「で、先生たちっていつ結婚すんの?」
場所は学生寮二階、皆から談話室と呼ばれている階段前の小部屋。古い木の床に散らばったカラフルな紙吹雪を掃除していた私は、ちりとりを持って屈んでいる虎杖くんからの質問に驚いて彼を凝視した。期待に満ち溢れた表情で返事を待つ虎杖くんに、ゴミ袋を持った伏黒くんが呆れたように声をかける。
「虎杖、こっちもまだ落ちてんぞ」
「マジ? おーい、釘崎も手伝えよ」
「こういうのはアンタたちの役目でしょ」
三人は言い合いを繰り広げながら床やソファ、テーブルの上に落ちている紙片を片付けていく。虎杖くんを見れば先の質問などなかったかのように釘崎さんに物申していて、その様子に私はほっと胸を撫で下ろした。
相談したいことがあるから談話室まで来てほしい。虎杖くんからそんな連絡が届いていることに気付いたのは、任務後に帰校しシャワーを浴び終えてすぐのことだった。シャワールームの脱衣所でスマホを見た私は、髪も乾かさずに彼の指定した学生寮の談話室まで走った。
改まって『相談したいことがある』と言われたのは初めてのことだったので、内心焦っていたのだと思う。走りながら、頭の中でありとあらゆることを想定した。多感な年頃で、かつ特殊な環境下に身を置く彼らが抱える悩みは一般的の高校生とは次元が違うのだ。
はやる気持ちを抑えながら談話室の扉を開けた途端、ぱんっ、という何かが弾ける音がして私は反射的に目を閉じた。次に目を開けたときに見えたのは、宙をひらひらと舞う大量の紙吹雪。そしてそれらを浴びる教え子たち三人の姿だった。
扉を片手で開けたまま、その場に立ち尽くし瞬きを繰り返す。
「な……何、え?」
「サプラ~イズ! 先生、遅くなったけど昇級おめでと~!」
本当は盛大にお祝い会したかったんだけどなかなか学生全員揃う日がなくて、と説明する虎杖くんの姿に少しずつ状況を理解していく。しばらくして、全身に走った緊張が解けていくのを感じた。
どうやら、私の一級への昇級を彼らなりに祝ってくれているらしい――。
しかし、用意したクラッカーがここまで威力のあるものだとは思わなかったのだろう。部屋のあちこちに小さな紙片が舞い落ちる光景に、虎杖くんを除いた二名の表情が曇っていく。
「……これ掃除どうすんだよ」
「虎杖、アンタもうちょっと適切なもん選びなさいよ」
「え、でもでかい方がインパクトあっていいじゃん?」
そう話す三人を前にして、私は声を上げて笑った。
大事な教え子たちの成長を目の当たりにしたとき。そして今みたいに、本人たちに自覚はないだろうけど、楽しそうに日々を過ごす彼らをそばで見ているとき、教師をやっていてよかったなと心から感じる。
きっと、五条さんも同じなんだろうな。掃除を終え、もう遅いから早く休むよう三人に伝えて自室へ戻る最中、ふと五条さんの顔が頭に浮かんだ。それと同時に虎杖くんの言葉も思い出す。
「で、先生たちっていつ結婚すんの?」
記憶を失う前、そして取り戻したあと。そのどちらにおいても、結婚を強く意識しているのは私ではなく五条さんの方だったと思う。しかし、生徒たちの前での『本当の夫婦になる』発言から一か月。私、そして私以上に五条さんが多忙だからということもあってか、これに関してはなんの進展もない。
別に今すぐどうこうしたいわけじゃないから、いいと言えばいいんだけど――。
「何、これ?」
「ひっ……!」
急に首の後ろを何かが滑るように撫でていき、ぞわぞわと全身が粟立つ。うなじを手で押えつつ勢いよく振り返れば、ピンク色の紙片を指で摘んでいる五条さんが立っていた。
「気配を消さないでとあれほど……!」
「いや消してないし、何度も呼んだんだけど」
がぼうっとしてただけでしょ? そう言ってにんまりと笑う五条さんに何も言い返すことができず、黙って手のひらを差し出す。その上に、五条さんは私の身体についていたらしい紙吹雪をひらりと乗せた。
今日は遅くなると思う。今朝学校を出るときにそう言っていたけれど、どうやらいつも通り爆速で任務を終わらせて来たらしい。私同様にシャワーを浴びたばかりらしく、首にかけたタオルで濡れた髪を乱雑に拭きながら隣を歩く五条さんは、口では疲れたと零しつつもまだまだ余力があるように思えた。
