09.どうして、あんなに


「…生、…先生、先生!」


 強い力で二の腕をぐい、と引っ張られて我に返ると、眉を落としこちらを心配そうに覗き込む虎杖くんの顔がすぐ目の前にあり、驚いた私は口を開けたまま瞬きを繰り返した。「どったの?具合悪い?」という彼の問いかけに、慌てて首を横に振る。


「ごめん、大丈夫。伊地知に連絡するね」


 私の返答に虎杖くんは特に訝しがる様子もなく、ほっとしたような表情を見せて私の二の腕を解放した。彼に気付かれないよう、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。いくら祓除が済んだとは言え、生徒と一緒にいるときくらい余計なことを考えないようにしなければ。取り出したスマホの画面に指を滑らせ、着信履歴から伊地知の名前を探しながら私は自分に小さく活を入れた。


『お前、いつまで忘れてんの?』


 あの日の五条さんの言葉が、数日経った今でも私の頭の中をぐるぐると回り続けていた。そしてその言葉のみならず、ふとした瞬間に、あの日私の身に起こった出来事すべての記憶が鮮明に蘇ってきて、思い出す度にその場に突っ伏してしまいたくなる。

 ──あの言葉は、一体どういう意味なんだろう。何か、大事なことを忘れてしまっているのだろうか。

 あのあと、五条さんは何も言えなくなった私に「ごめんごめん、手と口が滑っちゃった」と訳の分からないことを言って、何事も無かったかのように部屋を出て行った。そしてその翌日から彼は出張に出てしまったので、結局あれから一度も顔を合わせていないことになる。

 無意識に唇を噛み締めると、唇の裏にできている瘡蓋が舌に触れた。その瞬間、再び五条さんの唇や舌の感触、彼の吐息や熱を思い出す。


「あぁああ〜…」
『…さん?大丈夫ですか?』
「あ、ごめん、何でもない」


 電話越しに聞こえた伊地知の声にピン、と背筋を伸ばす。ちらりと虎杖くんに目をやると、彼は初めて来た場所だからか、田畑が広がる景色をきょろきょろと眺めていた。先程の情けないため息を聞かれていなかったことに、胸を撫で下ろす。私は伊地知に任務が滞りなく完了したことを報告した。


『すみません、迎えなんですが少し遅れそうです』
「どれくらい遅れそう?場合によっては電車やバス乗り継いで帰るけど…」
『公共交通機関を使うには不便な土地でしょう。実は人手不足で、出張から戻られた五条さんを急遽駅まで迎えに行くことになりまして…』


 身体がびくりと跳ねる。しかし、そんなことに気付くはずもない伊地知は話を続けた。


『五条さんを拾ったあと、そのままお二人を迎えに行こうと考えているのですが…道が混んでいなくても一時間以上は』
「…機関」
『はい?』
「公共交通機関で帰る」


 耳に届く声の様子から、伊地知が戸惑っているのが分かる。「大丈夫、最悪自費でタクシー乗るから」と少々強気に言い放つと、伊地知はすんなりとではないがとりあえず納得したようだった。…どうせそのうち顔を合わせることになるのだから、今頑張って五条さんを避けたって全然意味ないんだけど。通話を終えて、少し離れたところに立っていた虎杖くんを呼び寄せ詳細を説明する。彼はニカッと白い歯を見せて「了解!」と返事をした。その笑顔に、私情を優先してしまったことが酷く申し訳なくなる。


「ごめんね…」
「なんで?別に先生は悪くねーじゃん!」
「…もうお昼だし、何か食べて帰ろっか。奢るよ」
「やった!」


 そうは言ってみたものの、この辺に飲食店などあるのだろうか。そう思って周りを見渡したとき、虎杖くんが「あそこは?」と私の背後を指さす。彼の指先へ視線を動かしていくと、ハンバーガーショップの看板が小さく見えた。




「先生の術式って、家ならではのもんなん?」


 ハンバーガーセットと単品のハンバーガー二つ。虎杖くんが注文したそれらを眺めながら十代の男の子の食欲に感心していたら、急にそう問われて私はポテトを摘む手を止めた。


「うん、家相伝の術式だよ」
「面白いし、すっげー便利だよね」


 狭いテーブルを挟み、私の正面で大きな口を開けてハンバーガーを頬張る虎杖くんをまじまじと見つめる。『面白くて便利』。自分で自分の術式のことをそう思ったことはなく、また他人から言われたこともなかったので彼の言葉に思わず面食らってしまった。

 蟇目矢呪法。私の持つ術式の名前で、古くからうちの神社で行われていた、妖魔を降伏させるために弓に蟇目の矢をつがえて射る『蟇目の儀』から生まれたものだとされている。『蟇目の出す音は邪を払い、場を清める』と言われており、蝿頭や低級の呪霊ならば蟇目矢を射るときに出る音だけで祓うことができる。仮に祓えなくても、余程強い呪霊でなければその音で一定の時間動きを止めることができるので、大体対象を仕留めることができた。きっと虎杖くんが『便利』と思ったのは、この部分だろう。

