07. お前、ふざけんなよ


「クソだっさいストラップだな」


 頭上からそんな声が聞こえて、談話室のソファーに座っていた私は顔を上げる。そこには火のついてない煙草を咥えた硝子先輩が立っており、彼女の言葉に私は携帯を持ち上げてぶらさがっているストラップを眺めた。


「可愛くないですか?」
「…は趣味が悪いな、あんなクズどこがいいんだか」


 ストラップの話をしているつもりだった私は、硝子先輩の言った『あんなクズ』という言葉に目を瞬かせる。しかしすぐに「付き合ってるんだって?」と言われ、照れくさくなった私は携帯を握りしめ俯いた。


「あの、まあ、はい…」
「まだ入学して半年も経たない後輩に手出しやがって、五条のヤツ」


 そう言い放つ硝子先輩に苦笑いを返しながら、私は五条先輩と二人で高専を抜け出し、コンビニにアイスを食べに行った日のことを思い返していた。



「俺、お前と付き合うつもりでいるんだけど」


 高専に到着後、どちらからともなくそれまで繋いでいた指を離して長い道のりを歩き、ようやく校舎に辿り着いたとき。五条先輩が少しだけ上擦った声でそう言ったので、私は一瞬だけ呆気に取られた。ほんの少し前に結婚がどうとか言っていた人の発言とは思えないほど、私の意思を恐る恐る確かめるような言葉だったから。我慢できずに小さく笑えば、五条先輩は僅かに顔を赤くして眉根を寄せた。すぐに謝り、頭を下げる。


「よろしく、お願いします」
「…ん」


 顔を上げて短く返事をした五条先輩に視線を向けると、五条先輩は私が見ていることに気付き私の両肩を掴んでそのままくるりと百八十度回転させた。


「ほら、さっさと教室戻れ」
「あ、はい」


 ──無理矢理連れ出したのは五条先輩なのにな。そう思いつつも口には出さず、数歩進んだところで振り返ると五条先輩はその場に立ったまま、私の視線に気付いて手をひらひらと振っていた。同じように手を振り返そうとして、静かに頭を下げる。長い廊下をぱたぱた走りながら、教室に着くまでに絶対赤くなっているであろうこの顔を何とかしなければ、と必死に思った。



 硝子先輩にとって五条先輩はクズかもしれない。実際、初めて会ったときの五条先輩は偉そうで態度もそこまで良くなかったし、正直印象は悪かった。しかし最初が悪かったからこそあとは上がるだけで、徐々に五条先輩のことを好ましく思うようになっていった。でもそれはあくまで私だけだと思っていたので、今でもあの日の出来事が信じられないときがある。

 私の隣に座った硝子先輩が、思い出したように「この辺にライター落ちてなかった?」と尋ねる。首を横に振ると、先輩は諦めたように煙草を口から離してため息を零した。


「そういや明日だっけ、昇級任務」
「あ、そうです」


 少し前に推薦を受けて準一級に認定され、明日は初めて単独での一級任務に向かう予定だ。緊張していない、と言えば嘘になる。でも先輩たちの協力もあり、自分自身多少は強くなったという自覚があった。プレッシャーとは少し違うが、自分のためと言うより先輩たちに恩返しするためにも、明日の任務は絶対に失敗したくない。自然と手に力が入っていた私の頭を、硝子先輩が優しく叩く。


「私が治せる程度の怪我で済ませてこいよ」
「了解です」


 ようやく口元を緩ませた私を見て、硝子先輩はにやりと笑った。


−−−−−−−−−−


 がらりと扉が開く音がして、反射的に目を閉じる。一年の教室に一番近いこの部屋は、最近改築されて応接室になってはいるもののあまり使われておらず、俺にとって絶好の仮眠室になっていた。遠慮がちにこちらへ近付いてくる足音と気配だけで、目を開けなくてもすぐにだということが分かり、少しだけそんな自分が気色悪いと思う。がソファーに寝そべる俺の隣にやってきたのを察すると同時に目を開けると、が驚いたような顔でこちらを見下ろしていた。


「起きてたんですね」
「まあな…つーかお前、本当俺のこと見つけるのうまいよな」
「それ、夜蛾先生にも言われました」


 身体を起こし腹の上に置いていたサングラスをかけると、彼女はソファーの空いたスペースに腰を下ろす。はいつにも増して固い表情で膝の上に置いた自分の拳を見つめながら、「今から行ってきます」と呟いた。今日は、にとって一級へ昇級できるかどうかがかかっている大事な日だ。始まる前から、つーか始まる前だからか、緊張のあまり全身に余計な力が入っている。俺はポケットに入っていたチョコレートを取り出すと、に差し出した。


「…これ、本当好きですよね」
「食いたいときにサッと食えるだろ」


 俺の言葉には頷くと、包み紙を破き中身をぱくりと口の中に入れた。そんな彼女の横顔に語りかける。


「この前さ、一緒に途中まで見た映画あるだろ、急に俺が任務入って離脱したやつ」
「はい、あの…密輸船爆破事件の生存者が回想していくやつですよね」
「あれ、最後まで見た?」
「見てないです、五条先輩と最後まで一緒に見ようと思って」


 ──そういうことを何の企みもなくサラッと言うんだもんな、コイツは…。面食らい、思わず笑ってしまいそうになるのを堪えるために一つ息を吐けば、が少し心配そうに「一人で最後まで見た方が良かったですか?」と尋ねてきた。ちげーよ、バカ。片手での頬を挟むと、柔らかそうな唇がむに、と歪む。


