13. 何か忘れていますか


 絶対に、なんでもないはずがないのに。


「嘘つき…」
「起きたか」


 ゆっくりと目を開ける。飛び込んできた光の眩しさにようやく目が慣れ始めた頃、私を見下ろしていた家入さんが「嘘つきって、誰が?」と首を傾げた。ぼうっと彼女の顔を見つめ返し、うまく身体が動かないことから少しずつ自分の置かれている状況を理解する。


「ここがどこだか分かるか? 気分は?」
「私…やらかしましたね…」
「答えになってないけど」


 呆れたように「まあいいや」と呟いた家入さんが、点滴を調整して私の視界から消えていく。少し薄汚れた天井の隅に浮いているシミが人の顔のようで、私はそっと目を閉じた。
 バブル崩壊後に廃業し、解体されないまま残り続け廃墟と化した大型ホテル。そこが今日の現場だった。二十年以上も放置され老朽化が進み、壁・床ともに朽ち果てた場所。戦闘はなかなか思うようにいかず、最終的に呪霊は祓えたものの右肘から下を吹っ飛ばされた挙句、互いの攻撃の影響で床が抜けて下の階に転落した…ことまでは、かろうじて覚えている。
 首を動かして視線を下に向けると、千切れた袖からいつもと変わらない右腕が伸びていて少しだけほっとした。


「何があったか知らないが、随分と無茶な戦い方したみたいじゃん。らしくない」


 そんな言葉と一緒に椅子が床を滑る音が聞こえて、再び家入さんが私の顔を覗き込んだ。


「さすがに全壊とまではいかないけど…現場の損壊、まあまあ激しかったみたいだぞ」
「…やらかしましたね…」
「いいだろ別に。ああいう廃ホテルって、所有者が見つからないから放置されてんだし」


 まだうまく働かない頭の中で、果たしてそういう問題だろうか…と疑問を浮かべながら、右手を握っては開く、を繰り返す。多少動かしづらさはあるが、一日もすれば元に戻るだろう。そう思いながら窓の外に目を向けると、そこには想像していたよりも暗い闇が広がっていた。
 今回は運が良かっただけだ。一歩間違えてたら、今頃は──。
 そんな考えが頭を過ったとき、ふと転落したときに聞こえた鈍い音のことを思い出した。


「あの、家入さん…」
「ん?」
「もしかして、弓幹」
「ああ」


 私の言わんとすることを理解したらしい家入さんが、隣のベッドに置いてあった弓幹をひょい、と持ち上げる。
 真っ二つ。見事に折れてしまっている弓幹を目の前に本日三度目の言葉を吐くと、家入さんは含み笑いを見せ、布団の上から私のお腹あたりを軽く叩いた。


「ま、修理が終わるまでしっかり休みな」
「ありがとうございます…」


 弓幹が壊れるのは十年ぶり、そして二度目になる。
 十年前、壊れた弓幹を前に家入さんと同じことを五条さんからも言われた。しっかり休め、と。それまであまり接点のなかった五条さんが急にやってきて、私を気遣うような台詞を吐いたものだから、そのときのことは未だによく覚えている。

 覚えているのは、それだけ──。


『お前、いつまで忘れてんの?』


 本当に?


「…家入さん」


 壊れた弓幹を見つめたまま名前を呼ぶと、家入さんから「んー?」と間延びした声が返ってきた。かち、かち、かちと、彼女が持つノック式ボールペンの音が聞こえる。


「私、ひょっとして何か忘れてますか?」


 かち。
 音が止み、私はゆっくりと隣に座る家入さんへ視線を移した。左手にカルテ、右手にボールペンを持った彼女は、何かを確かめるような瞳で私を見つめている。


「…さあな」


 す、と目を逸らした家入さんから私も目を逸らし、再び天井のシミに視線を戻した。


「自分以外の人間が何を忘れているかだなんて、分かるわけないだろ」
「それも、そうですよね」


 立ち上がって離れていく家入さんの足音を聞きながら、もう一度「そうですよね」と小さく呟く。そうだ、私が何を忘れていて何を忘れていないかなんて、私にしか分からないはずだ。


「でも」


 私のそばに戻ってきた家入さんは、持っていた水のペットボトルを枕元の小さなテーブルの上に置くと、目を細めて微笑んだ。


「同じこと、五条に聞いてみな。多分もうすぐ来るから」
「…あれ? 出張中では…予定では三日間って」
「アイツの出張スケジュールは現地観光の時間込みだからな」


 五条さんの名前を聞いただけで、ふつふつと胸の奥から気まずさが込み上げてくる。落ち着かず何とか身体を起こしてみたものの目の前が遠くなる感じがして、そんな私に家入さんは蓋を開けたペットボトルを差し出した。


「ちゃんと水分とれよ、腕は戻っても失った血はそんな簡単に戻んないから」
「すみません…」


 水を受け取り、湧きあがる気まずさとともに喉へ流し込んでいく。半分くらい飲み終えたところで家入さんが「噂をすれば」とドアを指差した。足音が近付いてきて、現れたのは私服姿の五条さんだった。
 今回の任務について、完了はしているものの成功とは言い難い。また家入さんの話からすると五条さんは観光せずに帰ってきたようだし、加えて先日のこともある。
 一体どういう顔で五条さんと会えばいいのだろう、と考えていた矢先だったので、私はペットボトルを握り締めたまま軽く頭を下げた。


「五条さん、すみま…」
「覚えてる?」
「え?」


 謝り終える前に聞こえた五条さんの言葉に首を傾げる。先程まで家入さんが座っていた椅子に腰掛けた五条さんは、サングラスを外すと真剣な眼差しをこちらに向けた。
 家入さんと同じ、何かを確かめるような青い目と見つめ合う。


