12.滑り落ちたものの数


 古い壁時計の音が辺りに響き渡り、たった今正午を迎えたことを教えてくれる。ソファーとローテーブルが並ぶ、ちょっとしたホテルのロビーのようなスペースで静かに新聞を読む人物にゆっくり近付くと、彼は新聞に視線を落としたまま息を吐いた。


さん、しばらく会わない間に痩せたのでは?」
「お久しぶりです七海さん…残念ながら、体重は変わらずですよ」


 自嘲気味にそう言って笑ったあと、私は七海さんの目の前に置いてあるソファーに腰掛けた。
 いつも冷静でその場の状況を早く、そして正しく把握することができ、自身の術式的にも近接戦闘を得意とする七海さんは私が尊敬する呪術師の一人だった。年齢が一つしか違わないこともあり、事前に与えられる任務内容について誰かに相談したいと思ったときは七海さんにお願いし、時間をとってもらうようにしている。もちろんそれは七海さんの所定労働時間内で。
 黙って座ったままの私に、七海さんがちらりと視線を投げる。


「何でしょう」
「えっ」
「何か私に用があるから座ったのでは?」


 七海さんの言葉に私は何度か目を瞬かせたあと、「さすがですね」と苦笑を零した。


「実は相談がありまして…よければ今からお食事でもどうですか?」
「お誘いは嬉しいですが、貴方と二人きりで食事となるとあの人がうるさいので遠慮しておきます。ここでは話せないことですか?」


 七海さんは視線だけを上げて、困惑の表情を浮かべている私を見つめる。
 いつもの『相談』ならば、高専内でも問題はない。が、さすがに今回はそうはいかない。


「…その、『あの人』のことでして…」
「ではなおさらお断りします」


 ピシャリと一蹴され面食らっている私に、七海さんは一言「面倒事には巻き込まれたくありません」と付け加えることも忘れなかった。
 そんな七海さんの言葉に、私はぐっと押し黙る。相談する前から面倒事だと決めつけられているのは少し複雑な気持ちだが、実際に七海さんにとっては百パーセント面倒事なのだから仕方ない。それに冷静になって考えてみると、私の個人的な悩み事に一級術師である七海さんを巻き込むのは申し訳ない気もする。
 でもやはり、少しでもいいから誰かに話を聞いてもらいたい。


「五条さんのことが…さっぱり分からないんです」
「あの人のことを理解できる人なんていないでしょう」
「さ、最近特に分からないと言うか、何をしたいのかが分からないと言うか」


 言葉を選びながら話す私の前で、七海さんは黙って新聞を読み続けている。
 さすがに今まで起きたこと全てを話すわけにはいかない。それと同じく、五条さんと一緒にいるとたまに見覚えのない景色が頭に浮かぶことを話すのも少し憚られた。そんなことを話したら、きっと七海さんのことだから「家入さんに一度診察してもらった方がいいのでは?」と私の頭の心配をするだろう。
 カチカチと、壁時計の秒針の音だけが耳に響く。一秒って、こんなに長かっただろうか。そんなどうでもいいことが頭を過って、私はため息をついた。


「すみません、忘れてください」


 やはりこの問題は、私自身で解決しなければ。そう思った私は立ち上がり、七海さんに軽く頭を下げた。
 今日の午後からは、任務も授業も生徒の引率もない。とは言え一人でいると余計なこと、と言うより五条さんのことを考えてしまい、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
 できれば一人でいたくないし、家入さんのところにでも行ってみようか。そう思いながら歩き出したとき、背後でガサ、と新聞を畳む音が聞こえた。


「なぜですか?」


 私の背中にそんな問いかけが届いて振り返る。七海さんは綺麗に畳んだ新聞をテーブルの上に置くと、ネクタイを緩めながら立ち上がり私のそばまで歩み寄った。


「なぜ、とは…」
「今までのさんなら、五条さんに何を言われようがされようが、問題なく対処できていたと思います」


 それなのに、今回はなぜそんなに焦っているんですか。七海さんのその質問に、返す言葉が見つからなかった。焦っているつもりはない。でも七海さんから焦っているように見えているのならそうなのかもしれない、と思った。
 人が焦る原因の根底には、必ず『不安』があると聞く。じゃあ私は、一体何を不安に思っているのか。
 足元を見つめながらじっと考え込む私に、「さんは」と七海さんが話を続ける。


「相手が何を考えているのか、相手が何をどうしたいのか…少し考えすぎではないでしょうか」
「え…」
「大事なのは相手ではなく貴方が今何を考えているのか、貴方が何をどうしたいのか、です」


