10.あなたが分からない


 あのあと無事に電車には乗れたものの、想像以上に乗り換えやタクシーを呼ぶほどでもない徒歩移動が多かったため、高専に戻ってきたときにはすでに空が暗くなり始めていた。虎杖くんに報告書は後日でも良いと告げて、職員室へ戻る。誰もいないと思っていたら、書類の山から伊地知がひょこっと頭を出したため私はぎょっとした。


「びっ…くりした」
「お疲れ様です、今日はすみませんでした」
「え?」
「あの…迎え、行けずに」


 申し訳なさそうにそう言う伊地知に、ああ、と息を吐くように呟いて自席に深く腰かけた。迎えを断ったのはこちらなのだから、別に伊地知が謝ることは何もない。そう言おうとしたものの、真っ先に口から出てきたのは「…五条さんは?」という質問だった。伊地知は書類を片手に首を傾げる。


「先程までこちらにいらっしゃって出て行ったばかりですが…会いませんでした?」
「…うん、会わなかった」


 そう答えながら、私は酷く安心していた。やはりどういう顔で会えばいいのか分からないからだ。しかしほっとしたのも束の間、伊地知の「さんに用があったみたいですけど」という言葉に心臓が縮み上がる。


「用って?」
「さあ…『さんに話さなきゃいけないことがある』とおっしゃってました」


 私は机に肘をついて、書類に目を落とす伊地知に気付かれないよう頭を抱えた。五条さんの言う『私に話さなきゃいけないこと』が何なのか、考えなくたって分かる。タブレットで五条さんの今後のスケジュールを確認しながら伊地知の名前を呼ぶ。彼の集中が途切れるのを感じて、私は顔を上げた。


「五条さん、」


 ──他に、何か言ってた?


「…お土産買ってきたかな」
「お、お土産ですか?」


 私の言葉に、伊地知は眼鏡を右手で上げながら目を丸くした。そして何か考えながら「何やら紙袋を持っていたような…」「でもあれがお土産かどうかは…」とブツブツ呟く伊地知に心苦しくなり、ごめんと一言謝る。

 私は深呼吸をして、目頭を押さえ強く目を閉じた。最近いろいろと考えすぎているからだろうか、夜もなかなか眠ることができず自分の双肩に疲労がのしかかっているのを感じる。家入さんに相談することも考えたけれど、どこからどう説明すればいいのか…。

 そんなことをつらつらと考えていたら、机の隅にコトン、と栄養ドリンクが置かれて私は顔を上げる。伊地知が少し困ったように微笑みながら、こちらを見下ろしていた。


「どうぞ」
「あ、ありがと…」
「何か心配事があるなら気兼ねなく言ってください。術師の方が気持ちよく仕事できるようサポートするのも補助監督の仕事ですし、何より同期でしょう」


 伊地知の言葉に、彼が日々身を粉にして働きながら飲んでいる栄養ドリンクがぐにゃりと歪んだような気がした。もう一度ありがとう、と言って栄養ドリンクの蓋を開ける。ぱきっという子気味好い音が聞こえて、何となく飲む前から気分がすっきりしたような気がした。

 飲んでいる途中、再び書類整理を始めた伊地知が「五条さんに振り回される大変さは、誰よりも分かってますので」と言ったものだから、今度は私が目を丸くする。


「何かあったんでしょう、五条さんと」
「…よく分かるね」
「お二人のことは…学生時代からよく見てましたからね」


 私が返事をする前に、束になった書類をとんとん、と机の上で整えた伊地知は立ち上がった。


「私は学長のところへ行ってきます。鍵はそのままでいいので、さんは早く上がってください」
「ありがとう、伊地知もね」


 職員室を後にする伊地知を見送り、本格的に静かになった部屋でため息を零す。飲み終わった栄養ドリンクの瓶を机に置いて、両腕を天井に伸ばしながら背伸びをしたとき、がらりとドアが開く音が聞こえて振り返った。


「何か忘れも…の…」
「お、戻ってたんだ?」


 てっきり先程出ていったばかりの伊地知が何か忘れ物をして戻ってきたのだろうと思った私は、職員室の出入り口に頭をぶつけそうになりながら立っている五条さんの姿に目を白黒させた。五条さんは私の姿を見つけて一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐにいつもの調子で「お疲れ!」と片手を上げた。


「お、お疲れ様です」
「あれ?伊地知は?」
「今さっき出て行ったばかりですけど…すれ違いませんでしたか?」
「んーん」


 五条さんは本当に廊下を歩いて移動しているのだろうか…。緊張しているのにそんな呑気な疑惑が頭に浮かび、私は軽く首を振った。「まあいいや」と呟いた五条さんが、大股で私の席まで歩み寄る。そして私の隣の席の椅子を引いて少々乱暴に座ったあと、


にさ、話があって」


と切り出したので私は息を呑んだ。とてもじゃないが、五条さんの顔を見ていられない。視線を少し下げると自然に綺麗な唇が目に入って、私は咄嗟に顔を勢いよく背けた。

 ──だめだ、耐えられない。


「い、虎杖くんはいい子ですね」
「…ん?悠仁?」


 急に何の前置きもなく飛び出してきた生徒の名前に、五条さんは少しぽかん、とした様子で彼の名前を口にした。混乱する頭の中に、今日の任務先で虎杖くんが言った私を気遣う言葉が蘇ってくる。