「なるほどね、それで紙吹雪くっつけてたんだ」
「相談があると言われたので内心ドキドキしていたんですが……別の意味でドキドキしました」
「相変わらず愛されてるねえ……で?」
私は五条さんを見上げた。「で?」の意味を理解できず、同じように「で?」と呟く。
「さっき、僕が呼んでも気付かないくらい何考え込んでたの?」
「それは――」
言えるわけがない。貴方との結婚について考えていました、だなんて。
「……別に、なんでもないです」
「うーわ、出た出た」
ふい、と顔を正面へ戻せば、隣から五条さんの両手が伸びてくる。それに気付いたときには、もう彼の両手は私の両頬を挟んでいた。五条さんの温かい手によって無理矢理視線を合わせられた私の顔は、頬を押し潰されてひょっとこのようになっていることが分かる。
眉間に皺を寄せて五条さんを見つめれば、ゆっくりと顔を寄せられ不覚にも心臓が跳ねた。
「なんでもないって言葉は何かあるときにしか使わないと思うんだけど~」
「や、やめてくださいよっ」
「正直に話すまでやめないよ、ほらほら」
ぎゅうぎゅうと無遠慮に両頬を押し潰す五条さんの手を引き剥がそうと奮闘するものの、力でこの人に叶うわけがない。私の変顔を、抵抗を、この状況を明らかに楽しんでいる五条さんを目の前に頭を回転させ、散々悩んで私の口から出たのは「映画」という一言だった。五条さんの青い瞳が一瞬だけ丸くなる。
「映画?」
「続きを、二人で一緒に見ようって話してて、結局見られてないなあと……」
咄嗟に思いついたことだったけれど、ふとしたときに考えることでもあるので嘘ではない。私の言葉に、五条さんの手の力が弱まる。その隙に五条さんの両手を引き離すと、彼は素直に手を下ろし「なんだ、そんなことか」とどこか安心したように笑った。
「そうだよね、結局ご飯も行けてないし。なかなか時間とれなくてごめんね」
「いえ、私も忙しかったですし」
「じゃ、とりあえず今から映画見ようか」
急すぎる誘いに、今度は私が目を丸くする番だった。確かに二人ともあとは寝るだけ、という今のこの状況、映画を見るには最適なタイミングだと思う。けれど、明日オフの私と違って五条さんは任務が入っていたはずだ。
五条さんは返事に悩んでいる私の手をとると、そのまま自室に向かって歩き始めた。
「大丈夫。明日の任務、昼からだから」
私の心の内などお見通しだったらしい。半ばどうにでもなれ、という少々投げやりな気持ちで私は五条さんの手を握り返した。
* * *
学生の頃、一緒に五条さんの部屋で映画を見たことは何度かある。しかし大人になってからは、当然だが二人でゆっくり映画を見ることも職員寮の五条さんの部屋に入ることもまずなかった。
適当に座って、と言われたとき、果たしてどこに座るのが正解なのだろう。大きなベッドにソファ、テーブルとテレビ、そしてあとは備え付けのクローゼット。必要最低限の家具家電のみが置かれた部屋はあまり生活感がなく、出張の多い五条さんにとっては『寝られたらいい』くらいの気持ちで暮らしている部屋なのかもしれない、と思うとなんとなく切なくなった。
落ち着かない気持ちでソファに座って待っていたら、DVDをセットした五条さんがすぐ隣に腰を下ろした。少しだけ斜めに沈んだソファに心臓が波打つ。電気を消され暗くなった部屋で、テレビ画面の明かりだけが私たちを照らしている。
「途中まで見てたけど、また最初からでいい?」
「そうですね……確か、五条さんが途中で任務入って離脱したんですよね」
懐かしいです、と言えば、五条さんは「まさかの口からそんな言葉が聞けるとはね」と微笑んでリモコンの再生ボタンを押した。嫌味にもとれる言葉。でも、今まで五条さんがどれだけ悩み、苦しみながら私のことを待ってくれていたのかを知っているから、素直に彼が喜んでいるのだと思うことができた。
途中まで見たことがあるとは言え、それももう十年も前のこと。さすがに映画の内容については記憶云々関係なく忘れていて、どんでん返しで有名なサスペンス映画の展開に徐々に引き込まれていく。
