満開だった桜も散り始め、また一つ季節が過ぎ去ろうとしていた。
本日の祓除の現場となった、都内の廃ビル。その五階の割れた窓から外を見下ろすと、帳も上がり警察が規制線を張っている様子が見えた。とは言え警官らが中に入ることはなく、あくまで彼らの仕事は避難させていた一般市民がこのビルへ侵入するのを防ぐこと、また私たちの指示通りに近隣住民へ説明を行うこと、だけだった。人的被害・建物被害等の確認は、所謂『こちら側』である私たち補助監督の仕事。私が補助監督になって四年、京都から東京に異動してきて三か月が経つが、その役割分担に関しては今も昔も京都も東京も変わらないようだ。
一通り確認は済んだことだし、そろそろ戻ろうか。そう思ったときだった。
「おや」
背後から声が聞こえ、振り返る。するとそこには今回の案件の担当術師である夏油さんが立っていて、私は思わずぎょっとした。真っ先に、術師は基本的に事後処理が始まる前には現場を後にすることが多いのに、と思う。夏油さんのような『特級』という忙しい身分の方は尚更だ。
私より二歳上の夏油さんは、呪術師として花を咲かせることができなかった私にとって、拠点は違えど学生時代から雲の上の存在だった。いつどんなときでも冷静で、周りへの気遣いも完璧な夏油さんに憧れる女性も少なくはないと聞く。そんな彼と、こんなところで、しかも二人きりで顔を合わせることになるなんて。
なるべく驚いていることを悟られないよう、私は姿勢を正し頭を下げた。
「お疲れさまです」
「お疲れ。君は一月に京都から異動してきた子だね」
え、と声を上げそうになるのを堪えて、私はすぐさま顔を上げた。そして目を細めこちらを見つめる夏油さんと暫し見つめ合ったあと、黙ったままこくりと頷いた。
高専所属の補助監督は、同じく高専所属の呪術師よりも数が多い。そのうえ私は東京に来てから自身の『とある事情』により、術師の送迎やその他のサポートといった術師本人と直接関わる業務に就くことはなかったため、夏油さんが私を認識しているだなんて夢にも思わなかった。
少しだけ迷ったあと、私は「です」と自身の名前を告げた。
「直接お会いするのは今日が初めてかと」
「よろしくね、ところではなかなか中途半端な時期に異動してきたみたいだけど」
「ええ、と……」
まさかいきなり下の名前、しかも呼び捨てで呼ばれるとは思っていなかったのと、あまり触れてほしくない話題を持ち出された戸惑いとで返事に焦りが滲んでしまう。慌てて咳払いでごまかしてみたものの、夏油さんはさほど気にする様子もなく「何か問題でも起こした?」と首を傾げるだけだった。
問題。その言葉ひとつで、首筋を汗が伝う。初めましての挨拶を交わしたばかりだと言うのに、どうやら怪しまれているらしい。先程からずっと驚かされてばかりで「別に、何も」と小声でもごもごと答える私に対し、夏油さんは笑みを浮かべたまま私に歩み寄った。
大丈夫、大丈夫──。頭の中で何度もそう唱える。私の目の前に迫った夏油さんの手がすっと伸びてきて、反射的に目を閉じた。
「──花びら」
「……え」
「近くに咲いてるのかな」
ぽつり、と独り言のような夏油さんの言葉に目を開ける。彼の指先に摘ままれた桜の花弁と夏油さんを交互に見ながら、私は自分の頭に触れた。今日は外にいる時間が長かったから、気付かないうちに髪についてしまったのかもしれない。
私がお礼の言葉を述べるのと、夏油さんの手から薄桃色の花びらが離れるのはほぼ同時だったように思う。色褪せた背景の中を舞う桜に目を奪われていたら、私に伸ばされたままだった夏油さんの手が私の首筋から頬をするりと撫でた。その瞬間、頭からつま先までを一気に電流が駆け抜けたような気がして、全身がぞくぞくと震える。顔を上げると、口元から笑みが消えた夏油さんと必然的に視線が重なって、身体の内から激しく燃え出すような、そんな初めての感覚に襲われた。