 基本的に弦は呪力で、蟇目矢は常備している榊の葉を呪力で伸ばして作る。しかし不便なことも多く、弓幹は呪力で作ることができないため、分解できるとは言えわざわざ実物を持ち歩かなければならない。また物質をゼロから構築する構築術式と違い、弦と蟇目矢は永続せず術式が消えたら消失してしまう。近接戦闘に関してはある程度改善されたものの、自分が納得するレベルまでは到達していない。


「学生の頃は、近接の訓練で『基礎からやり直せ』って怒られたよ」
「へえ〜、誰に?」


 そう私に問いかける虎杖くんは、既にハンバーガーを一つ平らげたところだった。


「誰、だったっけ」


 学生の頃を思い出して話したはずなのに、なぜか頭の中に靄がかかったように感じる。──確かに『基礎からやり直せ』と言われた記憶があるのに、それがいつだったのか、どこで誰に言われたことなのかが思い出せない。

 しかし聞いた張本人は思い耽る私のことなど気にすることなく、ポテトを空にして最近見た映画の話を始めた。


「すっげーどんでん返しだったんだよ!まず密輸船が爆発するんだけどさ」
「アクション映画?」
「ん〜、サスペンスかな?で、その船で生き残ったヤツが刑事にそれまでの出来事を説明していくんだけどさ、最終的にぜーんぶ作り話でソイツが黒幕だったんだよ!」


 興奮しながら「思いっきり騙されたわ〜!」と陽気に話す虎杖くんを前に、私は目を閉じてこめかみを押さえる。


「なんかその映画見たことあるような…」
「あ、そーなん?五条先生にオススメされたやつだから、先生も五条先生経由かな?」
「五条さんに…」
「うん、でも五条先生は途中までしか見てないって言ってた」


 虎杖くんが不思議そうに「オススメの映画なのに、何でだろうね?」と呟くのを聞きながら、私は氷が溶けかけているお茶を喉に流し込んだ。五条さんの名前を聞いただけで唇に意識が集中してしまうのを誤魔化すためだった。

 もぐもぐ、と咀嚼を繰り返していた虎杖くんが、少し気まずそうに「あのさ、」と切り出したので、私は顔を上げる。


「実際のところ、先生って五条先生のことどう思ってんの?」


 思いがけない質問に噎せそうになるのを何とか堪え、一度だけ咳払いをして動揺を悟られないよう軽く笑った。


「…なんで?」
「いや、いつも先生たちのこと『夫婦漫才』っていじってるけど…五条先生はともかく、それで先生が嫌な気持ちになってたら申し訳ないなと思ってさ」
「虎杖くん、どうして──」


 宿儺の指なんか飲んじゃったの。そんな言葉が口から出そうになり、私は唇を固く結んだ。こんないい子、呪術界に来るべきじゃなかった。頭の中でそう思いながら、彼の質問を頭の中で反芻する。五条さんのことを、私はどう思っているのか。


「正直…分からない」


 私にとって五条さんは高専時代の先輩であり、今は同じ職場で働く同僚。それ以上でも以下でもない…はずなのに、何がきっかけでそうなったのか分からないが五条さんは私に軽々しい態度をとるようになり、この間はいきなりあんなことを──。

 そこまで考えて、私の返答に虎杖くんが困った表情を浮かべていることに気付き、私は恥ずかしい気持ちを抑えて彼を安心させるように微笑んだ。教員同士のいざこざは生徒には関係ないし、ましてや悪い影響を与えてはいけない。


「別に嫌ってないよ。呪術師として尊敬…してるかは別として、呪術界には欠かせない人だから…もっと役に立ちたいと思ってるし」
「そっか」
「まあ…あんまり揶揄わないでほしいとは思うけどね」


 呆れたように苦笑しながらそう愚痴を零したとき、テーブルに置いていたスマホが短く振動する。虎杖くんに一言断って確認すると、伊地知から『本当に迎えに行かなくて大丈夫ですか?』とこちらを心配する内容のメールが届いていた。

 恐らく、伊地知は電話で話していた通り五条さんと合流したあとなのだろう。彼は、私が迎えを断ったと五条さんに話すだろうか。それを聞いて、五条さんは何を思うだろうか。

 簡潔に『大丈夫だよ、ありがとう』と返事を送ったあと、果たして本当に大丈夫なのかどうかを確認するために乗換案内アプリを開く。すると虎杖くんがぼそりと「本当に揶揄ってんのかなあ…」と呟くのが聞こえ、私は視線をスマホに落としたまま「そうだよ」と軽く返事をした。公共交通機関が発達していない場所であるため、次の電車に乗り遅れるともう後がなさそうだ。さすがにここから高専までをタクシーのみで移動するとなると、なかなかきつい。私はスマホを置いて、虎杖くんに声をかける。


「急いで食べ…って、もう食べ終わってる」
「俺、食べるの早いから!」
「私も急いで食べるね」
「…ねえ、先生」
「うん?」


 ポテトばかり食べていたからか、既に冷たくなってしまったハンバーガーの包み紙を開きながら、虎杖くんに視線を向ける。しかし彼は少しだけ何かを考えたあと、「やっぱ何でもない!」と言いへらっと笑ってみせた。特に違和感も覚えず、私も笑って頷きハンバーガーにかぶりつく。このときの虎杖くんが何を言おうとしていたのか、特に気にもしなかった。


──『先生に軽口叩いてるときの五条先生、どうしてあんなに悲しそうに見えるんだろ?』


(2022.06.15)