しかしそれは私だけだったらしい。五条さんは映画を見る私の横顔に向かって「そろそろ一級任務慣れた?」「悠仁たちのクラッカーってどんなやつだったの?」など、映画とは全く関係のないことばかり話し続ける。最初は一つ一つ答えていたけれど、とうとう痺れを切らした私はため息を零して映画から五条さんへと視線を移した。
「映画、つまらないですか?」
「や、つまらなくないしむしろ見たいんだけど」
「じゃあ見ましょうよ……」
「喋ってないと我慢できなくなっちゃいそうで」
我慢? そう尋ねてすぐ、私はハッとした。光に照らされた五条さんの瞳が熱を孕んでいることに、そのとき初めて気付いたからだ。
「もうさ、押し倒していい?」
「お、押しっ……」
「てか下心なく部屋で映画見ようって誘う男、いないから」
それを言ってしまうと、学生時代の五条さんも下心があって映画に誘っていたということになる。私が気付いていなかっただけで、若かりし頃の五条さんはずっと映画を見ながらその機会をうかがっていたのだろうか。
大きく、そして速く脈打つ心臓から少しでも気を逸らすためにそんなことを考えていたら、ぎし、と小さくソファの音が鳴った。今し方、はっきりと押し倒していいか尋ねて身体を寄せる五条さんの手が、私の肩をそっと押す。その行為に私は慌てて叫んだ。
「えっえ、映画! まだ始まったばっかで、」
「そうなんだよ~、そうなんだけど、そうなんだけどね~」
「ちょっ、五条さ」
倒されまいと腹筋に力を込める。しかし体格的にも体勢的にも不利なこの状況でいつまでもその攻防が続くはずもなく、私の上半身はソファへと沈んだ。
熱に浮かされているような表情で私を見下ろす五条さんの瞳。今にも吸い込まれてしまいそうで、胸にあるはずの心臓が耳元でどくどくと動いているような気がする。もう一度五条さん、と名前を呼んだ私の唇に、五条さんの人差し指がそっと触れた。
「少しだけ、黙って」
お願いとも命令ともとれる口調、そして獲物を捉える瞬間のような鋭い眼光に息を呑んだとき、私の唇に触れていた五条さんの指先が移動しそのまま顎を軽く持ち上げた。黙ってって、言われても。そう口にしようとしたものの、言葉にする前に唇が重なった。
その瞬間、映画の中で船が爆発し、その音に全身がびく、と跳ねた。その結果、私の固く結んだ唇が一瞬だけ開いたことを五条さんは見逃さなかった。絶妙なタイミングを恨む私をよそに、五条さんの指先に力が込められ顎を強く掴まれる。ぐ、と押し込まれた生温かい舌の感触と、五条さんのシャンプーの香り。頭に羞恥が駆け巡り、閉じた目蓋の裏がじわりと熱くなるのを感じた。
忘れようとして忘れられなかった、五条さんと初めてキスをした日のことが頭に浮かぶ。無理矢理合わせられた唇、唾液の中に混じった血の味。強引にキスされている状況はあのときと同じはずなのに、私の胸の中にはあのときと全く違う感情が込み上げていた。
重なっては離れ、そしてまた重なる。舌で優しく咥内をなぞっていったかと思えば、噛み付いて乱暴に荒らしていく。その緩急に、頭の中だけでなく全身が溶けてしまいそうだ。
「……」
目を開けると、熱い吐息を漏らしながら私の名を呼ぶ五条さんと目が合った。肩で息をしながら瞬きを何度かすれば、生理的な涙が頬を伝う。それに気付いた五条さんは眉を下げ、彼の胸元を強く握りしめていた私の手を優しくほどいて握った。
「ごめん、嫌だった?」
「そ、そうじゃなくて」
すん、と鼻をすすればいかにも悲しくて泣いているようで、私はぎゅっと再び目を閉じ首を横に振った。目尻に残っていた涙を五条さんが指で掬いとる。
急すぎるとは思ったけれど、嫌だったわけじゃない。そう言おうとしたのに、なぜか無邪気な顔で私に質問をする虎杖くんの顔が頭をよぎって、気付けば彼と同じことを五条さんに問いかけていた。
「私たちって、いつ、結婚、するんですか」
「結婚?」
しばしの沈黙。観客がいないまま、映画は淡々とストーリーを進行していく。
途切れ途切れに言葉を吐き出した私の上に覆い被さるように乗っていた五条さんは、まさかその話を私からされると思っていなかったのだろう。驚いたように、穴が空くのではと思うほど一心に私を見つめている。その視線に、かっと顔が熱くなるのを感じた。