「彼は実直で、他人のことを第一に考えられる…でも呪術師として生きていくということは、嫌でも誰かの犠牲の上に立ち続けなきゃいけない」


 彼がそれに耐えられるかが心配です。空になった栄養ドリンクの瓶を見つめながら小さな声でそう呟けば、五条さんはしばらく何かを考えたあと、「大丈夫でしょ」とあっけらかんと笑った。


「生徒たちのことを信じるのも僕ら教師の務めだろ」
「それは、まあ…はい」
「あと悠仁は確かにいい子だけど、知ってる?彼、休みの日に結構な頻度でパチンコ行ってるんだよ」
「えっ」


 あまりの衝撃発言に驚いて五条さんを見れば、彼は私の隣で頬杖をついたままにやりと笑った。


「やっとこっち見た」
「…騙したんですか、パチンコなんて嘘ついて」
「いや〜?があからさまに話を逸らそうとするからさ、ちなみにパチンコは本当」
「それはちょっと…というか大問題では」
「で、本題に戻るけど」


 打って変わって真顔になった五条さんに、息が詰まる思いがした。あのときのことについて、そしてあのとき五条さんが言ったあの言葉について、きちんと説明されるのだろうか。私はそれをどういう顔で聞いていればいいのだろう。ごくり、と喉が大きく鳴って、さらに恥ずかしさが増す。我慢できずに再び目を背けようとしたとき、五条さんはこう言った。


「再来週のスケジュールなんだけど、一年生の引率の日にご指名で特級任務入りそうでさあ」
「…は」
、僕の代わりに彼らの引率してくんない?予定見たら任務入ってるみたいだけど、そこはうまく調整してもらって」
「あ、はい、分かりました」
「よろしく〜」


 五条さんはへらへらと笑いながら軽い調子でそう言うと、呆然としている私の机の引き出しを開けて中に入っていたお菓子を食べ始めた。自由人の五条さんは私たちと違って自分のデスクを持たないため、こうやってなぜか私の引き出しにお菓子を溜め込んでいる。


「なんだ、話ってそういう…」


 ぼそりとそう呟き、私はため息をついて椅子の背もたれに身体を預け天井を見上げた。緊張が解けて、全身が脱力する。安心している反面、どこか少しわだかまりが残っていて複雑な気持ちだった。かと言って、あの日のことを自ら掘り返す勇気はない。

 天井の灯りの周りを小さな虫が数匹集って飛んでいる。それに気付くと同時に、視界にぬっと五条さんの顔面が現れ、光が遮られた。いつの間に立ち上がったのか、私を見下ろしている五条さんに脱力したばかりの身体が再び硬直する。


「別の話かと思った?」
「…い、え」
「あのときのキスの話?」


 頭の中で考えてしまうときでさえ避けていた『キス』という言葉に、全身が熱くなっていく。楽しんでいるかのように私を揶揄う五条さんは、そのままそっと私の頬に触れた。意外にも冷たい指先に、背筋がぞくりと震える。


「僕のこと、意識してくれてる?なんかよく見たら隈もできてるし、あれから眠れなかった?」
「意識、してません」
「嘘でしょ」


 ──そうだ。確かに五条さんの言うとおり、ずっと意識してしまっていた。夜も眠れないくらい、五条さんと同じ車に乗ることを避けるくらい、話があるって言われて勝手に何の話か決めつけてしまうくらい。

 私の頬を包み込むように触れたままの五条さんの手の上に、そっと自分の手を重ねる。僅かに五条さんが表情を変化させたあと、私は彼の手を握って私の頬から引き離した。


「あれは…事故です」
「…は?事故?」


 ぽかん、と口を開ける五条さんに頷いてみせる。


「言ってたじゃないですか、手と口が滑ったって」
「…いや、言ったけどさ」
「だからあれは…誰が何と言おうと事故です、もうそう思うことにします」


 半ば自分に言い聞かせるようにしてそう言うと、五条さんは私が引き離した手を自身の口元に添えて「事故、ねえ…」と小さく呟いた。座っている私から五条さんの身体が離れたと同時に、私は立ち上がって彼の横をすり抜ける。足早にドアの前まで向かい、振り返ると五条さんは黙って私を見つめていた。


「今日は上がります、お疲れ様でした」

「鍵、開けといていいみたいなので…伊地知もそのうち戻ってくると思います」


 では、と軽く会釈をして職員室を後にし、ドアをぴしゃりと閉める。そして早歩きでスピードを落とすことなく自室のある寮へと向かった。

 薄暗く人気のない廊下を突き進みながら、一人自分の感情に向き合ってみる。

 いつにも増して五条さんのことが分からない。唯一分かったのは、意識していたのは私だけで五条さんにとってはなんでもないことだった、ということだけ。きっと彼にとっては、いつものおふざけの延長だったのだろう。でも、それならそれでもういいと思った。変に今の関係性が変わってしまうよりは。──それなのに、なんでこんなに苛々しているんだろう、私。五条さんが私を揶揄うのはいつものことなのに。もちろん、今回の件は度が過ぎていたというのもあるけれど。

 ふと立ち止まると、月明かりが廊下を照らしていてどこか知らない場所に来てしまったような気がした。暫しその場に佇んでいたが、五条さんが私を追いかけてくることはなかった。


(2022.06.23)