 七海さんの諭すような、そしてアドバイスともとれる言葉を頭の中で繰り返す。そうしているうちに、僅かにだが気持ちが楽になったような気がした。
 すごく真面目に表情を変えることなく、「他人に合わせて生きる人生なんてクソですよ」と吐き捨てるように言った七海さんが面白くて、私はふふ、と笑みを零す。


「七海さんは優しいですね」


 少し前までなら、五条さんに対して普通に接してほしいと思っていた。五条さんが、例えば七海さんや家入さんに接するのと同じように。でも今、私は本当にそう思っているのだろうか。
 そこまで考えたとき、目の前にいる七海さんが小さく舌打ちするのが聞こえ、慌てて顔を上げる。


「すみま――」


 ぞくり。急に感じた寒気に全身が粟立つのを感じたときだった。七海さんとは別の誰かの手が肩に乗せられ、ようやくその寒気の原因が何であるかを理解する。


「…別に二人で会話していただけでしょう、そんなに殺気を向けられると不愉快です」
「殺気〜? 僕、そんなん出してる?」


 私の背後に立ち、何の感情も感じられない乾いた笑いを零しながらそう言ってのけた五条さんは、金縛りにあったように固まっている私の頭上にこつん、と顎を置いた。



「…はい」
「今、ちょっと時間いい?」


 顔を見なくても、五条さんが怒っていることが分かる。私の返事を聞く前に手を引いてこの場を離れようとする五条さんに向かって、七海さんが「…やり過ぎは逆効果ですよ」と声をかけた。
 一体何の話だろう。頭にいくつかの疑問符を浮かべたとき、五条さんは鼻で笑ってこう言った。


「そんなの、ずっと前から分かってるよ」




 どうして怒っているのだろう。ひょっとして、七海さんとの会話を聞かれていたのだろうか。
 そう問いかける前に、五条さんがいつも休憩するときに利用する空き部屋に連れ込まれた私は、そのまま壁際に追いやられたせいで何も言えなくなってしまった。


ってさ」


 両手の指の間に五条さんの指が差し込まれる。そしてそのまま絡めとられた手を、後ろの壁に押し付けられた。先程感じた寒気はもう消えてしまっていたが、それとは違う意味で身体が震える。


「五条、さ」
「七海にべったりだよね」
「別にそんな…」


 こつん、と五条さんと私の額が軽く合わさる音がして、思わず目を閉じる。頭突きにしては全く痛くないその行為に恐る恐る目を開けたとき、五条さんの唇が近付いてくる気配を感じて口をぎゅっと結んだ。
 しかししばらく経っても何も起こらない。五条さんはそのままの体勢でぽつりと呟いた。


「この前さ」


 唇にかかる五条さんの息と、少しでも動いたら重なってしまいそうな距離。私は喋ることも頷くこともできず、口を閉じたまま五条さんの次の言葉を待つ。


「言ったよね。僕のことを、何でもできて何でも手に入る人って」


 すっ、と五条さんが私から顔を離す。私と五条さんの間に距離が生まれ、ようやく正面からきちんと向き合うことができた。


「確かに何でもできるよ。でもだからと言って、ほしいものが何でも手に入るわけじゃない」
「あの、」
「僕が手に入れたものと僕の手から滑り落ちたもの、どっちが多いかなんてには分からないだろうね」


 五条さんの手から滑り落ちたもの。それが何のことを指しているのかを考えている間に、五条さんは静かに一つ息を吐いて私の両手を解放した。
 先程まで二人の間に流れていた不穏な空気は消えたように感じる。それでも言葉が出てこない私に向かって、五条さんは「僕明日から三日間出張だから、みんなのことよろしくね」と言うと、いつもの調子で笑った。
 ひらりと手を振ってドアへ向かう彼の背中に声をかける。


「五条さん、あの…私、」



 ドアを開ける直前、くるりとこちらを振り向いた五条さんを真っすぐ見つめる。五条さんも同じように私を真っすぐ見据えていて、そんなに距離は離れていないはずなのに物凄く遠いところにいるように感じた。


「今から僕が言うこと、信じてくれる?」
「…何ですか?」
「僕と、昔さ」


 どこか遠くで生徒たちの足音と笑い声が聞こえた。しかしそれはすぐに遠のいていき、再び静寂に包まれる。
 『昔』というのが、いつのことを言っているのか分からない。それくらい、五条さんとは随分と長い付き合いになっていた。


「…昔、何でしょう」
「…やっぱ、なんでもない」


 そのとき感じたのは、違和感だった。いつも何かと理由をつけて、何かを隠すように私の昇級したいという要望を拒む五条さんに感じる違和感と同じもの。
 その違和感が自分の心の奥底でどんどん大きくなっていくのを感じながら、部屋の向こうへ消えていく五条さんの背中を見送ることしかできなかった。


(2022.07.13)