01.好きなチョコレート


「みんなに注意したいことがあります」


 朝、教室に入り挨拶もそこそこにそう告げた私に、着席していた一年生三人の視線が集中する。私の表情からただごとではないことを読み取ったのか、缶ジュースを飲んでいた虎杖くんが「どったの?先生」と少々不安気に首を傾げた。私は一つ息を吐き、一枚の報告書を三人に見えるように高く掲げる。今朝、職員室で授業の準備をしていた私の元へやってきた伊地知が、目の下に隈を浮かべ申し訳なさそうな顔をして渡してきたものだ。


「一昨日、みんなに行ってもらった任務の報告書…一番重要な『報告内容』の項目がイラストだらけで訳が分かりません」


 しん、と教室内に沈黙が流れる。私は構わず話を続けた。


「人が三人描かれてて、それはまあ…分かるんだけど、この馬?みたいなのはよく分からないし…何だろう、みんな任務じゃなくて牧場にでも行ったのかな?と先生は思いました。あと記入者のところも空欄で、」
「ひっでぇ先生!それ馬じゃなくて玉犬だよ、伏黒の!」
「…記入者は虎杖くんね」


 まあ、そうだろうとあらかた予想はしていたけども。私は本日二度目のため息を零すと、報告書を掲げたまま目頭を押さえた。別に、この馬のような謎の生物が伏黒くんの玉犬かそうでないかはさほど問題ではない。それを虎杖くんに分かってもらえるようにどこからどう説明すれば…。私が悩んでいる間に、ここまで黙って話を聞いていた釘崎さんと伏黒くんが報告書を指さしながら喋り始めた。


「虎杖、アンタまだ報告書手書きで提出してんの?データで出した方がずっと楽でしょ」
「だってよく分かんねーし、俺は手書きの方が楽なんだよなー」
「…それにしてもお前、絵下手すぎだろ」
「え、そう?俺的にはうまく描けたと思うんだけど」


 違う。私は報告書の提出方法や虎杖君の絵心の無さについて指摘したいのではない。問題は、報告書なのに何を報告したいのかが全く分からない、ということだ。顔を上げた私は、どこか古代の洞窟壁画を思わせるような絵が並んだ報告書を下ろすと、真ん中に座る虎杖くんに向かって諭すように話を再開させる。


「あのね虎杖くん、報告書っていうのは任務の報告はもちろん、我々関係者へ情報を共有するためのものでもあるの。だから今後、報告書にイラストは描かないように、」
「でも俺、五条先生からイラストがあるとなお良し!って前言われたよ?」


 頭の後ろで手を組みながら虎杖くんがあっけらかんと答えると同時に、私の斜め後ろ──教室の入り口付近で壁に凭れかかって立っていた男が小さく吹き出した。ゆっくりと後ろを振り返ると、一応この子たちの担任教師である五条さんが楽しそうにくつくつと笑っている最中だった。

 …何やら嫌な予感がする。と言うより、嫌な予感しかしない。


「五条さん…」
「ほら、文字ばっかりの報告書よりイラスト付きの方が読もうって気になるじゃん?」
「内容が分からなかったら意味ないでしょうが!」


 五条さんを睨み付けてみたものの、本人は悪びれる様子もなくへらへらと笑ったままだ。そんな彼の姿に、私は再び大きなため息をついた。これで本日三度目だ。そんな私を横目に笑い続ける五条さんに「何にやにやしてるんですか」と言葉を投げる。


「ん?が頑張って教師やってる姿、キュンとするな〜と思ってさ」
「はあ?」


 私と五条さんのやりとりに、虎杖くんが「お、始まった!夫婦漫才!」と野次を飛ばす。──これは、どちらから相手にするべきか。そう悩む私の隣までやってきた五条さんは報告書を手に取ると、じいっとその内容に目を落とした。そして顔を上げ、にかっと満面の笑みを見せる。


「いいじゃん、僕、悠仁の絵のセンス好きだけどな」
「センスとかそういう問題じゃありません、実際これ書き直してほしいって返されたんですから」
「っていうか報告書ってそもそも必要?ちゃんと祓ったんだからそれで良くない?」
「いや、他の教員や職員と呪霊の情報をきちんと共有しておかないと、」
「かったいな〜、もうちょっと柔軟にいこうよ」
「だから、そういう問題では」
「あの」


 私と五条さんの言い合いに突如割り込んできた言葉にハッとした私は、慌てて生徒たちの方に顔を向ける。しかし、そこには伏黒くん一人がぽつんと着席しているだけで、虎杖くん・釘崎さんの姿が見当たらない。驚いた私は、きょろきょろと辺りを見渡した。


「え…えっ?虎杖くんと釘崎さんは?」
「虎杖は逃げました。釘崎は、次体術なんで着替えに行くって出ていきました」
「な…」
「俺も着替えたいんで、失礼します」


 伏黒くんは冷静に状況を伝えると、そのまま何事もなかったかのように私たち二人の目の前を通り過ぎて教室を出ていってしまった。ぴしゃりと閉じられたドアを、私はただぼうっと眺める。何も、言葉が出てこない。

