05.変わった一年の後輩
無愛想な女。それが、に抱いた第一印象だった。
「あの…五条悟さんですよね、五条家の」
「あ?」
四月、桜も見頃を終えてほとんどが散ってしまった頃。いつも通り任務やその他諸々の処理を終え、傑や硝子を探しながら校内を彷徨いていたとき、後ろから声をかけられて振り返った。そこにいたのは、高専の制服を着て片手にでかい和弓を持つ女。俺は、無表情でじっとこちらを見つめているそいつの頭のてっぺんからつま先までをじろりと眺めた。──誰だよ、こいつ。
「お前、誰?」
「一年のです」
「一年…あぁ、」
日々の任務に忙殺されていて忘れていたが、世の中はもう新入学の時期だったのか。…なるほど、そういうことね。俺は頭をがしがしと掻きながらため息を吐き、女に向かって片手を差し出した。ったく、有名人も楽じゃねえな。
しかし女は、俺の差し出した手を見つめるばかりで何のアクションも起こそうとしない。無駄に流れていく時間に、俺は苛ついて舌打ちを飛ばした。
「何?サインの方が良かった?」
「は、サイン…?」
「…お前、俺のファンじゃねえの」
「違います」
澱みなくきっぱりと否定され、女に向かって手を差し出していることが恥ずかしくなった俺は「はあ?」と少し声を荒らげる。仕方なく行き場を失った手を下ろせば、女は相変わらずニコリともせずに「手合わせ、お願いしたいんですけど」と言った。
「…手合わせだあ?」
そう聞き返すと、女はこくりと頷く。いや、何で俺がそんなこと…。そこでふと、女が持っている和弓に弦が張られていないことに気付き、改めてもう一度女の姿をよく眺めた。…聞いたことはないが、恐らく呪術師の家系だろう。そこらへんの並の術師より呪力量は多め、術式は正統派…年寄りどもが好きそうな感じだな。
どうして手合わせをしたいのか尋ねれば、一言「強くなりたいので」と返される。しばらくの間どうするべきか悩んだあと、俺はくるりと踵を返した。ひらひらと手を振れば、女が俺の背中に向かって「あの」と声をかける。
「また今度な」
「なぜですか」
「硝子がいるときがいいだろ、あ、硝子ってのは他人に反転術式使えるヤツな」
俺の言いたいことが分かったのだろう。鼻で笑ってちらりと後ろを振り返れば、女は眉を寄せて俺を睨みつけていた。
──ようやく感情を表に出したな。俺を追いかけてくる気配はなく、大股で廊下を進みながら気色ばんでいた女のことを思い返す。無表情だと多少は大人びて見えたものの、怒りを隠せていないその顔は年相応で、まだまだ中学を卒業したてのガキにしか見えなかった。
「…で?その中学を卒業したてのガキに対して、普通ここまでやるか?」
「ケガしてもいいって言ったのはコイツだし」
場所は寮の談話室。俺がご丁寧に担いで運んできてやったのそばへ腰を下ろした硝子は、俺の言葉を聞いて呆れたように「クズだな」と吐き捨てた。
後日、再び俺のところへやってきたの要望通り、手合わせに付き合ってやった。本人は生意気にも手を抜かないで欲しいと言っていたが、いくら術式無しとは言え俺が手を抜かなかったら多分、って言うか確実に死ぬ。かと言ってあからさまに手を抜くとそれはそれで怒って面倒くさそうだと思った俺は、とりあえず普段七海や灰原を相手にするときと同等の力を意識して手合わせを行った。まあ結果的に持ち堪えた方だとは思うが、が力尽き動けなくなってしまったのでわざわざここまで運んできてやった、というわけだ。
ソファーに横になるへ視線を落とす。それなりの時間やったので本人は眉間に皺を寄せ、辛そうな表情を浮かべて苦しそうな呼吸を繰り返している。すると、そばにしゃがんでいた硝子が視線だけを俺に向けた。
「とりあえず、出てけよ」
「は?」
「一応、服脱がすから」
そう言われて、仕方なく出口へと向かう。が、途中で俺は振り返り、ずかずかと歩いて行きが寝ているソファーの真横に立って彼女を見下ろした。の虚ろな視線が揺れて、ゆっくりと俺の姿を捉える。
「お前、もっと近接鍛えた方がいいぞ。術式的に遠距離からの戦いには慣れてるかもしんねえけど、それに頼ってばっかじゃそのうち死ぬからな」
の顔に向かって人差し指を突き付け、「基礎からやり直せ、もっと足の使い方を学びな」と伝えると、俺は再び出口へ向かって歩き出した。部屋を出ていく直前、硝子が「五条」と俺を呼び止めたので、ドアノブを掴んだまま振り返る。なんだよ、説教かよ。
「何?」
「『ありがとうございました』だって」
硝子は顰めっ面でそう言うと、もう用はないと言わんばかりに俺に向かってしっしっと手を振った。返事をせず、そのまま部屋を出てドアを閉める。
「…マゾかよ」
ドアの前に立ったままぽつりとそう呟くと、自然と笑みが零れた。変な一年が入ってきやがったな。