「この香り……」
私に顔を寄せた夏油さんの口からそんな言葉が零れ落ち、私ははっとなって彼の身体を押し返した。急だったせいか、僅かによろめいた夏油さんが目を見開いてこちらを見つめる。本能的になのか、私は無意識に首筋──うなじを両手で覆ったまま、この何とも気まずい空気をぶち壊すように大声を上げた。
「そのっ、お疲れさまでありました!!」
祓除により少なからず損壊した建物内で大きな音を立てるのはご法度である。だがそんなことを考える余裕も自分の言葉遣いがおかしいことに気付くこともなく、私は立ち尽くす夏油さんの横をすり抜けてそのままビルを飛び出したのだった。
* * *
小さい頃はまだよかったと思う。思春期を迎えたあたりからだった。自分の第二の性がオメガであることを恨み始めたのは。
三、四か月に一度あるヒート時には、抑制剤と呼ばれる薬を服用しなければまともに歩くことさえできない。しかもその抑制剤はフェロモンの発生を完全に抑えられるわけではなく、服用していても一部のアルファからはヒートであることに気付かれてしまうことがあった。それはつまり、私がオメガであることもバレてしまう、ということでもある。
今年の一月、私がまだ京都で補助監督として働いていたときにそれは起きた。そもそも呪術師には優れた人材が多く、そのためオメガやベータよりもアルファの方が多いらしい。当時、私が補助についていた術師もアルファだったのだが、きちんと抑制剤を服用していたにも関わらず発してしまったフェロモンを認識した彼は理性を失い、私に襲い掛かってきた。よりにもよって祓除が始まる前の現場で、である。そばにいた他の補助監督たちが気付いてすぐに助けてくれたから事なきを得たものの、そのたった一瞬の出来事で私がオメガであることは周知の事実となった。そしてそれは、何よりも規律を重んじる京都校にとって看過できない問題だったのである。
楽巌寺学長の考えはこうだった。京都校にオメガは不要、ただちに排除する。それが、夏油さんの言葉を借りて言うならば『中途半端な時期に異動してきた理由』だ。
正直言うと、呪術界を去ることも考えた。でも結局、どこに行っても人と関わる以上割を食うのは私たちオメガであることに変わりはない。それならば、全てを知った上で私を受け入れてくれた夜蛾学長に恩を報いるためにも、もう少しこの世界で頑張ろうと思った。けれど。
「また、同じことの繰り返しか……」
小さなカプセル状の薬を手のひらで転がしながらそう呟く。勢いで飛び出してそのまま高専まで戻ってきてしまったけれど、思い返してみればあんな形で夏油さんを置き去りにしてきてしまったのは、まずかったのではないか──。そのことに今更気が付いて、私は深いため息を吐いた。
この香り。夏油さんは確かにそう言った。恐らくだが、誰よりも優秀な夏油さんはアルファに違いないだろう。そう考えると、私がオメガであることに気付かれてしまった可能性が高い。
これからどうしよう。そんな答えの出ない難問に悩みながら、私は抑制剤を口に放り込みペットボトルの水で流し込んだ。確かにそろそろヒートだから、今のうちに薬を飲んでおくに越したことはないだろう。
がちゃ、と補助監督室のドアが開く。ごきゅ、ごきゅ、と喉を鳴らしていた私は、その開いたドアから現れた人物の姿に目を見開いた。
「んぐ、えっ、なんっ」
「やあ、さっきはどうも」
「、げほっ」
水が変なところに入ってしまい噎せる私を見て、夏油さんがはは、と小さく笑う。静かにドアを閉めてこちらへ近付いてくる夏油さんに対し、私は袖で濡れた口を拭い何度も咳込みながら一歩ずつ後ずさった。
夏油さんに限った話ではないが、わざわざ補助監督室を訪ねる術師はそうそういない。だからこの部屋は私にとって、ある意味『安全地帯』のようなものだったのに。泣きたくなる気持ちを抑え込んで「あの、何か……」と声を絞り出したものの、夏油さんは笑みを携えたまま何も答えない。後ずさるのにも限界があり、私はあっという間に壁と夏油さんの間に挟まれてしまった。