「何するんですか」
「早く続き見てえから、ちゃちゃっと終わらせて帰ってこいよ」
「…はい」


 ふっと表情を緩ませたを見て胸が詰まるような気がした俺は、彼女の頬を片手で挟んだまま顔を寄せた。が、すぐにが両手で俺の額をぐいっと押し返す。軽く睨みつければ、顔を赤くして咎めるような目を向けるがいて、そんな表情すら愛しいと思ってしまう自分に少し呆れてしまう。


「が、学校でこういうことはしないって約束ですよね」
「…ったく、しょうがねーな」


 わざとらしくため息をついて顔を離し、が油断して両手を下ろしたところで素早く彼女の額に唇を落とす。驚いたような声を上げたは、得意気に笑う俺に睨みを利かせた。


「おまじないだよ、おまじない」
「おまじない…?」
「これで今からの任務も楽勝だな」


 そう言えば、は反論しようにもできないようでぐっと押し黙った。──映画の続きを見ながら、どうやっていい雰囲気に持っていこうか。少し不服そうに口を尖らすを見ながら、そのときの俺はそんなことばかり考えていた。



 近場での任務を二件終えて高専に戻ったとき、時刻は十七時になろうとしていた。携帯にからの連絡はなく、一年の教室にも寮の部屋や談話室にも姿は見当たらない。確か彼女が高専を出たのは、朝の八時頃だったはずだ。──いくら何でも遅すぎねえか?呪霊のタイプによっては結界のせいで時間にズレが生じ、術師が二、三日帰ってこないということもあるがそれは稀なことだ。

 携帯を開いてメールを打とうかどうか迷っていたら、人の気配を感じてふと顔を上げた。前方に見覚えのある補助監督の姿があり、慌てた様子でどこかへ急いでいる後ろ姿を眺めながら記憶を辿っていく。いつ、どこで会ったんだっけ…そうだ、アイツは確か。ふと、今朝任務へ向かうを見送ったときの光景が頭に浮かんだ。

 ──今日、に同行してたヤツだ。

 ざわ、と胸騒ぎを感じながら、気が付いたら俺はその補助監督の肩を掴んでいた。驚いたように俺を見上げるソイツの黒い瞳が明らかに動揺の色を浮かべていて、きゅっと喉の奥が締め付けられる。


「…は?」


 微かに震える唇から発せられた言葉に、頭が真っ白になり目の前の景色が歪んでいく。補助監督の顔が歪んだのか、それとも俺の視界がぐにゃりと歪んだだけなのか、分からなかった。

 の昇級任務は失敗に終わったものの、自身は無事に帰ってきた。いや、『無事』という言い方は語弊がある。が高専に運ばれてきたときの状態は酷く、硝子や高専の校医が二人がかりで処置を施し何とか一命は取り留めたが、見えない箇所とは言え身体の一部には一生消えないであろう瘢痕が残った。意識も回復せず、ひょっとしたらこのまま…と誰もが覚悟をし始めたある日、は目覚めた。その日は、一緒に見ようと約束していた映画のDVDの返却期限日だった。

 硝子から連絡をもらい最速で任務を終え、医務室のドアを開ける。力の加減ができず吹っ飛びそうな音を立てたそれに、中にいた硝子が顔を顰めた。しかしそんなことは気にせず、ベッドに座り気の抜けた表情を浮かべるに視線を向ける。彼女の目が開いていることに心底安堵し、俺は開けたドアを閉めることなく大股で歩み寄った。


…お、ま、え、なあ!」
「五条、やめろ」


 どこか焦った様子で俺を引き止めようとする硝子には目もくれず、の真横に立って彼女を見下ろす。は何も言わず俺を見つめるばかりで、頭に巻かれた包帯や顔に残った傷跡を見ていたら、その痛々しい姿に慨嘆も何もかも引っ込んでしまった。身を屈めて彼女を抱き締めると、腕の中の小さな身体が緊張からか強ばるのを感じる。


「あっさりやられてんじゃねえよ、…誰が今まで手合わせに付き合ってやったと思ってんだよ」
「…え、」
「あの映画も今日返却だぞ、次借りるときはお前が金払えよ」
「…五条、離せ」


 後ろから、硝子が俺の肩を掴む。何だよ、と言い返そうとしてすぐに理解した。頭の中に、俺が触れようとすると楯を突くように「学校でこういうことはしない」という約束を突き付けてくるの顔が浮かぶ。きっと急に抱き締めたから、また顔を赤くして怒ったようにその約束を口にするのだろう。でもこれは、この俺を心配させた罰だ。そう思いながらわざと離さずにいたら、「五条…さん、ですよね」というのくぐもった声が聞こえた。返事をするために喉から出てこようとしていた言葉が、そのまま喉の辺りで引っかかる。

 の背中から手を離し、ゆっくり身体を引き離す。俺の目に飛び込んできたのは、想像していたようないつもの照れた顔ではなく、青白い顔で戸惑いの表情を浮かべるだった。


『五条先輩』


 少ない後輩たちの中で、唯一俺を『先輩』と呼ぶ。彼女のはにかんだ顔を思い出した瞬間、あの日胸騒ぎを感じたときから、ずっと俺の足下で燻っていた何かが一気に燃え上がり崩れ落ちる、そんな気がした。


「…何、言ってんだよ」


 ──五条『さん』って、なんだよ。

 右肩にぐっと力が込められ、硝子がずっと俺の肩を掴んでいたことにようやく気付く。目の前にいる、よく知っているはずのは俺の知らない不安気な顔で、ただただ俺と硝子へ交互に視線を送るだけだった。


(2022.05.29)