俺との手合わせはそれっきりで終わることなく、その後も続いていった。俺もも任務があるため頻繁にではないが、少なくとも週に一回、基本的に硝子がいるときに行っている。タイミングが合えば、硝子だけでなく傑が見学に来ることもあった。
最初は面倒に感じていた手合わせだったが、思いのほかの成長が著しいこと、また俺が指摘した部分を改善しようという意志を感じられる──実際に改善されてきている──ことから、ちょっとした育成ゲームをやっているような気がして少しずつ面白くなってきていたある日のこと。
「まあまあ強くなってきたんじゃねえの、最初の頃よりかは」
「えっ!」
何気なく本心を口にしたら、普段物静かなが驚いた声を上げたので、逆に俺の方が驚いてしまった。隣に立つを見下ろせば、本人は首からかけたタオルで汗を拭く手を止めて、瞬きもせずに俺をまじまじと見つめている。
「…それって、褒めてるんでしょうか」
「まあそう、だけど…なんだよ、褒めたら悪いのかよ」
「いえ、あの、すみません…褒められ慣れてなくて」
ぼそぼそと徐々に声を萎ませながらそう呟いたは、最後にもう一度「すみません」と言うとタオルで口元を押さえて、ふいっと顔を背けてしまった。今までに見たことのない反応に身を屈めて顔を覗き込もうとすれば、は必死に抵抗して俺に背を向けようとする。
「おいなんだよ、照れてんの?」
「照れてません」
「じゃあ顔隠さなくたっていいだろ、ほら」
「ちょ、ちょっと…!」
俺に顔を見られることを頑なに拒みながら、顔の目の前で腕をクロスさせる。しばらく攻防戦を繰り広げたあと、俺はの両方の手首を掴んで無理矢理開かせた。するとそこには、口をぎゅっと真一文字に結び、顔や耳を赤く染めて必死に頬が緩むのを堪えているの顔があった。
視線を彷徨わせていたは、俺が何も言わずに手首を掴んだままでいることに疑問を抱いたのか、恐る恐る俺を見上げる。
「あの…」
「…かわ」
「オイ、何やってんだよ」
「いって!」
いきなり両膝裏に訪れた衝撃に情けない悲鳴を上げて勢いよく振り返ると、俺に蹴りを入れた硝子が煙草を吸いながら立っていた。そして俺に軽蔑の眼差しを向けながら、「変な気起こしてんじゃねーよ、昼間っから」とアホみたいなことを言う。俺は咄嗟にの両腕を解放した。
「バカかよ、こんなガキ相手に変な気なんて起こすわけねえだろ、こんな……」
隣からの視線を感じつつも、彼女の方を見ることなくぼそりと「可愛げのないやつ」と呟く。するとはすぐに「私もお断りです、五条先輩みたいなひねくれてる人」と返してきた。その表情や顔色は普段通りのものに戻っていて、僅かに上を向いたの睫毛を睨みながら、さっき一瞬だけでも……可愛いと思ってしまったのは気のせいだと思うことにした。
硝子は俺を横目でちらりと見たあと、白い煙を吐き出しながらの周りを一周し、彼女を上から下まで眺める。
「、今日はどこもケガしてなさそうじゃん、残念」
「すみません、硝子先輩の練習台になれなくて」
「いーってことよ」
二人の会話を聞き、コイツらいつの間に下の名前で呼び合うようになったんだよ、と思いながら携帯を取り出す。少し前に任務を終え、既に戻って来ているはずの傑に「今からと手合わせするけど、来る?」と送ったメールの返信は何も来ていなかった。──アイツ、最近付き合い悪いな。携帯を閉じて、顔を上げる。と硝子は何やら楽しそうに会話を繰り広げていた。
「オイ、」
──間違えた。硝子につられて、つい下の名前で呼んでしまった。呼ばれた本人は両手でタオルを握りしめたまま、少しだけ驚いたように目を丸くして俺のことを見つめている。お前、そんな顔もできるのかよ…かわ……
「っだあああ!」
「え?」
「うるさ」
俺は携帯をポケットに突っ込んだあと、「再来週の月曜」とに向かって呟いた。
「俺、来週出張入ってっから次は再来週の月曜、いつもと同じ時間で同じ場所な」
のことを間違えて下の名前で呼んでしまったことも、またもや一瞬だけだが可愛いと思ってしまったことも、全部無かったことにするように早口でそう告げる。これ以上余計な感情を抱かぬように視線を向けないようにしていたら、「分かりました」という素っ気ない言葉が返ってきた。
「じゃあ私、次座学なので…ありがとうございました」
「…おー」
「またね」
に向かって手を振る硝子の隣で、俺はようやく彼女に視線を向けた。俺よりずっと小さい背中が遠ざかっているのを見送っていたら、俺の視界に背伸びをした硝子が侵入してくる。
「…んだよ」
「だっせ」
にやりとほくそ笑みながらバカにしてくる硝子に対し、今年初めて蝉が鳴く声を聞きながら「うるせえ」と口を尖らせる。硝子の奥へ視線を戻せば、もうの姿は見えなかった。
(2022.5.20)