08.一生のお願いだから


「大丈夫…じゃなさそうだな」


 自販機のそばにあるベンチに座り項垂れていたら、近付いてきた硝子が一言そう呟いて俺に缶コーヒーを差し出した。受け取らずに、黙って視線だけを送る。しばらく経って硝子はそれを俺の隣に置くと、少し離れたところに座り煙草に火をつけた。白い煙と嗅ぎ慣れている香りがゆっくりと揺らぎながら俺の鼻まで届く。意を決して何とか絞り出した声は、情けないほど掠れていて頼りないものだった。


「…は?」
「一時間くらい前かな、戻ってきた」


 硝子は付け加えるように「元気そうだったよ」と短く言った。本来なら喜ばしいことなのに、「元気」という言葉を耳にしても素直に喜ぶことができない。俺は返事をせずに、凭れるように座って前に投げ出した自分の脚をただ眺めていた。

 最初は高専で治療を受けていただったが、念のため病院できちんとした検査を受けた方がいいという校医の判断で、一週間ほど高専御用達の病院で検査入院をしていた。そのため、俺もも動揺のあまりろくに会話もできないまま離れてしまい、高専に戻ってきたことを知った今でもどういう顔で会いに行けばいいのかを考えあぐねている。だって、アイツ──。


「ほとんど覚えてないんだろ、俺のこと」


 憎たらしいほど清々しい青空の下、元気に鳴き続ける蝉の声だけがその場に響き渡る。一呼吸置いて煙を吐き出した硝子が、ぽつりと呟いた。


「系統的健忘って分かるか」


 聞き慣れない言葉に、俺はようやく顔を上げて隣に座る硝子を見つめる。彼女は煙草を持った手で自分のこめかみをとんとんと叩きながら、「記憶障害の一種だよ」と言った。

 硝子の説明によると、系統的健忘というのは家族や恋人といった特定の人物についての情報を忘れてしまう記憶障害らしい。一般的にはその特定の情報全ての記憶を失うことがほとんどだが、と話をした医師によると、彼女の場合、高専関係者に対して『その人物が誰か』という記憶は残っているが、それ以外の記憶を失ってしまったようだった。簡単に言ってしまうと、入学当初のに戻ってしまっていた。そして厄介なことに、中途半端に記憶が残っているせいで本人は自分の記憶に空白があることに気付いていない。

 原因として挙げられるのは強いストレスなどの心因的なものが多いらしいが、今回のの場合、呪霊の呪力も関係しているかもしれない。脳と呪力の関係はまだまだ明らかになっていないことの方が多く、実際その現場に以外の人間はいなかったのだから、本当のことは誰にも分からないままだ。今後、が記憶を取り戻すかどうかも。

 俺の中には短い期間ではあるがと二人で過ごした記憶が確かに残っているのに、の中にはそれが一切残っていない。その事実を考えるだけで、どうしようもないほどのやるせなさを感じる。


「一生目覚めない可能性だってあったんだ」
「…そうだな」


 硝子の慰めるような言葉に、俺は間を置いて頷いた。そうだ、普通に考えれば、生きて五体満足で帰って来れただけでかなり幸運なことなんだ。そう考えて長く息を吐きながら天を仰げば、自分の背後にある広い窓から雲ひとつない空が見えた。

 もう少ししたら夏も終わる。海も夏祭りも花火大会も、と一緒に行きたいと思っていた場所にはどこにも行けないまま。視界の隅で何か白く小さいものが動き、目で追うと白くまっすぐな線を描きながら飛ぶ一機の飛行機だった。

 少し遠慮がちに、硝子が「なあ」と声をかける。俺は正面に顔を戻し、「何?」と言葉を返した。


「こんなこと今のお前に聞くのも酷だけど、これからどうするつもり?」


 彼女の言う『どうする』というのは、単純に今からの予定を聞いているのではなく『のことをどうするつもりなのか』を聞いているのだろう。のことを心配しているのは、俺だけじゃない。

 しばらく沈黙が流れたあと、俺は硝子が置いた缶コーヒーを手に取って立ち上がった。結露による水滴が垂れて、俺の足元を濡らす。


には絶対言うなよ、俺とのこと全部」


 長い時間をともに過ごしてきた訳ではないが、のことは誰よりも分かっているつもりだ。だからこそ、今の彼女にとって俺は『ただの二つ上の先輩で五条家の人間』であり、特別な感情なんて何一つ抱いていないことも知っている。そんな状態のに「お前は俺の恋人だ」と本当のことを伝えたところで何の意味もないし、それどころか逆に距離が生まれるだけだろう。

 座ったままの硝子の方へ向き直ると、自然と缶コーヒーを持つ手に力が入る。


「もうは一級になんかならなくていい、ずっと俺のそばに置いておいて少しずつ思い出させる」
「…そんなの余計が混乱するだけだろ、本人のためにもならない」
「正論、やめろよ」


 持っていた缶を捻り潰すと、プルタブが吹き飛んで中の黒い液体が噴き出した。それを見て苛立った様子の硝子が舌打ちをする。そして彼女は「一生思い出さないままかもしれないぞ」と言って眉を寄せた。

