14.かわいい教え子たち


「一時間二千円で食べ放題よ!? せっかく渋谷まで出てきたんだから行くしかないでしょ!」
「パンケーキなんていくら食っても腹の足しにもなんねえし、絶っっっ対に肉!!」
「…まだやってるの」
「…はい」


 平日とは言えそれなりに賑わいを見せる渋谷駅前。その人混みの中で、周りの目を一切気にする様子もなく大声で騒ぐ虎杖くんと釘崎さん。そんな二人と知り合いだと思われたくないのだろうか、少し離れた場所で静観している伏黒くんに声をかけると、彼は呆れ果てたようにそう返事をした。
 弓幹の修理も終わり、負傷した右手も問題なく回復した私は、三日前から今まで通り任務に当たっている。今日は、以前から五条さんに頼まれていた一年生三人の引率のために渋谷に来ていた。


「迎えの車はあとで呼ぶことになってるから、一応時間はあるんだけど…」


 みんなと一緒に任務に当たること自体久しぶりだったので「ご馳走するからお昼ご飯でも食べて帰ろう」と提案したのだが、その結果『絶対にパンケーキを食べたい釘崎さん』と『絶対にお肉を食べたい虎杖くん』のバトルが始まってしまった。今では軽い気持ちで提案したことを少しだけ後悔している。
 スマホで時間を確認したあと、ついでに何かメッセージが届いていないかもチェックする。伊地知から報告書の件で確認のメッセージが届いていたが、それ以外は特に何も届いていないようだ。

 結局あれから五条さんも私も多忙ですれ違いが続いており、あのときの『話の続き』はできていない。自分が何か忘れていることに気付き、それが五条さんに関わることだと分かっただけでも進展したと言えるかもしれないが、果たしてそれが一体何なのかをゆっくり考える時間もなければ、今日までに自然と思い出すこともなかった。

 虎杖くんが「パンケーキなんて、ぎゅって握り潰したらこんくらいにしかなんねえじゃん」と、不満を口にしながら人差し指と親指で小さな丸を作ったところで、さすがにそろそろ止めなければと私はひとつ息を吐いた。


先生って」
「え?」


 私が二人を呼ぶよりも早く、隣に立つ伏黒くんが急に私の名前を呼んだので視線を向ける。伏黒くんはこちらを見ることなく、未だ言い合いを続けている同級生二人を真っすぐ見つめたままこう呟いた。


「五条先生と、最近何かあったんですか?」


 思いがけず耳にしたその名前に、どきりと心臓が跳ねる。


「何か…、と言うと?」
「…それを聞いてるんですけど」


 ごもっともな返答に思わず笑みを零せば、伏黒くんは少々不機嫌そうに私を一瞥したあと「別に言いたくなければいいです」と言い、ふいと顔を逸らしてしまった。
 どうして急にそんなことを聞くのか少し気になったが、それを問う前にどう答えようかと考えを巡らせる。伏黒くんに下手なごまかしは通用しないだろう。
 何かあったかと聞かれて、何もないとは言えない。別にやましいことは何もない、と堂々と言えるかと聞かれれば、そう簡単には頷けない。
 少し静かになったことに気付いて視線を正面に戻せば、虎杖くんと釘崎さんは言い合いをやめて何やらスマホ画面を覗き込んでいる。そんな二人の様子をぼんやりと眺めながら、私は口を開いた。


「私、五条さんについて何か大事なことを忘れてしまってるみたいで」


 なるべく深刻に、重く捉えられないよう軽い調子で「それが何なのか、全然思い出せないんだよね」と笑ってみせる。


「五条先生は教えてくれないんですか、何を忘れているのか」
「うん…と言っても忘れていることに気付いたのが最近で、それからろくに会って話せてないから」


 そこまで話したところで、先日任務で負傷したときのことを思い返してみた。頭に浮かんだのは、別れ際の五条さんの顔。嬉しそうで、どこか期待に満ちていて、そして何かを切に願っているような、そんな表情。

 ──私がその忘れている『何か』を思い出すことで、五条さんにどんなメリットがあるのだろうか。


先生をそんなに悩ませるくらいあの五条先生が執着するなんて、余程のことだと思いますけど」
「…そうだよね」


 やはり伏黒くんにはいろいろと見透かされているようだ。彼の言葉に、私は笑うのをやめて自分のつま先へ視線を落とした。
 伏黒くんの言う通りだ。まだ何も思い出せていないけれど、少なくとも『五条さんから本を借りていて返すのを忘れている』とか『何か仕事を頼まれていてそれをやるのを忘れている』とか、そういう次元の話ではないことはうっすら分かっている。


