11.溢れ出す感情の名前


「おはよう」
「…ひっどい顔」
「えっ」


 日曜の朝、寮の廊下ですれ違った釘崎さんの辛辣な第一声に、私はぎくりとして彼女の顔を見つめ返した。
 確かに十代の彼女と、二十代後半に差し掛かったと言うのにろくに手入れもしていない私の肌とではみずみずしさが違う。それに加えて、可愛らしいルームウェアを着ている彼女と、適当にディスカウントストアで購入した安いTシャツと短パンを着た私。自分で考えておいて悲しくなるが、同じ女性とは思えない。
 返事に困っていたら、彼女は私の手を掴み「ちょっと顔貸して」と短く言って歩き出した。


「釘崎さん、どこに…」
「私の部屋」


 なぜ? そう問いかける前に釘崎さんの方から今日はオフかと問われ、私は午後から任務があることを告げる。目の前を歩く彼女はこちらを振り向くと、戸惑う私に向かって僅かに口角を上げ、こう言った。


「変なことしないわよ、顔借りるだけ」



 初めて入った釘崎さんの部屋は、年頃の女の子らしくおしゃれな棚に可愛い雑貨や小物が飾られていて、なんだか入ってはいけない場所に足を踏み入れてしまったような気がした。
 そしてその部屋のベッドに当たり前のように寝転がっていた真希さんが、私の姿を見て「お? じゃん」と声を上げる。言葉とは裏腹に大して驚いていない様子の彼女は、片手に『呪術の歴史』という教師の私でも読まないようなタイトルの本を持っていた。


「えーと…これは、どういう…」
「はい、座って〜」


 釘崎さんに促され、いまいち状況が掴めないまま床に敷いてあったラグの上に座る。すると彼女は私の前に立ち「さ、始めるわよ」と、まるで今からさくっと呪霊でも祓うかのように呟いた。
 正座した私を見下ろす釘崎さんの両手には、膨らんだポーチが二つ乗せられていた。


「てか先生、近くで見たらマジで疲れてない? 隈もできてるし」
「一年三人が迷惑ばっかかけるから、心労がたたってんだろ」
「ホント、虎杖・伏黒・目隠しバカトリオには困ったもんよね…先生、まだ目閉じといて」
「ご、ごめん」


 指でとんとん、と私の瞼に何かを馴染ませている釘崎さんに、私は小声で謝罪を入れる。
 釘崎さんの言う通り、私は彼女に顔を貸すことになった。釘崎さんは「さ、始めるわよ」と言ったあと、ポーチに入っていた化粧品を取り出して私に化粧をし始めたのだ。他人の手が顔の上を滑っていき少しずつ整えられていく感じが、何だか落ち着かない。
 自分よりも他人にメイクする方が楽しい。そう笑う釘崎さんに「真希さんにはしないの?」と聞けば、釘崎さんが答えるより先に顔を顰めた真希さんから「顔にいろいろ塗りたくんの、気持ちわりいし」という返事が飛んできた。


「まあ、毎日呪霊の相手ばかりだと、あんまり化粧する意味ないものね」
「えー! 化粧って自分のテンション上げるためにするもんでしょー! 先生、目開けて」
「あ、はい」
「もう少しで終わるから」


 真っすぐ前見て、上向いて、と指示される通りに目線を上下させる。念入りに睫毛を伸ばされたあと唇に色を乗せられ、釘崎さんの「できたわよ」というどこか安心したような言葉に、ずっと本に目を落としていた真希さんが私の顔を覗き込んで笑った。


「へえ、いいじゃん」


 釘崎さんが差し出してくれた鏡の中の自分と見つめ合う。そこにはいつもの疲れきった私ではなく、よそいきの顔をした、言わば『きちんとした』顔の私がいた。隈もしっかりと隠れており、頬も仄かに赤く健康的に見える。


