3.身に覚えのない訓練


「先生ってさ、ジャックラッセルテリアっぽいよね」


 教室で虎杖くんの書いた報告書をチェックしていたら、何の前置きもなくそんなことを言われて目線だけを上げる。虎杖くんは自席に座ったままスマホに視線を落とし、所在なく足をぶらぶらと揺らしていた。今日、伏黒くんと釘崎さんは二人で任務に出ている。


「何?ジャックオーランタン?」
「ジャックラッセルテリア!」


 虎杖くんはもう一度謎の言葉を吐いて、持っていたスマホ画面を私に向けた。そこには耳と目元が茶色い小型犬が映っていて、頭の中に浮かんでいた橙色のかぼちゃが消えていく。どうやらジャックラッセルテリアとは、犬種のことらしい。

 しかし犬っぽいと言われて、どう反応していいかが分からない。複雑な表情を浮かべる私を気にすることなく、虎杖くんは「この前、テレビの動物番組で紹介されててさ」と話を続ける。


「小さいけど、すんごい活発で勇敢なんだって!」
「あ、ありがとう…?」


 これは褒められているのだろうか。確かに虎杖くんより身長は低いけれど…。とりあえず本人に悪気はなさそうなのでお礼を述べると、急に後ろから現れた人物が私の肩にがっしりと腕を回してきたので、驚きのあまり声を上げる。こんなことをするのは、一人しかいない。


「五条さん!」
「なになに〜?楽しい話?僕も混ぜてよ」


 五条さんはたまにこうやって気配を消して現れて私を驚かせることがあり、その度にやめてほしいと伝えるのだがなかなか聞き入れてもらえない。私の顔の真横にある五条さんの顔に非難の目を向けるが、五条さんは虎杖くんからジャックラッセルテリアの説明を聞いていて私には見向きもしなかった。


「ん〜、僕的にはチワワかなあ…小さくてキャンキャン泣き喚く感じがさ」
「明らかに褒めてないですよね、それ」
「やだな、可愛いってことだよ」
「嬉しくないんですけど…それなら虎杖くんの言ってくれた犬の方が、」
「あとさあとさ!このジャックラッセルテリア、」


 私と五条さん、ほぼ同時に虎杖くんに目を向ける。虎杖くんは目を輝かせ、にかっと笑ってこう言った。


「頑固で負けず嫌いで、思い込んだら一直線らしいよ!先生ぽくね?」



「絶っっっ対バカにされてますよね…どう思います?家入さん」


 医務室で私の愚痴を聞いていた家入さんは、話を聞いてスマホで調べたのかジャックラッセルテリアの画像を見ながら密やかに微笑んでいる。


「可愛いじゃん」
「そういう問題じゃないです…」
「ちなみに、それ聞いて五条は何て?」
「別に何も…ただの笑い袋になってました」
「クズだな」


 家入さんは容赦なくそう吐き捨てると、部屋の隅に置いてあるコーヒーメーカーの前に立ちマグカップにコーヒーを注ぎ始めた。部屋の中にいい香りが漂い、高専の医務室ではなくお洒落なカフェにでもいるような気分になる。テーブルに突っ伏していた私は顔を上げて肘をつき、ため息をついた。


「…彼らから、教師と思われていない気がして仕方なくて」


 ──そもそも私って頑固で負けず嫌いで、思い込んだら一直線な人間なのだろうか?自分では全くそう思わないため、虎杖くんの発言に違和感を抱いてしまう。

 ふと、頭の中に『ジョハリの窓』が浮かんだ。『自分が知っている自分』『他人が知っている自分』など、自分の性格や特徴を四つの窓に分類して自己分析を図るものだ。今度生徒たち三人が揃ったときに、授業の一環としてやってみようか…。つらつらと考えを巡らせていたら、家入さんが私の目の前にコーヒーの入ったマグカップを置いた。ことん、という音で我に返った私は、彼女に笑顔を向ける。


「すみません、ありがとうございます」
「まあ、教師と生徒と言ったってここは普通の学校じゃないからな。生徒たちと仲良くできているならいいじゃないか」
「それはそうなんですけど…でもやっぱり私、ちゃんとした教師になりたいと言うか」
「相変わらず真面目だな」
「…そのためにも、一級に上がりたいんですよね」


 私の等級は準一級。もし一級に昇級すれば、もっと生徒たちにとって頼りになる存在になれるかもしれない。任務の幅も広がるし、多分五条さんのサポートだって──。そこまで考えたところで顔を上げると、コーヒーから立ち昇る湯気の中で静かにこちらを見つめている家入さんと視線が重なった。その視線に込められた彼女の気持ちが伝わってくるような気がして、私は苦笑いを返す。


「もう、十年ですよ」


 今まで一度だって忘れたことはないし、きっとこれからも忘れることはない。私が準一級に昇級し、その後の単独での一級任務に失敗して生死の境を彷徨ったあの日から十年が経った。胸からみぞおちにかけてそのとき受けた火傷の傷跡が残ってはいるものの、当時三年生だった家入さんが尽力してくれたおかげで、私は大きな後遺症も残らずに呪術師を続けることができている。十年という歳月を改めて口にすると、『もうそんなに経ったのか』と思うと同時に、細かいところまで全部昨日のことのように思い出せるあたり、本当の意味で傷は癒えていないのかもしれない、とも思う。