「の心の準備ができるまでは、待つつもりだけど」
「そうですか……」
意外だった。今まで散々待ったからもうあまり待つ気はない。そう言っていたのは五条さんだと言うのに、まだ私を待つつもりでいてくれていたらしい。
すぐに五条さんが「えっ?」と声を上げる。彼の視線に耐えられず、私は慌てて顔を背けた。
「……ひょっとして、もうできてる?」
そもそも、心の準備がどうとかそんな大層なことは考えたことがなかった。きっと、虎杖くんよりも私の方が疑問に思い、待ち続けていたのだと思う。私と五条さんはいつ『本当の夫婦』になるのだろうか、と。
反論は必ず述べるタイプの私が無言でいることを肯定と捉えたのか、私の横顔から心の内を読み取ったのか、どちらかは分からない。五条さんにぐい、と身体を引き起こされたかと思ったら、力強く抱きすくめられた。
「しよ、結婚。明日しよ」
「あ、明日って」
「婚姻届は伊地知に取りに行かせて、証人欄は硝子と七海に埋めてもらお」
「三人とも嫌がると思います……」
特に七海さんは。そう言いながらそっと五条さんの背中に手を回せば、私を抱きしめる五条さんの力が一層強まってまた涙が出た。この涙はきっと、愛しさから生まれた涙だ。
心地よい温もりを全身で受け止めながら、『家入』と『七海』の印鑑も用意しようと意気込む五条さんの後ろ髪に触れる。まだ僅かに湿っている毛先を押さえつけるように数回撫でたあと、ゆっくり五条さんの身体を引き離した。
「五条さん」
「ん?」
少しだけ迷ったあと、私は五条さんが首にかけたままだったタオルの両端を掴みぐっと引き寄せた。そして、意表を突かれ大きく見開かれた五条さんの瞳から逃げるように、私は背筋を伸ばして触れるだけのキスをした。
顔を離すと、そこにはぽかんとした表情を浮かべる五条さんがいて思わず笑みが溢れる。
「あの……ごめんなさい」
「や、別に謝ることじゃ、てかめちゃくちゃ嬉しいなんならもっとして、百回はして」
「そうじゃなくて、映画」
そう言うと、五条さんは思い出したように明るいテレビ画面へと視線を向けた。映画が今どんな展開を迎えているのか、そしてどんな結末へ向かっているのか、私たち二人には分からない。
学生時代、記憶を失う前に五条さんと交わした約束を果たしたいとずっと思っていた。この映画の続きを二人で見ようという約束。でも――。
「多分また、最後まで見られないと思う、ので……」
言ってしまったあと、体温がどんどん上昇していくような気がした。緊張してタオルを掴む手に力がこもる。五条さんに応じるつもりで言った言葉のはずなのに、まるでこちらから誘惑しているように思えて少しだけ後悔した。
しばらく固まっていた五条さんは、片手で口元を覆いながら戸惑い混じりのため息を零す。
「……もう反則でしょそれ。急に積極的になられるとさ、結構やばいんだけど」
「ご、五条さんがそうさせたんですよ」
「まあ、うん、そうかもね」
先程とは違い、今度は五条さんが私の視線から逃れようと顔を逸らす。じっと見つめたままでいれば、五条さんは困ったように「あんま見ないでよ」と笑った。
五条さんの貴重な一面に胸が高鳴る。あー、とか、んー、とか一人脳内で問答しているらしい五条さんは、やがて何かを決意したのか口元を覆っていた手を私の後頭部に回した。
「できる限り優しくしようと思ったけど、無理かも」
不意に近付いた距離とストレートな言葉にくらりと目眩がする。また泣いてしまいそうだと思いながら、私は笑った。目の前にいるこの人が、かわいくて愛しくて、たまらない。
何度目か分からない口付けを交わす直前、五条さんは「あ」と何かに気付いたような声を漏らし、こう言った。
「幸せにする」
何もかも忘れて五条さんと過ごした日々に未練がないと言えば嘘になる。きっとその気持ちは一生私の中から消えないだろう。
でもこうしてまた、二人で前に進めている。それでもう十分だ。
私の心も、そして呼吸さえも奪っていく甘い行為に私はゆっくりと目を閉じた。
(2023.8.26)リクエストありがとうございました!