「すごい、肌がツヤツヤになってる…」
「やるじゃん、野薔薇」
「これくらいレディとして当然よ」


 得意気に笑い、髪を手で靡かせる釘崎さんにお礼を述べようと鏡から顔を上げたときだった。



「え?」


 カシャ。突如鳴った乾いたシャッター音に目を瞬かせる。ベッドの上で胡座をかいた真希さんが、スマホをこちらに向けたままにやりと笑った。


「悟に送ってやろ」
「待っ…、ストップ!」


 咄嗟に立ち上がり、片手に鏡を持ったままもう片方の手で真希さんの手首を掴む。ハッとしたときには真正面にいる真希さんも後ろにいる釘崎さんも、驚いて言葉を失っているのを感じた。
 ──しまった。心の中でそう呟きながら真希さんの手を離す。彼女は眉間に皺を寄せ、「何、あのバカとなんかあった?」と私に問いかけた。


「何もないけど…ほら、写真なんて送ったら絶対からかってくるでしょ?」


 平静を装ってそう答える。釘崎さんに鏡を返すと、彼女はそれを受け取りながら「目に浮かぶわね」と眉を寄せた。
 真希さんはスマホで撮った私の写真を眺めながら、口を尖らせる。


「そうかあ? アイツのことだから大喜びで飛び跳ねながらスマホの壁紙に設定してそうだけど」
「それも同じくらい嫌なんだけど…とにかく、送らないでもらえると助かる、かな」


 私の言葉に、真希さんはしばらく考えて「分かったよ」とスマホをベッドの上に放り投げた。そんな彼女の行動に、私はそっと胸を撫で下ろしたのだった。



 ──驚いた顔してたな。
 仕事着に着替えた私は、長い廊下を歩きながら私を見つめる二人の驚いた表情を思い返していた。少し申し訳なく感じつつも、とりあえず写真が送られなくて良かったと改めて息をつく。もうこれ以上、余計な悩み事を増やしたくない。

 しかし、楽しそうに会話を繰り広げる女子生徒二人のことを考えると心が温かくなる気がした。私も学生時代、同性の同期はいなかったものの、たまに家入さんが勉強の息抜きと称して私の部屋にお酒を持ってやってくることがあった。それ以外にも、任務で疲れ切っている私に伊地知が授業のノートを貸してくれたり、弓手にマメができたときは七海さんがアイスノンを貸してくれたり。授業をさぼって高専を抜け出し、アイスを食べに行ったこともあった。


「…あれ」


 ──誰と?
 そんな疑問が頭に浮かんだとき、ちょうど廊下の角を曲がるタイミングだった私はそのまま目の前にあった何かにぶつかった。勢いよく衝突してしまい、私は鼻と額を両手で押さえたまま痛みに悶える。

 数日前から古くなった校舎の一部の改修工事を行っていたため、室内外問わず廃材等が適当に積まれていることがあった。わざわざこんな危ない場所に置かなくても…。そう思って顔を上げると、そこには予想に反して今一番会いたくない人物が立っていた。


「ご、五条さん…!?」
「派手にぶつかったねえ、大丈夫?」
「え、なんで」


 軽く首を傾げながらこちらを見つめる五条さんに驚いたものの、私は慌てて両手で顔を隠したまま俯いた。
 あまり時間がなかったので化粧は落としていない。今、顔を見られるのはまずい──。


「今日神奈川じゃ、っていうか気配消して近付くのはやめてくださいって何度も…」
「神奈川の任務は秒で終わらせて秒で帰ってきたよ。ちなみに気配は消してない、がぼうっとしてたんじゃない?」


 そんなことはない、と否定できないまま何を言おうか考えていたら、私の手首を掴んだ五条さんにそのまま近くにあった空部屋へ引きずり込まれた。咄嗟のことで声も出せないまま、カタンと部屋のドアが閉まる。


「な、なに…」
「しい〜っ」


 人差し指を自身の口の前に立てる五条さんをただただ見つめる。もう真正面から顔を見られてしまったが、五条さんは私の顔の変化に気付いていないのか、ドアに耳を当てて外の様子を窺っていた。
 訳も分からないまま、五条さんに合わせて気配を消す。しかし私たちがいる部屋の前を誰かが通り過ぎていき足音が聞こえなくなった頃には、何となく状況を理解することができた。私がため息をつく前に、五条さんがわざとらしく胸に手を当てて大きく息を吐く。


