06.君の指先に宿る記憶


 ポケットに手を突っ込んだまま早足で廊下を進めば、すれ違う補助監督たちが気まずそうに顔を伏せて道を開ける。それでも苛立ちを隠す気なんて毛頭ない俺は、辿り着いた一年の教室のドアを勢いよく足で開けた。

 しかしそこに探している人物の姿はなく、いたのは眼鏡をかけた地味な男一人だけ。ソイツは席に着いたまま俺の姿を見て「ひっ!」と悲鳴を上げた。確か、名前は──。


「…伊地知、アイツは?」
「あ、ええと、さんなら急な任務が入ったようで…」


 おどおどしながら答える伊地知の前で舌打ちをすれば、伊地知はさらに脅え背筋を伸ばして身体を硬直させた。別に、コイツにキレたところで何の意味もない。いくら今日手合わせの約束をしていたからと言って、任務が入ってしまったのならば急に来れなくなっても仕方ないだろう。

 行き場のない苛立ちを誤魔化すようにポケットの中で手を動かせば、中に入っている小さな紙袋がかさりと音を立てた。同時に、教室の出入口に視線を向けた伊地知が「あっ」と声を上げる。振り向くと、そこには走って来たのか息を切らしたが壁に手をついて立っていた。


「す、すみません、今朝急に、任務が入ってしまって…急いだ、んですけど」


 呼吸を整えながらそう説明するの額にはうっすら汗が滲んでいて前髪がはりついており、無意識に手が彼女の額に伸びた。しかし触れる直前で我に返った俺は、そのままの額に一発デコピンを入れる。は驚いたように両手で額を押さえた。


「お前なあ、それならそうと連絡入れろよ。出張から戻ってきたばっかでこっちも疲れてんのによ」
「すみません…でも私、五条先輩の連絡先知らないですし」
「はあ?」


 ──確かに、そう言われれば俺もコイツの連絡先知らねえな。俺は携帯を取り出しながら、にも同じく携帯を出すよう要求する。そしてがポケットから出した携帯をひったくると、赤外線で互いの携帯に互いの連絡先を登録した。携帯を投げて返すと、は冷静にキャッチする。そして彼女はぺこりと頭を下げた。


「じゃあ、今から授業なので…今日は本当にすみませんでした」
「は?」
「はい?」


 俺の反応に、は困惑した表情を浮かべる。さらに俺が彼女の二の腕を掴んで歩き出したものだから、より一層慌てた声で俺を呼んだ。


「あの、五条先輩?」
「…いつも手合わせ付き合ってやってんだから、たまには俺に付き合えよ」
「でも、授業が」


 俺に引きずられながら抵抗を示すだったが、教室を出る直前にずっとその光景を目の当たりにしていた伊地知が「先生には上手く言っておきます」と言ったおかげで、ようやく大人しくなった。

 校舎を出て、いつも手合わせをするグラウンドの横を通り過ぎいくつもある鳥居をくぐっていく。途中、から「どこに行くんですか?」と尋ねられたが、ほぼ勢いで連れ出してしまっただけなので適当に「コンビニ」と答えた。一番近いコンビニでも徒歩だとまあまあ時間がかかるのだが、は何の文句も言わずに俺の後に続いた。

 あちこちで蝉がうるさく鳴き続ける中、縦に並んで進んでいく。しばらくして立ち止まり振り返ると、もぴたりと立ち止まった。


「…なんで後ろ歩くんだよ」
「車が来たら危ないので」
「こんな山の麓、滅多に車なんて走らねえよ。隣歩け、隣」


 は少し迷っている様子だったが、背後に立たれるのは好きじゃないと言えば納得したのか、一歩進んで俺の隣に並んだ。普通に歩くと自然とが小走りになるので、スピードを落として歩く。よくよく考えてみればこうやって二人で並んで外を歩くのは初めてのことで、そもそも会うのが久しぶりだからか『こんなに小さかったっけ』と不思議な気持ちになる。

 しばらくして到着したコンビニに入店すると、心地よい冷気が全身を覆う。思わず安堵の声を漏らせば、も店内の涼しさに少しだけほっとした表情を見せていた。


「アイス食おーぜ」
「あ、私お金待ってきてなくて」
「いいよそんなん、俺が払うし」


 二人で並んでアイスケースを覗き込む。いろいろあるけど、今はバニラの気分だな。そう思ってバニラの棒アイスを手に取れば、はその隣に並んでいた同じアイスのイチゴ味を手に取った。

 コンビニを出ると、また茹だるような暑さに襲われる。地面にゆらりと陽炎が立つのを眺めながら、俺とはコンビニ前の日陰になる場所でアイスを齧った。


「つーかさあ、前から思ってたんだけど」
「はい」
「何でそんなに強くなりてーの?」


 初めて会ったとき、なぜ手合わせをしたいのか聞いたらは「強くなりたいから」と言っていた。高専に通う学生なのだからそう思うのは当然だろうが、だからと言ってこの俺にわざわざ挑むだなんて今更だが正気の沙汰とは思えない。はアイスを片手に目を伏せたまま、「私、兄がいたんですけど」と話し始めた。

 死んでしまったの兄のこと、に跡を継ぐことを強く求める両親と反りが合わないこと、そして自身はそこまで跡継ぎに興味がないこと。は淡々と、特に何の感情も抱いていない様子で全てを話してくれた。


