長い人生、大人になってから初めて知ることもそんなに少なくはない。とりあえず今日、私は自分の爪がきれいだと気分が上がるということを生まれて初めて知った。
「可愛いじゃん」
振り向くと、ソファに座る私の真後ろに硝子が立っていた。仮眠から目覚めたばかりの彼女は右手にコーヒーを持ち、左手で私の手を指さしている。小さな変化に気付いてもらえたことと素直にその言葉が嬉しくて、私は見せびらかすように硝子へ手を差し出し「でしょ」と笑った。
くすんだ桃色と薄紫色に塗られた艶のある爪。二十八年という人生の中で初めてプロに施してもらったネイルは、指を動かすと爪の中心のホログラムがきらきらと輝いて見える。先日任務の現場で仲良くなった、普段はネイルサロンで働いているという窓の女の子から勧められるがままにやってもらったネイルは、思いのほか私の指先に馴染んでいた。
「初めてやってもらったけど、なかなかテンション上がるね」
「まあ仕事柄、美容とは縁遠いところにいるからな。で、今日だっけ?」
「ん?」
テーブルを挟んで目の前に置いてある二人掛けソファに腰を下ろした硝子は、コーヒーを一口啜ったあと何の話か分からず瞬きを繰り返す私に向かって「食事」と短く呟いた。
食事。その言葉を聞いた瞬間、頭を過ったのは私と同じく高専所属の呪術師として働く四つ年上の男性の顔。その彼から今日食事に誘われていたことを今になって思い出した私は、慌ててスマホを取り出した。
「やばいやばい、忘れてた!」
「うわ、ひど」
「確か夜行こうって話だったと、」
「二人で何話してんの~?」
スマホのメッセージを開いたときに聞こえた底抜けに明るい声、肩にずしりとのしかかる何か。その呑気な声と重量のせいで一瞬だけ思考が飛んだ私の手から、スマホが滑り落ちる。
考えなくたって、何なら声を聞かなくたって分かる。こんなに気安く距離を詰めて触れてくる人間は高専に、いや世の中に一人しかいない。頬がくっつくのでは、と思うほどの距離にいる声の主の横顔を睨みつけながら、私は非難めいた声で彼の名を呼んだ。
「五条! 重いんだけど、ってか近い!」
「え~僕そんな重くないし~」
変に声をつくっている五条に、硝子から蔑むような視線が向けられる。しかし本人は気付いていないのか、気にすることなく口元で拳をつくり「悟、ショック~」と首を傾けた。
二十代後半にもなってこんな中学生みたいなノリで動く男、普通に考えてどうかと思う。声には出さず頭でそう思いながら、べたべた引っ付いてくる五条を肘で押しのけて立ち上がり、床に落ちたスマホへと手を伸ばした。しかし私より先に、五条が素早くそれを拾う。
確かめるように、一瞬だけ画面に目を落とした五条は、「割れてなかったよ」と微笑んで私にスマホを差し出した。
「ありがと」
「その爪、何?」
スマホを掴んですぐ、五条は先程よりもずっと落ち着いた声でそう言った。何って、なに? 返事に戸惑いながら、なぜかスマホから手を離そうとしない五条を見上げる。
「何って、ネイルだけど……手離して」
「へえ~普段美容に無頓着ながどういう風の吹き回し? 全然似合ってないよ」
「別に無頓着じゃないし、ってか似合ってないとか思ってても言うな! バカ!」
「僕、お世辞とか言えないタイプなんだよね」
悪びれる様子もなくへらへらと笑いながらそう主張する五条を目の前にして、目元がひくひくと引き攣るのを感じた。急にやってきてなぜそんなことを言うのか分からないし、何より五条の「似合ってない」の一言でせっかくのいい気分が台無しだ。ふつふつと、怒りが湧き上がってくる。
互いにスマホを離さないまま睨みあっていたら、黙って様子を眺めていた硝子が立ち上がった。そして彼女は「伊地知~」と、急に後輩の名を口にする。
「用があるんなら気にせず話しかけていいぞ~」