「やれやれ…モテる男は辛いよ、まったく」
「また何か学長に怒られるようなことしたんですか」
「別に? ただちょっと京都のおじいちゃんを怒らせるようなことしちゃったかも?」
「もう、子どもじゃないんですから…」


 以前のように会話できている自分に安心していたら、ドアから耳を離した五条さんがアイマスクを片手で下ろしながらゆっくりと私に顔を近付けてきた。いきなり現れたこちらを直視する瞳に、思わず息を止める。
 私が何かを言う前に、五条さんは白い歯を見せて笑った。


「いやあ、真希から写真もらったけど化粧で結構変わるもんだね」
「…え!?」
「急に『の可愛い写真、一万円』って連絡が来てさ」
「何してるのあの子は…」
「まあ普通に買うよね」
「何してるんですか貴方は…」


 呆れながらふい、と顔を逸らしても五条さんはしつこく顔を覗き込んでくる。いつもの顔じゃないからか、なんだかむず痒く感じて落ち着かない。
 五条さんが口元に手を当てたまま、楽しそうに「やばいね」と笑ったので、些かイラッとした私は「すみませんね、いつも不細工で」と冷たく返す。


「違うよ」
「はい?」
「可愛すぎて、やばい」


 どんな意味にも捉えられる『やばい』という言葉にぽかんと口を開けていたら、五条さんの影がふっと落ちてきた。唇が、私の額を一瞬だけ掠めて離れていく。


「何して…!」
「これから任務でしょ? 失敗しないおまじないだよ」


 そう言われた瞬間、目の前がちかちかして軽い目眩を覚える。同時に訪れたのは、今までに何度か感じた頭の中で何かが弾ける感覚。


『おまじないだよ、おまじない』
『おまじない…?』
『これで今からの任務も──』



 見覚えのない景色が目の前に広がって何度も瞬きを繰り返す私に、五条さんが「」と声をかける。


「今のも、ただの事故にする?」
 

 見ていられない。私は両手を伸ばし、五条さんの肩口を押し返して俯いた。
 今この瞬間も、この間のキスのときも。どうして、五条さんの方が苦しそうな顔をしているんだろう。
 五条さんに触れている手が震えていることに気付く。心臓の音がうるさくて、顔がすごく熱い。いろいろな感情が綯い交ぜになって、せめて声だけは震えないようにと、彼の服を掴み静かに言葉を吐き出していく。


「…五条さんみたいに、何でもできて何でも手に入る人には分からないかもしれませんが、だからと言って…他人に、何でもしていい訳じゃないと思います」


 五条さんが私に何を求めているのか、分からないんです。そう言おうとしたけれど、喉が詰まって言葉が出てこない。俯いているせいで涙が零れてしまいそうだった。せっかく、釘崎さんが時間をかけて化粧してくれたのに。
 ぎゅっと力を込めた手に、五条さんの手が触れる。この間、私の頬に触れたときと同じように冷たい指先。そういえば、人は緊張するとアドレナリンが分泌されて手足が冷えるということを思い出したそのときだった。私たちのすぐ隣にあったドアが、大きな音を立てて開いた。


「…何やってんだ、お前ら」


 訝しむようにそう言った学長は、すぐ目の前にいる黙ったままの私たちに向かって深くため息を吐き出した。


、お前これから任務だろう。伊地知が探していた」
「あ…すみません、失礼します」


 何を思ったのか、優しく私の肩を叩いた学長に頭を下げて部屋を後にした。去り際に学長が「悟は説教だ」と言っていたけれど、五条さんを避けるようにして出てしまったため彼が最後にどんな表情をしていたのかは分からない。
 とにかく、今は任務のことだけを考えなければ──。そう、思うのに。


『可愛すぎて、やばい』
『おまじないだよ』
『今のも、ただの事故にする?』



 歩きながら、そっと熱くなっている頬に触れる。相変わらず心臓の音はうるさいままで、ずっと抑え続けていた何かが溢れ出す、そんな気がした。


(2022.07.02)