威圧とは少し違う。夏油さんから発せられるただならぬ何か。先程からずっと頭の中で警笛が鳴っていて、『一秒でも早くこの人から逃げなければならない』と思うのに、身体がおかしくてうまく動けない。
夏油さんの鋭い目がぴくりと動く。同時に部屋の外から誰かの足音が聞こえて、私が声を上げるより先に夏油さんが私の手を引いた。そしてなんと、そのまま補助監督室から繋がる小さな資料庫へ私を押し込んだあと、なぜか自らも一緒に入り扉を閉めたのだ。
「さん、今日の……あれ?」
うるさく鳴り続ける自分の心臓の音、微かに聞こえる夏油さんの心音。それに混ざって聞こえてきた、伊地知さんの声。恐らく今日の現場の件で私に用があったのだろう。「おかしいな」と小さく呟いた彼が何やら書類を漁る気配を感じる。
資料庫は小さな物置部屋のようなものだ。一人通るだけでやっとの幅、長さは二メートルないくらいの通路の両脇の棚に、所狭しと過去の案件や呪霊に関わる資料の一部が格納されている。そんな場所に大の大人が二人──しかも片方は平均よりもずっと体格に恵まれている男性なわけだから、当然互いに身体を密着させなければならない状況だった。
大きく武骨な手が私の口を覆う。鼻は塞がれていないので息はできるものの、唇に触れる夏油さんの温もりや匂いを敏感に感じ取ってしまい、生きるための呼吸で死んでしまいそうだ。
それから数分ほど経った頃だろうか。伊地知さんが部屋を出て行く音が聞こえ、すぐに両手で私の口を塞ぐ夏油さんの手をぐいぐいと引けば、ようやく解放されて私は大きく息を吐いた。慌てて資料庫のドアを開けようとすれば、今度はその手を夏油さんが掴む。私は「ひっ」と小さく声を上げた。
「は、離してくだ……」
「離したら逃げるくせに」
ぐぐ、と手首に込められた力に顔を歪めるが、夏油さんは離そうとしない。
「せめて、外に」
「昔、桜の花には人を興奮させる成分が含まれているという噂が流れてね」
結局それは嘘だったわけだけど。私の言葉など聞かず淡々とそう話す夏油さんは、掴んでいる私の手首を持ち上げて後ろの戸棚に強く押さえ付けると、首筋に顔を寄せてすう、と息を吸った。顔のすぐそばに夏油さんの頭があって、彼の黒い髪が私の頬に触れる。
夏油さんが一体何の話をしているのか、分からない。お願い、やめて、やめて。小さく懇願する私の瞳を一瞥した夏油さんは、私の手首を離し耳に口付けた。全身を震わせるような、どこか熱を帯びた声が耳の奥に捩じ込まれる。
「、君、オメガだろう」
腰が抜けた。がくん、と勢いよく。しかし最初から狭い場所で密着していたため床に座り込むことはなく、目の前にいる夏油さんに全体重を預ける体勢になってしまった。
今でも忘れない。京都で術師に襲われたときも、今の夏油さんと全く同じことを言われた。ねっとりとした、欲望を滲ませた声で「お前、オメガだろ」と。そのとき自分の中に沸き上がったのは、恐怖と嫌悪、その二つだけだった。それなのに、今はどうだろう。は、は、と小さく早い呼吸を繰り返す。身体だけでなく頭もおかしくなりそうだった。生まれてからずっと付き合ってきた自分の身体のことも、第二の性のことも、今になって何一つ分からなくなってしまっている。
ぐったりとしている私の腰を、夏油さんが優しく撫でた。その手つきに大げさなほど全身が跳ね上がって、頭の中が羞恥心でいっぱいになる。もう片方の手で顎を優しく掴まれたかと思ったら、半ば強制的に目線を合わせられた。上を向いたせいで、目の端から一滴涙が零れ落ちる。
夏油さんはうっそりと笑った。
「かわいいなあ、本当に。自尊心の低さ、周囲への恐怖心、それらを全然隠せてないくせに隠せてると思っているところが、馬鹿でかわいい」
「何、言って」