硝子のその言葉で、私と五条はほぼ同時に部屋の入口へと視線を向けた。いつの間に来ていたのだろう。そこには困惑の表情を浮かべてハンカチで額の汗を拭う伊地知の姿があり、そんな彼の横を颯爽と通り過ぎた硝子は静かに部屋を出て行った。
学生の頃の話だ。ある日、寮の食堂で朝ごはんを食べていた私と五条の元にすたすたとやって来た七海が、「あなた方はもう少し伊地知くんに優しくしてください」と言い、ぽかんとする私たちの返事を待つことなくすたすたと去って行ったことを思い出す。五条はともかく私は伊地知に優しくしているつもりだったので、七海の「あなた方は」から始まる指摘は今になってもよく覚えていた。
五条に言いたいことは山程ある、が。それらをぐっと堪えた私は隙をついて五条からスマホを奪い返すと、伊地知に向かって渾身の笑顔を向けた。
「伊地知、どうしたの?」
「すみません、お取込み中に……」
実は、と切り出した伊地知の話はこうだった。
本来ならば明後日に処理するはずだった案件について、依頼主から今日中に対応できないかと連絡があったらしい。対象呪霊は一体、推定で二級相当、元々担当予定だった術師は終日不在。そして今、学生を含む術師は私と五条を除いて全員出払っている、とのことだった。
お願いできないでしょうか。私と五条、どちらを指名するわけでもなく伊地知は小声でそう言い頭を下げた。イレギュラー対応ではあるが、そんなに慌てふためくような話でもない。どっちが行く? そんな思いを込めて五条を横目で見遣れば、視線に気付いた彼はにっと笑って「二級でしょ?」と言った。その意味は、二級ごときに特級術師がわざわざ出向くわけないよね? だ。
頭にちらつく食事の約束。スマホを見れば、例の術師から『十八時、正面入口の階段で待っています』というメッセージが昼前に届いていた。現在時刻は十四時を過ぎたところ。伊地知から聞いた場所的に、二時間以内に祓ってしまえば何の問題もない。
いっぱい働いたあとの方が、食事はおいしいよね。多少腹は立つものの五条の言い分は正しいし、自分をやる気にさせるために半ば無理矢理そう思うことにした。
巻きでいこう。伊地知にそう伝えると、彼は大袈裟なほどに頭を下げてすぐに車を用意すると言い、走り去って行った。
「焦ると失敗するよ~?」
いつの間にか私が座っていた場所を陣取っていた五条はそう言うと、ソファの背もたれに両腕を広げて揶揄うような笑みを見せた。その言葉に些かむっとして、五条の隣に置きっぱなしになっていた呪具の入った鞄を乱暴に引ったくる。
「そんなの、言われなくても分かってます~」
「前あったじゃん、低級呪霊に余裕こいてたら群れで来られて呪具ぶっ壊したこと」
「じゅ、十年以上も前の話しないでよ!」
怒りに任せて部屋のドアを勢いよく開けてすぐ、私はソファに悠々と座る五条を振り返った。繁忙期も落ち着いてきたとは言え、仮にも特級術師がこんなところで油を売っていていいのだろうか。一応彼は、術師と教師という二足の草鞋を履いているのだ。
「一応聞くけど。五条、私に何か話でもあったの?」
硝子も伊地知もいなくなり、二人きりとなった部屋に短い沈黙が流れる。五条は私の言葉に一瞬だけ真顔になったかと思ったら、すぐに笑って「別に?」と言った。そんな五条に向かって私は「ふうん」と軽く返したあと、それ以上は何も言わずに部屋を後にした。
五条は、いつもこうだ。昔から私にだけ妙に馴れ馴れしいくせに、こちらが少しでも踏み込もうとすれば波のように引いていく。だからずっと、私は五条が何を考えているのか理解できないままだ。
* * *
「これさあ、本来担当予定だった術師が行ってたら死んでたんじゃないの?」
「す、あ、申し訳ございません……」
トランクにしまってあった救急箱の中からガーゼを何枚か取り出し、出血している二の腕に当てる。その上から口ともう片方の手を使って包帯をぐるぐると巻いて一言、「伊地知は悪くないけど」と呟いて救急箱の蓋を閉めた。最大限のフォローの言葉のつもりだったのだが、蓋を閉める音が大きかったせいか伊地知は何度も謝罪の言葉を口にした。
