04.わたしの兄のはなし


「疲れた…」


 今日は久しぶりの休日。それなのに、私の身体には重めの任務をはしごしてきたときと同じくらいの疲労が蓄積していた。その原因は、私の実家である。

 私の実家は、それなりに歴史のある名の知れた神社だ。本来ならば私の兄が跡を継ぐはずだったのだが、兄は呪術師になることも神職に就くこともなく家を出て行ってしまい、十五年前に亡くなった。そのため、現在は私が跡継ぎということになっている。しかし現時点で私は跡を継いでおらず、それについて日頃から両親に口うるさく言われていた。確かに両親からしてみたら、高専を卒業後、父のように呪術師をやりながら神職に就くと思っていた一人娘が家に戻らず高専の教員をやっているのだから、納得がいかないのもまあ分からないでもない。

 元々、『呪術師にならないから』という理由で兄を冷遇していた両親とは隔たりがあったが、連絡が来たと思ったら『いつ教員を辞めて戻ってくるのか』『跡継ぎとしての役目を果たせ』という内容ばかりで、自然とどんどん疎遠になっていった。しかし、今日のように兄の命日には必ずお参りに行くようにしている。

 我が家は仏教ではなく神道であるため、「死は穢れ」とされている。そのため神社の敷地内に墓が建立されることはない。我が家の墓は、うちの神社が運営している神道専門の霊園に建立されており、兄はそこの納骨堂に眠っている。毎年、命日にはお参りだけ済ませてさっさと帰るのだが、今回は私が霊園に来ることを予測していたらしい両親から事前にわざわざ連絡が来たのだ。「話があるから家に立ち寄るように」と。

 一度両親からの連絡を無視したら高専に連絡がいってしまったことがあったので、私は渋々実家へと向かった。大体予想はしていたが、両親の『話』というのは大半が私の見合いについての話であり、我が両親ながら圧が半端なくてドン引きしてしまった。

 のらりくらり両親を躱して解放されたのが昼過ぎ。帰りに少しだけ買い物をして、高専の最寄りのバス停に到着した頃にはもう日が傾き始めていた。高専までの長い道のりを歩いていたら、後ろからやってきた一台の車がスピードを落とし私の隣にゆっくり停車する。


さん?」


 声のした方に顔を向けると、停まった車の助手席側の窓が開いており運転席に座っていた補助監督の新田さんが笑顔を見せた。


「お疲れ様っス!」
「新田さん、お疲れさま。今帰り?」
「京都から来てた術師の方々を駅まで送ってきた帰りっス!さん、高専まで行くんなら乗せるっスよ!」
「ありがとう、助かる」


 新田さんの厚意に甘えて助手席に乗り込む。普段乗り慣れている車だからか、ようやく心から落ち着くことができた。あまりにも疲れた表情を浮かべる私を横目に見た新田さんが苦笑いを零す。


「せっかくのオフなのに、だいぶお疲れっスね〜」
「まあね…実家に呼び出されちゃってさ」
さんの実家って、確か大きい神社だったっスよね?」
「そう…私一人娘だから、今すぐ跡継いで見合いして早く子どもを産めってとにかくうるさくてさ…まあ確かにもう若くはないけど」
「…あれ?さんって、五条さんとお付き合いされてるんスよね?」


 …いつ何がどうなってそんなことになっているんだ。問いかけに対し黙り込んでしまった私が険しい顔をしていることに気付いた新田さんが、慌てたようにハンドルを握りしめ「違うんスか!?」と声を上げる。私は座席の背もたれに深く身体を預けて、大きなため息をついた。もう深く掘り下げるのも面倒だ。


「違うよ…」
「ご、五条さんがよくさんのことを『僕の奥さん』って言ってるんで、てっきりそういう関係なのかと…ひょっとして五条さんが勝手に言ってるだけっスか?」
「勝手に言ってるだけだよ…正直、五条さんが何を考えてるのか、本心が私にはさっぱり分からないんだよね」


 ぽつりと漏らした本音に、車内が静まり返る。五条さんに関しては、私に対する態度をはじめ昇級の話をはぐらかしてばかりいることなど、理由が分からないことだらけだ。一体あの人は私をどうしたいんだろう。私に、どうしてほしいんだろう。

 それから十分も経たないうちに高専の敷地内に到着し、車が停車する。新田さんにお礼を言って別れたあと、私はそのまま自室へと向かった。

 高専を卒業してからもずっと、私は寮の一室を借りて暮らしている。一学年先輩の七海さんはこのことに対し、「仕事とプライベートの区別がつきにくいのでは」と言いながら理解できないといった表情を浮かべていたが、慣れればなんてことはないし、むしろこっちの方がいろいろと都合が良かった。

 とりあえず、荷物を置いたら夕飯の前にシャワーを浴びたい。そう思いながら部屋の前に辿り着いた瞬間、私はぴたりと立ち止まった。そっとドアノブに触れると、朝部屋を出るときにかけたはずの鍵が開いている。些か緊張しながら音を立てないようドアノブを回して室内に入ると、部屋の奥に置いてあるシングルベッドから二本の長い脚が飛び出していた。