「初めてを見たときから、ずっとずっと触れたくて仕方がなかったんだ」
「はじ、めて……?」
頭の片隅に浮かんだのは、廃ビル内の一室で微笑む夏油さんの姿だった。しかしすぐに、夏油さんが「今日じゃない」と首を振る。
「私たちが初めて会ったのはもう少し前だよ。と言っても、私が一方的にを見かけただけだけどね」
私が京都から異動してきた初日に、伊地知さんと並んで歩いている私を見かけたこと。一目見ただけで、今まで抱いたことのない感情が芽生えたこと。私がなぜ京都から異動してきたのか、その理由を知っていること。そしてその結果、抱いた感情の『答え』に気付いたこと。
頭がぼんやりとして、一方的に話す夏油さんから目を逸らすことができない。与えられた情報をうまく整理できないまま、気が付いたらすぐ目の前にあった夏油さんの唇が私の唇に触れていた。
いくら私がオメガだからと言って、こんなことがあっていいはずがない。そう思うのに強く拒むことができなくて、私は握りしめた拳を夏油さんの胸元に置いて強く目を閉じた。
少しだけ乾いた、夏油さんの唇。優しく触れるだけ、を何度も何度も繰り返す。今日初めて合わさったはずなのに、まるでずっと昔から互いの唇の感触を知っていたようだ。
彼の舌がゆっくりと私の舌を絡みとったとき、もうどうでもいい、とうにでもなれ、と思った。これから先のことも、第二の性のことも、全部、何もかも。
顎に触れていた夏油さんの手がするすると移動して私の後頭部に回される。そしてその手はそのまま下がり、私が一番守らなければならない場所の上で止まった。あ、と口付けの合間に小さな声を漏らせば、夏油さんは熱っぽい息を吐いた。
「……悟が君に気付く前でよかった」
「え……?」
唇が離れ、私は夏油さんと見つめ合った。頬と耳が僅かに赤く染まった夏油さんの瞳に映る私は、きっと夏油さんよりもずっと欲に塗れた顔をしているのだろう。浅い呼吸を繰り返す私に、夏油さんはそっと微笑む。
「悟もアルファだからね……あ、私もアルファなんだよ」
そんな今更なことを、とぼけたように口にした夏油さんに一層強い眩暈を感じた。急に、そんな子どもみたいな顔、今の私に見せないでよ。学生の頃から大人びて見えた夏油さんの大人らしくない表情に、塵ほどしかなかった余裕が一瞬で吹き飛んでいく。
一秒でも早く、この人から逃げなければいけない。つい先程までそう思っていたはずなのに、今はとにかく目の前の夏油さんに縋りたい。やめないで、続きをして、と懇願したい。ふつふつと身体の奥から顔を出し始めた自分の欲望を押さえ付けるように私は俯いた。
正確にはまだヒートではないし、それでも念には念を入れて薬も飲んだ。なのにどうして、アルファの夏油さんより自制が効かないのだろう。
「、顔を上げて」
「ひっ、あ」
うなじを撫でられ、ぞくぞくと何かが湧き上がってくる。もうだめ、助けて。うわ言のようにそう呟けば、ごくり、と夏油さんの喉が上下した。うなじに触れた夏油さんの手に力が込められる。
「、。私が助けてあげる」
汗で額や頬に張り付いた私の髪を指で掬った夏油さんは、身を屈めて私の耳朶に歯を立てた。同時に、再びぽろぽろと涙が落ち始める。悲しいわけでも、辛いわけでもないのに。
「私たちは番になるべきだよ。だって『運命』だからね」
夏油さんが気付いたという『答え』。それを耳にした途端にいろんな感情が押し寄せてきて、私は思うがままに夏油さんの首に腕を回した。
「夏油、さん」
初めて声に出して呼んだ名前。ゆっくりと、差し出すように頭を傾けてみせれば、ごくり、と夏油さんの喉が鳴る音が聞こえる。
「夏油さん」
もう一度だけ彼の名前を口にすれば、すぐに首筋に鈍い痛みが走った。
大きな波に攫われて、飲み込まれて、きっともう二度と戻ってこられない。そんな気がする。
(2023.4.13)リクエストありがとうございました!