 ──そうかもな、もうこの先一生俺と付き合っていたことなんて思い出してもらえないかもしれない。そのときは。


「そのときは──また惚れさせればいいだろ、何年かかってでも」


 床に零れ落ちたコーヒーやどこか呆れた表情を浮かべる硝子から視線を逸らし、さらには現実からも目を背けるように再び窓の向こうに広がる空を眺める。そこに先程目にした飛行機の姿はなく、あるのは航跡に残った白い線のような雲だけだった。

 飛行機雲を見れば、その場に飛行機の姿がなくとも誰もが『飛行機が飛んでいた』という事実に気付くように、だって俺との思い出の物や場所を目にすれば、いつかは気付くかもしれない。それは期待というより、最強で無力な俺の願いだった。



 一週間ぶりに見たその背中は、あの日見送ったときよりも随分と小さくなったように見える。ジャージ姿でその場に立ち尽くすは、俺の気配に気付くとびくりと肩を揺らして振り返った。


「あ…お疲れ様です」


 笑うことなくそう言うを見ていたら、初めて会った日のことを思い出した。「ん」と短く返事をしての隣に立つ。目の前にあったテーブルには、先の任務で壊れたらしいの弓幹が静かに置かれていた。

 隣にいるが緊張しているのが分かる。多分、俺と何を話していいのか分からないのだろう。弓幹を指さすと、の視線が俺の指先に集中する。


「…これ、どうすんの?」
「一応修理に出す予定で…でも修理できる術師の方がしばらく不在のようで、時間がかかるみたいです」
「怪我は大丈夫なのかよ」


 一番に聞きたかったことをようやく聞くと、は壊れた弓幹の説明をするのと同じように淡々と話し出した。任務で制服が駄目になってしまったこと、携帯や学生証も紛失したこと、弓幹の修理が終わるまで安静にしておくように言われたこと。そして最後に、自分の腹の辺りを押さえてこう言った。


「傷は残りましたけど…それだけで済んで御の字です」
「それだけ…」


 思わずそう呟くと、よく聞こえなかったのかは俺の顔を見て首を傾げた。その表情を見ていたら、先程硝子には偉そうに「絶対言うなよ」と言ったくせに、今すぐ全部ぶちまけてしまいたくなる。

 お前、『それだけ』で全然済んでねえんだぞ。

 思わずに向かって伸ばしそうになった手を強く握りしめる。視線を下げると、の細くて小さな指先が目に入った。あの日、一緒にコンビニでアイスを食べた帰り道に初めてきちんと触れた指先。お前は、そのときの記憶もないんだよな。


「…しっかり休めよ、まずはそれからだ」


 そう言うと、は瞬きを二、三度して「ありがとうございます」と礼を述べた。昇級の有無に限らず、任務に失敗して受けた恐怖に囚われ続け、呪術界を離れていく奴は割と多い。でも真面目で頭のいいのことだから、きっと今回の恐怖は自分の力で克服するのだろう。硝子は渋い顔をしていたが、が呪術師でいる限り、いくらでも俺のそばに置いておく術はある。

 死んだ人間が生き返らないのと一緒で、起こってしまった事実は変えることができない。今の俺にできることは、とにかく最善を尽くすことだけだ。

 一人心の中でそう決意し、静かに目を閉じる。次に目を開いたときに見えたは、明らかに不機嫌そうな視線をこちらに向けていた。



「…だ」
「なぜここにいるんでしょうか、五条さん?」


 あれから長い月日が経過したが、は記憶を取り戻すこともなければ僕のことを再び好きになることもなかった。一度好きになった相手なら、きっかけさえあればまた好きになるはず。そう思って積極的にと過ごす時間を増やそうとしたのに、あのあとしばらくして傑が忽然と姿を消し、僕はその穴を埋めるかのように休みなく任務に奔走した。その結果、それまで頻繁にと手合わせをしていた日々が嘘だったかのように、顔を合わせることすら極端に減ってしまった。

 何でもできるからと言って、何でも手に入るわけじゃない。最近そのことをひしひしと感じる。布団に顔を埋めれば、ぼそりと不満たっぷりの声でが「忘れないでくださいよ…」と呟くのが聞こえ、気が付いたら無理矢理彼女を引き寄せて勢いよく唇を合わせていた。

 こんなことをしても何の意味もないし、と距離が縮まるわけじゃない。頭ではそう分かっているのに、歯止めが効かない。いっそのこと怒鳴ってくれても殴ってくれてもいいから、このショックで思い出したりしてくれないかな。一生のお願いだからさ。しばらくして唇を離せば、は何とも言えない表情を浮かべていて、『やっぱり駄目か』と今までに何度も感じた絶望が再び僕の心を押し潰すように落ちてきた。

 思い出さないのなら、何年かかってでも惚れさせればいい。そう意気込んでたけど、さすがに十年は長いよ。十年経ってもこの僕に惚れないなら、もう思い出してもらうしかないじゃん。なあ、──。


「お前、いつまで忘れてんの?」


(2022.06.04)