 呪術師として現場に出ていると、それなりに危険な目に遭うことは多い。でも、あのときほど『自分の死』というのを身近に感じたことはない。

 一度昇級のための任務に失敗したからと言って、昇級のチャンスがなくなることはないと聞いている。しかしこの十年間、私が一級相当の任務に当たることはなく、結局今でも準一級のままだ。以前、私に一級相当の任務が回ってこないことを不思議に思い、それとなく伊地知に聞いてみたが、


「私の口からは…く、詳しいことは五条さんに聞いてください」


 これが伊地知の答えである。彼に言われた通り五条さんに聞いてみたが、


「一級?まあそのうち上がるんじゃない?あ!そうだ、今度の休みに新宿にパフェ食べに行こうよパフェ、なんか期間限定で桃が丸ごと乗ったパフェが出てる店見つけてさあ、めちゃくちゃ美味しそうだな〜と思って、桃好き?」


 これが五条さんの答えである。


「生徒たちの成長を目の当たりにしてると焦っちゃうんですよね…私は学生時代から準一級のままで、進歩してないなって」
「若いうちは誰だって伸びしろがあるから、余計そう思うんだろ」


 家入さんはそう言うと、コーヒーを飲みながら私の隣に置いてある椅子に腰かけた。淹れてもらったコーヒーのマグカップに触れると、少しだけ冷えていた指先が徐々に解れていく。

 呪術師の実力は『才能が八割』とよく言う。例えば私は呪術師の家系だが、多くのエリート呪術師を輩出している御三家の人間に比べると劣っていることは火を見るより明らかだ。努力だけではどうにもならないことがあることは十分理解しているし、御三家に限らず私より年下で私以上の実力を持った呪術師もいる。──じゃあ、自分の実力はもう頭打ちなのだろうか。そう考えると、どうも悶々とした思いを抱いてしまう。

 あれこれ思念する私を気遣ってか、家入さんは足を組み替えながら「だって、学生時代の成長は著しかったぞ」と呟いた。


「そうですか?」
「ああ、五条のしごきのお陰かな」


 マグカップに口をつけたまま、彼女に視線を向ける。家入さんはマグカップを持っていない方の手で、テーブルに重ねて置かれたカルテの山を数えているようだった。一口だけコーヒーを啜り、遠い昔となった学生時代に想いを馳せる。


「五条さん…は忙しかったから、そんなに相手してもらった記憶ないですよ?」


 私の言葉に、カルテを見つめていた家入さんの瞳が揺らいでゆっくりとこちらに向けられた。茶色い瞳の下に、思わず心配してしまうほどくっきりと浮かぶ青い隈。家入さんは何度か瞬きをしたあと、ふいと視線を逸らし「そうか、そうだったな」と静かに呟いた。どこか遠くを見ているようでどこも見ていないような彼女に私が声をかけようとしたとき、がらりと医務室のドアが開く。


「お、いたいた」


 ひょこっと顔を覗かせた五条さんは、私を見つけるや否や口元を緩ませた。──絶対にジャックラッセルテリアのことを思い出している顔だ。にやにやと笑みを滲ませながら、「恵と野薔薇、戻ってきたよ」と告げる五条さんには返事をせず、私は立ち上がる。


「話聞いてくれてありがとうございました、あとコーヒーも」
「いや、気にするな。…
「はい?」


 家入さんは座ったまま、ドアの前に立つ五条さんを指さした。


「少なくともソイツよりはいい教師だから、自信持て」
「…ふ、ありがとうございます」
「あれ、なんかバカにされてる?」


 医務室を後にし、二人で教室までの道のりを歩く。早足で歩く私に対し、五条さんは大股でゆっくりと歩きながら家入さんと何の話をしていたのか、しつこく尋ねてきた。


「別に、女同士の話に興味なんてないでしょう」
「僕がのことに興味ないわけないでしょ」
「またそういうことを…」


 相変わらずの軽々しさに呆れ果てたところでぴたりと立ち止まると、私の一歩前で五条さんも足を止める。「ん?」と首を傾げる五条さんを真っすぐ見つめ、私は口を開いた。


「あの…そろそろ昇級のために、私を一級任務に当ててほしいんですけど」


 その場が水を打ったようにしん、となる。あのとき、伊地知は目を泳がせながら詳しいことは五条さんに聞くように、と言った。そして五条さんは飄々とした様子で、明らかに答えをはぐらかしていた。じゃあ今日は、どう出るか。

 もし、また変なことを言って誤魔化すようであれば──。

 固唾を呑んで、五条さんの反応を待つ。すると彼は神妙な面持ちで一つ息を吐いたあと、私の正面に立って静かにこちらを見下ろした。


「じゃあその前に…
「…なんでしょう」


 す、と差し出された五条さんの手。その掌にあのときのチョコレートは乗っておらず、しばらくして再び私は顔を上げる。するとそこには、満面の笑みを浮かべる五条さんがいた。


「お手!」


 もし、また変なことを言って誤魔化すようであれば──きっと五条さんは、私に何かを隠している。


(2022.05.12)