「多分ですけど、付き合ってた頃の約束とかじゃないんですか」
「うん、そもそも私と五条さんお付き合いしてたことないからね」


 まさかあの伏黒くんが冗談を言うとは、と感慨深い思いで顔を上げた。しかし伏黒くんは笑っている私とは対照的に、いつも通り真顔でこちらを見つめている。しばらくして、お互いの言葉の意味を理解した私たちはほぼ同時に「え?」と首を傾げた。
 いつだったか、私と五条さんがお付き合いしていると勘違いしていた新田さんと、口元に手を当てて何かを考えている様子の伏黒くんの姿が重なる。


「…ガキの頃、あの人がよく家に来てたとき津美紀が聞いたことがあったんです」
「津美紀さんが?」
「五条先生に、『付き合ってる人はいないのか』って」


 私の口から、え、と小さく声が漏れる。今まで五条さんに恋人がいるかいないかだなんて、考えたことすらなかった。伏黒くんの言葉を聞いた瞬間、私はそのことに気付かされたのだ。
 私が何も返事をしないため、伏黒くんはそのまま話を続ける。


「そのときの答えが…なんというか変で、今も覚えてるんですけど」
「変?」
「『いる』って答えたあとに、『僕はずっとそのつもり』だとかなんとか」


 過去に思いを馳せながら、「俺、てっきりそれ先生のことだと思ってました」と言う伏黒くんを目の前に、何も言葉が見つからない。五条さんにそういう特別な人がいたことに対する驚きよりも、妙な引っかかりを感じた。何よりも、今はともかく昔の五条さんはそんな曖昧な言い方をするような人じゃなかったような気がするが…。
 再び虎杖くんの大きな声が聞こえて、はっと我に返る。いい加減あの二人を回収して昼食を済ませ、高専に帰らなければ。


「ごめん、なんか変な話になっちゃって…とにかく、五条さんとお付き合いしていた事実はないよ」
「そうですか」


 伏黒くんにそう告げたあと、手を振りながら虎杖くんと釘崎さんを呼ぶ。釘崎さんは私たち二人を見て、「なんでそんな離れたとこにいんのよ?」と驚いていた。


「まあ、でも…」
「ん?」
「何かを求められてそれが無理だと思うんなら、ちゃんと無理って言った方がいいですよ」


 ため息を吐いて「あの人、育ってきた環境のせいかワガママなとこあるんで」と五条さんのことを話す伏黒くんの横顔をじっと見つめる。伏黒くんは、私とは違う形で五条さんと関わってきた子だから、私とは違う視点で五条さんという人間を見てきているのかもしれない。
 伏黒くんがこちらを向いて、切れ長の瞳と視線が重なる。


「あと先生、一人で抱えすぎなとこあるんで」
「えっ」
「もっと周りを頼ってもいいと思います」


 まさかそんなことを言われると思っていなかった私は、何度か瞬きを繰り返したあと、我慢できずに噴き出してしまった。少しだけ涙腺がじわりと緩む気がして、鼻をすする。伏黒くんを見上げれば『笑われるなんて心外だ』という複雑な表情を浮かべていて、さらに笑いが込みあげてくる。
 生徒たちとうまくいかないことで悩んでいた時期もあった。けれど、案外うまくいっているのかもしれない。
 笑いすぎたせいか、あるいは伏黒くんの言葉に感動したからか、目尻に滲む涙を指ですくいながら「ありがとう」と微笑んだ。


「伏黒くん、教師向いてると思うよ。どう? 高専教師」
「嫌です」
「あー! 伏黒が先生泣かしてる!」


 こちらに戻ってきた虎杖くんが私を指さしながら大げさにそう言うのを聞いて、伏黒くんが「ちげえよ」と軽く舌打ちを返す。何を食べるか決まったのかと聞けば、釘崎さんが自信たっぷりに「パンケーキ」と答えた。


「結局パンケーキなんだ?」
「釘崎にお食事パンケーキってやつ見せてもらったんだけど、まあまあうまそうじゃん? と思って」
「そうと決まれば行くわよ!」
「…俺、昼飯にパンケーキって嫌なんだけど」


 伏黒くんの一言に、その場にいた全員が凍り付く。「ふ〜し〜ぐ〜ろ〜」と唸るような声を上げながら伏黒くんの胸倉を掴む釘崎さんに、「伏黒お前、そういうとこあるよな」と苦笑を零す虎杖くん。かわいい教え子たちを前に、私はさらに笑ってしまったのだった。



(2022.07.28)