 そんな私の肩に、五条さんが労うようにぽんっと手を置いた。


「いやあ、最近の子ってクールだよねえ…」


 誰のせいでこうなったと──。口から勢いよく文句が飛び出そうになるのを、顔を歪ませ必死に堪えながら私は深いため息をついた。もう何度目か数えることすら面倒だと思った。



 グラウンドにて二年生と合同で体術の演習を行っている生徒たちを、教室の窓から眺める。みんな、私の学生時代に比べると格段にセンスがいい。だからこそ彼らを大事に育てていきたいし、曲がりなりにも教師である私にはその責任があると思っている。それでも今日のことを含め、現実はなかなかうまくいかないもので落ち込むことばかりだった。

 元々、私は夢や志を持って教師になったわけではない。高専を卒業したら普通に呪術師として生きていくだろうと思っていたが、卒業間近になって夜蛾先生から「高専の教員にならないか、お前は教師に向いてるぞ」とスカウトされたのだ。

 目の前に、ぬっと大きな手が伸びてくる。その掌にはコンビニに売ってある一口サイズのチョコレートが乗っていて、チョコレートから腕を辿っていき見上げると、五条さんが同じチョコレートを食べながら私を見下ろしていた。

 ──ちなみに夜蛾先生が私をスカウトした本当の理由が「私が教師に向いているから」ではなく、「五条さんのそばに彼の尻拭いをしてくれるような人材を置いておきたかったから」であると気付いたのは、私が教師になってしばらく経った頃だった。


「ほら、疲れたときは甘いものだよ」
「五条さん、まだいたんですか…」
「うわっひっど、が落ち込んでるみたいだったから心配してあげてるのに」


 相変わらず軽口を叩き続ける五条さんの掌から、素直にチョコレートを受け取る。びり、と袋を破って口に含むと、どこか懐かしい味がした。

 五条さんには、私が落ち込んでいるのを心配する前にもっと担任教師としての自覚を持ってほしい。そもそも一年生の副担である私は、本来出張や任務で多忙な五条さんの手が回らない部分をサポートする立場であるのに。


「なんでこう、うまくいかないのかなあ…」


 ぽつりと独り言のようにそう呟けば、五条さんは「え?うまくいってるでしょ?」と、とんちんかんな言葉を返してきた。


「どこをどう見てそう言ってるんですか」
「だって悠仁も言ってたじゃん、夫婦漫才って」


 『めおと』の部分を強調しながら、人差し指で私の鼻先をちょん、と突いた五条さんは、どこか嬉しそうにもう一つチョコレートを口の中に放り込んだ。私が言う『うまくいかない』というのは『生徒たちと』であって、間違っても『五条さんと』ではないのだけれど。突っ込むのも面倒に感じた私は、隣に立つ五条さんから再び生徒たちへ視線を戻した。二年の真希さん相手に、虎杖くんと釘崎さんが二人で向かっていっている。


「っていうか五条さん、もっと普通に接してもらえませんか?」
「普通にって?僕、普通にすご〜くのことを可愛がってるつもりだけど」
「そういうのです。夫婦とか…私たち、そういう関係じゃないですよね」


 ──そういえば、五条さんはいつから私に対してこんな冗談ばかり言うようになったんだっけ。確か、学生の頃はもっと…。

 そこまで考えて、しん、と教室内が静寂に包まれていることに違和感を覚える。てっきり五条さんから反論の言葉が返ってくると思っていた私は、反射的に五条さんを見上げた。すると、私と同じように生徒たちに視線を向けていると思っていた五条さんが黙ってこちらを見下ろしていたので、驚いた私は思わず息を呑んだ。彼の黒いアイマスクによって視線が合うことはないが、なぜか目が彼の目元に吸い寄せられる。


「…五条さん?」
「…そうだった?」
「え?」


 かけられた言葉の意味を理解できず戸惑いの声を上げれば、五条さんはにっと口角を上げて「手、出して」と短く呟いた。思考が追いつかないまま言われた通りに手を差し出す。すると五条さんがポケットから取り出したチョコレートをその上にばらばらと落とし始めたものだから、片手だけを出していた私はそれらを落とさないように慌ててもう片方の手も差し出した。


「わ、」
「三人がいい感じに経験積めそうな呪われてるスポット見つけてさ、明日行けるように申請出しといてくれない?」
「あ、はい…え、明日!?」
「よろしく〜」


 突然の依頼に慌てた私は、ひらひらと手を振って教室を出ていこうとする五条さんの背中に向かって「ちょ、五条さん!」と声をかける。しかしその背中は止まることなく、あっという間に気配とともに消えてしまった。ぽつんと一人残された教室に、グラウンドで励む生徒たちの笑い声が届く。
 
 今日、今から申請を出したとして、果たして明日までに通るだろうか。もうそろそろ、伊地知の胃に穴が開くような気がする。


「五条さんが申請出した方が早く通るのに…」


 たった一瞬だけ纏う空気が変わった五条さんのことを思いながら、私は手の中のチョコレートを見つめそうぼやいたのだった。


(2022.05.04)