみても、何も思い出せない。かと言って、解決策も思い浮かばない。自分の目の前にある扉がどうしても開けられなくて、私はその場に立ち尽くすことしかできないままでいる。


「あれからいろいろ考えてみたんですけど、やっぱり何も思い出せなくて…すみません」
「そっか」
「私、何を忘れてるんですか?」


 なんとなく五条さんの顔を見ることができず、俯いてそう尋ねれば私の手を握る力がより強くなった。


「思い出さない以上、言っても信じないと思うけど」
「…はい」
「僕と、実は」
「五条先生、いる?」


 もう聞き慣れた、溌剌とした声。それを耳にした瞬間、私は五条さんの手を振り払い慌てて後ろを振り返った。部屋には入らず、ドアの前で虎杖くんがひょっこりと顔を出している。


「お、先生も帰ってきてたんだ! おかえり!」
「悠仁〜? 空気って吸うものでもあるけど読むものでもあるんだよ〜?」
「ん? なんで五条先生不機嫌なん?」


 眉を顰め、恐る恐る私たちのそばへ歩み寄る虎杖くんはお風呂上がりなのだろうか、半袖に短パンというラフな格好で、少しだけ髪が濡れているように見えた。つんとした表情で口を尖らせる五条さんの代わりに、虎杖くんへ声をかける。


「どうしたの、こんな時間に」
「これ、五条先生に返そうと思って! ずっと借りっぱだったからさ」


 そう言って虎杖くんが私に差し出したのは、一枚のDVDだった。受け取って、そのジャケットに視線を落とす。五人の男性が並んだマグショットに目を奪われた。

 これ、どこかで見たことがある──。

 でも、どこで? そう思った瞬間、立っているだけなのに、ふわ、と身体が浮くような感覚に陥った。次第に、心臓の音が大きく、そして早くなっていく。


「これ…」


 私の小さな呟きは二人には届いていないようで、呆然と佇む私をよそに五条さんは相変わらず拗ねた様子で「別に明日でもよかったのに」と虎杖くんに向かって言葉を返す。


「だって五条先生、いないことの方が多いじゃん。レアキャラだよ、レアキャラ」
「まあ僕の希少価値が高いことは否定しないけど?」
「うっわ、確かにそうかもだけど自分で言うのはちょっと引くわー」


 私の背後で会話を繰り広げる二人の声が、どんどん遠くなっていく。頭からつま先まで、自分の身体全てが心臓になってしまったのかと不安になるほど全身が脈打っているように感じる。
 
 私は、確かにこの映画を見る約束をしていた。ずっと昔、誰かと一緒に。


「んじゃ、俺そろそろ戻るね! また明日!」


 軽い足取りで私の隣を通り過ぎていく虎杖くんを見送ることも、挨拶することも忘れてただジャケットを見つめる。ドアが閉まると同時に、五条さんは「悠仁はいつもタイミングがなあ」とため息を吐いた。


「僕、何のDVD貸してたんだっけ」


 ソファから立ち上がり、動かない私の手元を覗き込んだ五条さんは様子がおかしいことに気付いたのか、不思議そうに私の名前を呼んだ。


、どうしたの?」


 返事をしたくても言葉が出てこない。視線だけを横に動かせば、テーブルの上に散らばるチョコレートが再び目に入る。手に汗が滲み、ぎゅっと拳をつくると小さく乾いた音が鳴った。ずっと手に握りしめていた、五条さんからもらったストラップの袋の音。

 DVDだけじゃない。あのチョコレートもこのストラップも、ずっと昔から知っている。誰かにもらったことがある。





 強く肩を掴まれて、その衝撃でようやく我に返った私はゆっくりと顔を上げた。少しだけ不安そうに私を見下ろす五条さんと真正面から向き合った瞬間、自分の意識が再び今日見た夢の中へ落ちていくように感じた。

 じわじわと鳴く、蝉の声。容赦なく照りつける太陽の下、私の手を引くその男性は、夢とは違いこちらを振り向くことなくこう言った。眩いほどの白髪を微かに揺らしながら。


『どうせ強くなるんなら、すっげー強くなって、すっげー強い五条家の跡取りと結婚したら、もう敵無しじゃね?』


 一瞬だけ、呼吸を忘れてしまう。それでもなんとか喉の奥から絞り出した私の言葉に、五条さんが息を呑むのが分かった。


「五条、先輩」


 思い出した。今までずっと、自分が何を忘れていたのか。



(2022.07.28)