対象呪霊の等級は伊地知の説明通り二級相当に値するものだったが、予想外の問題が発生した。祓除中、呪霊が分裂し一体から三体になったのだ。しかも最悪なことに、三体各々が二級相当の力を保持していたのである。
悪くないけど、ちゃんと調べたら分かりそうなものだよね。そう言いたいのを堪え、後部座席を少し倒し背を預ける。時間的に約束には間に合いそうなものの、こんな状態で食事に行くのは少し、と言うか大分憚られるし、何よりもうそんな気分ではない。少し迷って断りのメッセージを入れようとしたとき、私はそれまで気分を上げてくれていたはずのネイルに傷が入っていることに気付いて大きく落胆した。
スマホを座席に投げてため息をつけば、伊地知は困ったように「予定があるんですよね、急ぎます」と言いスピードを上げた。直前にキャンセルするのだから、ちゃんと会って謝ろう。ちょうどそう考えていたときだったので、私は何とも言えない気持ちで「ん」と適当に返事をした。
ぼんやりと、後ろへ流れていく外の景色を眺める。曇天の空は今にも雨が降り出しそうで、まるで私の心のようだった。
* * *
「……なんで五条がいるの?」
階段に座る見慣れた後ろ姿にそう声をかけると、五条は身体を後ろに倒して私を見上げた。そしてあまりにもみすぼらしい姿で戻ってきた同期の姿に驚きを隠せなかったらしい。彼はぽつりと一言、「二級でしょ?」と、高専を出る前と全く同じ台詞を吐いた。
「正確には、二級が三体」
「はは、ウケる」
「ウケるなよ」
五条と軽く会話を交わしながらちらりと後ろを振り返る。五条以外の人間がいないこと、また現れる気配もないことに内心首を傾げていたら、「来ないよ」と五条が言った。
「は?」
「夜、食事に行く約束してたんでしょ? 僕から断っといた」
「え、なんで?」
なぜ約束のことを五条が知っているのか。そしてその約束をなぜ五条が断ったのか。二つの疑問に対する「なんで?」だったのだが、五条からは曖昧な、よく分からない答えが返ってきた。
「僕が断りたかったから」
まあ座りなよ。軽い調子でそう言いながら自身の座る石段の隣を手で叩く五条に思わずたじろいだ。断って謝罪を済ませたら、硝子のところに行って治療してもらおうと思っていたんだけど。五条の言葉に何て返事をすればいいか戸惑っていたら、五条が早く早く、と急かしたので私は渋々彼の隣に腰を下ろした。
私が話し出す前に、破れた白シャツに滲む血に気付いた五条が私の腕を引く。突然だったので驚いて顔を上げれば、五条は「怪我してんじゃん」と少し低い声で言った。
「ああ、うん……え、なんで?」
「僕が聞きたいよ、なんで怪我してんの」
「いやそうじゃなくて、なんで五条が私の約束を知ってて、しかも勝手にその約束を断ったのかを聞きたいんだけど」
「じゃあ僕も聞くけど、わざわざ普段しないようなネイルまでしちゃうほどは今日の食事が楽しみだったわけ?」
一向に話が進まない。私の腕を掴んだままでいる五条の顔をじっと見つめる。真っ黒なアイマスクの奥で彼がどんな感情を滲ませた瞳でこちらを見ているのか、さっぱり分からなかった。
五条の口から出た「ネイル」という言葉。そのせいで、考えないようにしていたボロボロのネイルを両目で捉えてしまう。酷使したせいか、あまりうまく働かない頭を押さえて私は息を吐いた。
「これは窓の女の子が私に似合いそうって言ってしてくれただけで、別に今日のためにしたわけじゃないよ……」
そう言ってすぐ、五条が私の指先に視線を落としていることに気付く。同時に「全然似合ってないよ」という五条の言葉を思い出し、余計に虚しくなった私は腕を掴む五条の手を振り払って立ち上がった。ぽかんとした表情を浮かべる五条に対し、ふん、と鼻を鳴らす。