「…まあ、せっかく相伝の術式を持って生まれたんだから、たくさん人を助けて、家の誰も私に文句言えないくらい強くなって好き勝手してやろうと思って」


 てっきり真面目なのことだから、家を守るために強くなりたいんだろうと勝手に想像していた俺は、彼女の言葉に呆気に取られる。そこでの持っていたアイスが溶け始め、は慌ててそれを口に含んだ。ちらりと覗いたの赤い舌になぜか動揺してしまい、目を逸らして持っていたゴミをコンビニ前のゴミ箱に突っ込んだ。


「なんで俺だったんだよ、手合わせ付き合ってくれるヤツなんて他にもいただろ」


 アイスを食べ終えて、再び二人で高専までの道のりを歩いていく。冷たいものを食べたからか、行きよりも幾分か暑さが和らいだように感じる。俺の質問に対し、はまだ話が続いていたのか、という顔をしたあと、至極当然とでも言うようにこう言った。


「強くなるためには、一番強い人に相手してもらうのが近道だと思って」
「…あっそ」


 実際、『一番強い』という自覚は正直ある。でもそれをに直接言われたことで、なぜか少し浮かれている自分がいた。不意にと初めて会った日のことを思い出してくつくつと笑う。


「最初、俺のことが大大大好きなファンかと思ったけどな」
「……ファンじゃ、ないです」


 ──いやお前、俺のことが大大大好きって部分は否定しないのかよ。そう言おうとして隣を歩くの顔を見た瞬間、俺はその言葉を呑んだ。口を固く閉じたの頬や耳はうっすらと赤く染まっており、彼女が恥ずかしいときや照れているときにこういう表情を見せることは今までの付き合いで何となく気付いていた。そして俺自身、のこの表情を可愛いと思っていることにも。

 じりじりと照りつける太陽のせい。そう言われたら、そうだと納得せざるを得ないだろう。でも。

 ふと、ポケットの中の紙袋のことを思い出して取り出す。そしてそれをそのままの目の前に差し出した。突然だったからか、は一瞬だけびくりと肩を揺らしたあと、俺を見上げる。


「これは?」
「土産、出張の」
「え」
「やるよ」


 の顔に紙袋を近付ければ、彼女はそれを受け取って小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。は歩きながら、袋をとめているテープを剥がす。

 今回の出張先は田舎だったので、街に土産店なんてないしそもそも何か名物があるような土地でもなかった。これは、宿泊先のホテルの一階に申し訳程度に置かれていた土産物の中から選んだものだ。

 は袋の中から出てきた携帯のストラップを、目の前に掲げてしげしげと眺める。ストラップの先では可愛くも何ともないご当地キャラのマスコットが小さく揺れていた。


「そのマスコット、全っ然可愛く」
「可愛い」
「…は?」


 の言葉に耳を疑う。しかしは驚いている俺を気にすることなく、自分のポケットから携帯を取り出してストラップを取り付け始めた。しかし穴が小さく歩きながらだと上手くいかないのか、その場に立ち止まり携帯とストラップに顔を近づけ、しばらく格闘してなんとか取り付けることができたようだ。半分ネタで買ってきたようなものだったので、まさか本当に携帯につけると思っていなかった俺に向かっては携帯を掲げた。

 揺れるストラップの奥で、が優しく微笑む。


「大切にします」


 基本的に無表情なことが多いだが、今までに何度か笑った顔を見たことがある。でもが笑うのは、大体硝子と二人で会話をしているときだけだった。俺に対しては、たまにさっきみたいに照れたような顔を見せることはあるものの、大体はいつも無表情で何考えてんだかよく分からない顔をしている。それなのに急にそんな顔を向けてくるのは、さすがに反則だろう。気が付けば、俺はの携帯を持っていない方の指先を掴んでいた。

 ずっとじわじわと鳴き続けている蝉の声が、なぜか今になって頭に大きく響いてくる。は何も言わず、黙って俺を見つめていた。指先だけを繋いだまま歩き出すと、はそのまま俺の斜め後ろをついてくる。

 触れたのは、無意識。でもきちんと手を握らなかったのは、もちろん暑いからというのもあるが、振り払われたら少なからず動揺してしまうと分かっていたから。

 歩きながら、俺は口を開いた。


「…どうせ強くなるんなら」
「…はい」


 斜め後ろから返事が聞こえて、少しだけ安心する。


「…すっげー強くなって、すっげー強い五条家の跡取りと結婚したら、もう敵無しじゃね?」


 今だったら、全部この暑さのせいにできる。俺の行動も発言も、何もかも全部。漠然とした言い訳を考えていたら、触れていたの指先が動き、僅かに俺の指をきゅっと握り返した。互いの指先だけが、しっかりと力強く繋がり合う。


「…それも、悪くないですね」


 俺はにバレないように、深く息を吸って静かに全部吐き出した。──もう認めるしかねえな、俺コイツのことめちゃくちゃ好きだわ。の歩調に合わせる振りをして、なるべく長く二人きりでいられるよう俺はさらにスピードを落とす。後ろでがどんな顔をしているのか、頭の中で想像しながら。


(2022.05.24)