「な、なんで…」


 その脚を目にした時点で寝ているのが誰なのかは分かったものの、この状況については全くもって理解できない。私、ちゃんと鍵かけて出たよね?なんでこの人、こんなところで堂々と寝てるの?外したアイマスクを枕元に置いて美しい寝顔を惜しげもなく披露している五条さんを見下ろしながら、私は愕然とした。

 私が次の行動をとる前に気配を察知したらしい五条さんの瞼が開かれ、ぼんやりとどこか潤んだ瞳が私の姿を捉える。


「…だ」
「なぜここにいるんでしょうか、五条さん?」


 冷たく突き放すように質問を飛ばす。しかし五条さんはそれには答えず、両手をあげて背伸びをしながら欠伸をひとつすると「よく寝た〜」と寝惚けた声で呟いた。


「よく寝た〜じゃないですよ!どうやって部屋に入ったんですか?」
「ほら、僕、五条悟じゃん?」
「いや、意味分かんないです」
「それより実家どうだった?今日確かお兄さんの命日だったよね」
「話をはぐらかさな…」


 ふと違和感を感じて言葉に詰まる。五条さんに実家に帰る話はしたけれど、兄の命日のことは伝えた覚えがない。何なら、私に兄がいたということも。持っていた荷物をベッドのそばに下ろしていた私は、ぱっと顔を上げて五条さんへ視線を向けた。五条さんはまだ少し眠いのか、ベッドに寝そべったまま両手で頬杖をつきウトウトしている。


「…なんで知っ」
「あれ?それ…」


 私が口を開くと同時に、五条さんが私の足元を指さした。視線を落とすと、今しがた私が置いたバッグと実家近くの和菓子屋で買ったフルーツ大福の袋がある。


「僕が好きなの知ってて買ってきてくれたの?」
「…五条さんが頼んだんじゃないですか、実家帰るなら買ってきてって」
「…そういえば頼んだ気がする〜」


 ふにゃふにゃと笑いながら再びベッドに沈み込む五条さんの姿に、開いた口が塞がらない。この寝坊助め、自分が頼んだくせに忘れるだなんて。私はぽつりと、五条さんに聞こえるか聞こえないかくらいの声で文句を呟いた。


「忘れないでくださいよ…」


 大福のことは一旦置いておくとして、やはりいくら職場の先輩・後輩の仲とはいえ女性の部屋に無断で侵入するなんて明らかにおかしい。というか、この人今日普通に仕事だよね?任務は入っていなかったのだろうか。上着を脱ごうと襟に手をかけようとしたとき、すごい速さで伸びてきた五条さんの手が私の手を掴んだ。いきなりのことに驚いていたら、そのまま指がするりと絡んで頭の中で何かがぱちん、と弾ける。


「す…強く…て…」


 脳内に突如流れてきた、断片的な誰かの言葉。

 ──なに、今の。

 一瞬だけ思考が停止したが、指先をぎゅっと強く握られて我に返る。ゆっくり考える暇もなく、五条さんがいつもよりもずっと低い声で


「こっちのセリフなんだけど」


と呟き、そのまま私の手を強く引いた。


「え……んむっ!」


 咄嗟のことで力が入らず、そのまま上半身だけベッドで寝ている五条さんの身体の上に倒れ込み、勢いよく唇が重なった。がちん、と唇越しにお互いの歯が当たり、口全体にびりびりと痺れるほどの激痛が走る。


「いっだ…!」
「…
「…ちょ、ちょっ五条さんっ」


 今までに経験したことがないほどの至近距離で視線がぶつかり、五条さんが再び唇を合わせてこようとしていることに気付いた私は、必死に掴まれていない方の手で五条さんの額を押し返した。狼狽えながら「お、お、落ち着いてください」と言ってみたものの、実際にはそう言う私より五条さんの方がずっと冷静で落ち着いているように見える。つい先程まで眠たそうに目をとろんとさせていたくせに、今は恐ろしいほど冷ややかな眼差しをこちらに向ける五条さんに背筋が凍る思いがする。結局、五条さんの額を押していた手も焦った言葉しか出てこない唇も舌も、いとも簡単に奪われてしまった。

 なんで急に、こんなこと。思考が追いつかないまま、口の中に広がる血の味に眉を寄せる。今飲み込んだのがどちらの唾液なのか、血なのか、全く分からない。何とかして身体や頭を後ろに引こうとしても、両手を掴まれていて思うように動けないまま時間だけが過ぎていく。

 しばらくして、五条さんの唇は糸を引いて離れていった。それでもやはり頭の中はぐちゃぐちゃで、恥ずかしさとか怒りとか、自分がどんな感情を抱いているのかさえ分からない。それと同じく今、五条さんを非難するべきなのか、どうしてこんなことをしたのか理由を問い質すべきなのか、何を言うべきかも全く分からなくて、私はただ五条さんを見つめることしかできなかった。

 ぼやけていた視界が、ようやくはっきりとしてくる。そのおかげで、すぐそばにある五条さんの表情が今までに見たことないくらい歪んでいることに気付いた。なんで貴方が、そんな顔してるんですか──。そう問いかける前に、僅かに赤く染まっている唇が開いて紡がれた言葉が、さらに私を混乱させる。


「お前、いつまで──」


 それは一体どういう意味ですか、五条さん。


(2022.05.15)