「任務前のこと、ちゃんと覚えてんの?」
「…ええと、いつも通り伊地知と任務内容を確認して」
「覚えてるならいいよ」


 覚えている内容はさほど重要ではなかったのか、軽く手を振って私の話を止めた五条さんの意を汲み取れずにいたら、五条さんは「それ夏服? ウケるね」と言いながら私の右腕を指差した。
 しかし「ウケる」と言った割に五条さんは全く笑っていない。どう反応していいか分からないまま、私と五条さんの間に沈黙が流れる。
 報告のために家入さんが部屋を後にし、何となく微妙な雰囲気の中でペットボトルをテーブルに戻す。それと同時に、五条さんが「この間さ」と呟いた。


「ごめんね、ちょっと言いすぎた」
「あ、いえ…こちらこそ失礼なことを言ってすみませんでした」
 

 何でもできて、何でも手に入る人。私は五条さんのことをずっとそう思っていた。
 だから、五条さんの言う『僕の手から滑り落ちたもの』が一体何なのかを考えてみたものの、全く見当もつかなかった。それに、その『滑り落ちたもの』が五条さんにとってとても大事な何かだったとしても、五条さんならきっとすぐに取り戻すことができるはず、とも思った。でも──。


「あの、五条さん」


 もしかしたら、あるのかもしれない。五条さんがどんなに頑張っても、取り戻すことができない何かが。そしてそれが一体何なのかを、私は知らなければならないような気がした。


「ん?」
「…さっき、家入さんにも聞いたんですけど」


 なんだか妙に緊張する。私はごくりと喉を鳴らし、布団を握り締めた。


「私、何か大事なことを忘れてますか?」


 自分以外の人間が何を忘れているかだなんて、分かるわけない。家入さんはそう言っていたし、私もそうだと思う。
 それなのにあの日、五条さんは私に対してこう尋ねた。いつまで忘れているのか、と。


「そしてそれは、五条さんも関係していることですか?」


 そう問いかけたとき、どこからか鈍い振動音が聞こえてきた。そしてそれが五条さんの胸ポケットに入れられたスマホから出ているものだと気付くのに、そこまで時間はかからなかった。


「あ、電話…」
「うん」


 短く返事をした五条さんだったが、電話に出るつもりはないのか、深く腰掛けたままでスマホに触れる様子はない。鳴り止まない着信に話を続けていいものか迷う私を見て、五条さんは長い脚を組みもう一度、「うん」と頷いた。
 何に対しての返事なのか分からず、私は眉を顰める。
 

の質問に対する答えだよ。どちらも、『うん』」
「…つまり、それって」
「この話の続き、今はちょっと無理かな」
「え?」
せ、ん、せ〜! 目覚ましたんだって!?」


 勢いよくドアが開いて現れた虎杖くんの姿に、 気配はもちろん足音にも全く気付いていなかった私はびくりと身体を震わせた。五条さんは気付いていたのか、大して驚いてもいない様子で心臓あたりを押さえている私を見て微かに笑っている。
 虎杖くんは私を見るなり満面の笑みを浮かべたが、すぐに後ろからやってきた釘崎さんに頭を叩かれていた。


「バカ! 虎杖アンタ、もっと静かに入りなさいよ!」
「…なんで五条先生がいるんですか」


 通常運転の伏黒くんに対し、五条さんは唇を尖らせて足をぶらぶら揺らしながら「いちゃ悪い〜?」と不満そうに返す。
 三人の話を聞くと、ありがたいことに私のお見舞いに来てくれたらしい。お見舞い品なのだろうか、虎杖くんは持っていたビニール袋からいそいそと大量のスナック菓子を取り出し、私のベッドの上に並べていく。その様子に苦笑いを零す私の隣で、五条さんが「さてと」と軽く自身の膝を叩き立ち上がった。


「ほらほら、もう遅いからこの辺でお暇するよ」
「…ゆっくり休んでください」
「え〜! 俺ら今来たばっかなのに!」
「もう遅いって、普段私らのこと深夜も働かせてんじゃない」


 伏黒くんとは対照的に四の五の言う虎杖くんと釘崎さんだったが、五条さんの「も疲れてるしさ」との言葉には納得したようで、渋々と従っていた。
 三人の背中をぼんやり眺める。並べられたスナック菓子が視界に入り、自然と口元が緩んだ。





 生徒たちが部屋を出て行く直前、そばに立っていた五条さんが私の肩に手を置いた。そしてそのまま五条さんは硬直する私の耳元に唇を寄せると、まるで内緒話でもするかのように、


「話の続きはまた今度、必ず」


と囁き、私の頭を優しく撫でて離れていった。
 ──理由は分からないが、私は大事なことを忘れてしまっている。五条さんも関わる、何か大事なことを。
 慌てて顔を上げる。最近私と顔を合わせるといつも悲しそうだったり苦しそうだったり、かと思えば怒っていたりする五条さんの表情が珍しくとても穏やかなものだったので、私は目を瞬かせた。


「五条さん」


 呼び止めると同時に、部屋の外から虎杖くんが「先生、帰んないの〜?」と五条さんを呼ぶ声が聞こえた。それに対し五条さんが返事をするのを耳にしながら、小さくため息を吐く。


「じゃ、僕も帰るから。ゆっくり休みな」
「はい…ありがとうございます」
「それと」


 五条さんは静かに笑った。


「少しずつでいいから、全部思い出して」


(2022.07.23)