「まあ似合ってなかったみたいだし? 傷も入っちゃったから近いうちに落としてもらうけど」
「そうなの? せっかく似合ってて可愛いのに、勿体ないね」
「……はああ~?」
さすがに声を上げずにはいられなかった。信じられない、自分が言ったこと忘れたの? そんな呆れと驚きと怒りを込めた目で座ったままの五条を見下ろす。我慢できずに足先で蹴ろうとしたが、彼の無下限によってそれは簡単に阻まれてしまう。それによりさらに怒りのボルテージが上がった私は、五条を指さして声を荒らげた。
「アンタ、ほんの数時間前に『全然似合ってない』って言ったじゃん!」
「いやあ、てっきり今日約束してた術師のためにしたんだと思ったからさ、つい」
「は!?」
「が僕以外の男のためにすることは、全部可愛くないんだよ」
無下限によって少しも五条に触れることができずにいた私の片足。その足首を急に五条が掴んだものだから、バランスを崩した私はそのまま石段に尻もちをついて「あだっ」と色気も何もない悲鳴を上げた。
じんじんと痛む臀部を手で押さえようと少し腰を浮かせたとき、私の太ももに置かれた五条の手がそれを制した。普段触れられることのない場所にある五条の手、学生の頃からずっと続いていた五条の『馴れ馴れしさ』とはまた違う温度の距離感に思わず息を呑む。
「そうだ、今度は僕の瞳の色にしてよ、爪。の指先が僕の色に染まってたら、なんか興奮する」
「な、何言ってんの、さっきから」
ずい、と近付いてきた五条の顔に思わず後ろへ仰け反れば、五条は「あれ?」と首を傾げた。
「、顔赤くない? 体温も上がってる」
「そっそんなの、だって近いし、距離がっ」
「今までだって何度も肩組んだり顔寄せ合ったことあったじゃん。何なら怪我したをお姫様抱っこしたこともあるし」
確かにそれは、そうなんだけど。頭ではそう思いつつも、すぐ目の前に迫った五条の顔に変に緊張してしまう。
でもそれは五条が変なことばっか言うから混乱しているだけで、別に照れてるわけじゃない──。そう頭の中を整理してみるが、顔の火照りはどんどん増すばかりだ。
とりあえず離れてほしい。そう伝えたが、五条はそのままの距離で自身の顎に手を当てると、ふむ、と何かに気付いたように呟いた。
「なるほど、こういう距離の詰め方の方が良かったか」
「ね、ねえさっきから意味分かんないよ」
ごく、と喉が鳴る。じっとこちらを見つめている五条へ「一応聞くけど」と前置きをしたあとに尋ねた声は掠れていて、緊張を全くもって隠せていなかった。
「五条は一体、私に何がしたいの?」
こう聞けば、いつもの五条なら太ももに置かれたままの手をぱっと離してこう言うはずだ。「別に?」と。飄々とした様子で、何でもないように。五条は自身の中に、誰も踏み込ませない人間だから。
しかし、五条は手を離すことも距離を置くこともなく、ゆっくりと笑みを浮かべてこう言った。
「いっぱいあるけど、全部聞く?」
今日、私は初めて知った。自分の爪がきれいだと気分が上がる、ということを。そしてもう一つ。馴れ馴れしいくせに誰も踏み込ませないと思っていた五条が、こんなにも優しく慈しむような笑顔を浮かべることがある、ということを。
自分が自分じゃないようで、落ち着かなくて少し恥ずかしいような気もするけれど、同時にわくわくもしている。そんな、初めてネイルをしたときに抱いた感情と同じものが心に生まれる気配を感じて、私は恐る恐る、でも覚悟を決めて頷いた。
一歩だけ、五条の中に踏み込めた気がする。途中でやっぱいいやとか言うの、なしだからね。そう言えば、五条は白い歯を見せてけらけらと笑った。どんよりとした雲の合間から差し込む光芒のせいで、その笑顔は一層神々しく見えた。
「とりあえず一番は、を僕の彼女にしたいかな」
妙に心臓がうるさくて目眩がするのは、任務で少なからず血を流したからだ。そうに決まっている。
(2023.5.18)リクエストありがとうございました!