ずっと好きだった、僕と付き合って。
 休憩のときに必ず飲んでいるカフェオレをいつもの自販機で購入し、取り出し口に手を入れたときのこと。突如現れて大きな影を作った悟の言葉に、屈んでいた私はぽかんと口を開けた。
 なぜ、驚いているのか。それは長い付き合いで同期でもある悟から告白されたからではない。昨日、まったく同じ告白を受けたばかりだからだ。他の誰でもない、悟から。

「えっと……」
 
 ペットボトルの温もりを指先で感じながら、そう呟く。時間稼ぎの言葉にしては大して時間を稼げるわけでもなく、いまいち状況を理解できないまま私は立ち上がった。自販機に腕をついてこちらを見下ろす悟の顔つきは昨日と同じく真剣そのものだ。

「……時間、巻き戻してる感じ?」
「さすがの僕でもそれは無理」

 軽くふざけてみたのだがあっさりと一蹴されてしまい、ゆっくりと近付いてきた悟の顔に、返答に困っていた私は目を奪われた。
 悟のことをそういう風に見たことはなかった──。昨日悟から告白されたとき、私はそう言って断っている。それに対し、悟は確かに「分かった」と了承したはずだ。なのになぜ二度も、しかも連日告白なんてするのだろう。
 背中がとん、と自販機にぶつかる。とりあえず「ごめん」と早口で謝罪した私のすぐ目の前に迫った悟は、少し間を置いてにっと口角を上げた。

「OKもらうまで毎日言うから、覚悟しといて」

 この瞬間から悟と私、どちらが先に諦めるかの勝負が始まった──のだが、その勝負は案外早く決着がついた。ある日トイレに行きたいのをずっと我慢していたとき、まるで門番のように女子トイレの前に立ちはだかった執念深い悟から五回目の告白を受け、私が折れたのだ。初めてできた恋人への告白の返事が「付き合うから! 付き合うからトイレ行かせて!!」だったのは一生の恥である。

* * *

 OKしたものの、すぐに関係は終わってしまうと思っていた。悟のことだから、ある日突然「飽きちゃった」「期待してたのと違った」「冗談だった」とかなんとか言って、ただの同期に戻るのだろう、と。
 珈琲の香りが漂ってきてゆっくりと目を開ける。悟の部屋に置いてあるグレーの大きなソファに膝を抱えて座ったまま、私は悟の細いようでがっしりとした背中をぼんやりと見つめた。三か月。悟と恋人同士になって、一年の四分の一が過ぎてしまった。
 正直、恋人としての三か月が長いの短いのか、私にはよく分からない。しかし、お互い多忙で一緒に過ごす時間も限られているからだろうか。意外にも悟から「飽きた」「期待外れ」「冗談」などと言われ関係が解消されることもなければ、それとは逆に手を繋いだり身体を触れ合わせたり……といった恋人らしいことも何一つしていなかった。
 こんなものなのかな、恋人同士って。ぼうっとそんなことを考えていたので、急にくるりと振り返った悟にぎくりとする。両手に湯気のたつコーヒーカップを持った悟は、にこにこと笑いながら私の隣に腰を下ろした。

「特製カフェオレ完成~! のは砂糖少なめでよかった?」
「うん、ありがと」
「はい、じゃあ一か月お疲れさまってことで、乾杯~」

 ホットのカフェオレで乾杯って、ちょっと違和感。ふふ、と笑いながらカップをかちん、と合わせると、悟は大きくため息を零し「一か月も休みなしってどうなの、お互い」とぼやいて砂糖たっぷりのカフェオレを啜った。
 呪術師に休みなし。学生時代にそんなことを言っていた呪術師がいたが、彼はそのときずっと年下だった悟の実力を目の当たりにしてあっさり呪術師を辞めてしまった。そもそも呪術師自体が希少なのに、辞める・消える・死ぬ呪術師が後を絶たないので、いつまで経っても残された私たちの労働環境は改善されないままだ。
 久しぶりの休み、ゆっくりするんだよ。昨夜、私が送ったメールに対し、悟は一分も経たないうちに返事を送ってきた。二人でゆっくりしようよ、と。

「映画、何か面白いのあるかな」

 悟の言う『ゆっくりする』は、大体『家で映画を観る』だ。それは学生時代から変わらない。
 悟がリモコンを探していることに気付いた私は、自分の太腿で隠れていたそれを手に取った。

「リモコン、ここに──」

 おっと。
 悟もリモコンがある場所に気付いて取ろうとしていたのか、ぱ、と悟の方を振り向いたら至近距離に整った顔があって、心臓がぎゅっと強く握り潰されるような気がした。見慣れた青い双眼に映り込んでいる私は緊張した表情を浮かべていて、身体が金縛りにあったかのように動かない。そしてそれは、悟も同じだ。
 え、待って。なに、このドラマみたいな雰囲気。たった一言、「リモコンあったよ」と言えばまた元の空気に戻るはずなのに、その短い言葉が出てこない。変に意識してしまっていることが、そして恐らく意識してしまっていることに気付かれていることがどうしようもなく恥ずかしい。
 悟の手がすっと伸びてきて、私は咄嗟に目を閉じた。

「ありがと~」
「えっ、あ、はい!」

 悟は私の手からリモコンを受け取ると、何事もなかったかのように顔を離しテレビへと視線を向けた。「何系が見たい?」と尋ねる悟の横顔はいつもと同じもので、羞恥心でいっぱいになった私は先程よりも強く膝を抱きかかえた。いっそこのままソファに沈んでしまいたい。
 友達から恋人になるって、やっぱり難しい。というか、さっき明らかにそういう雰囲気だったのに避けたってことは、そういうことだよね。別にいいんだけどね。ショックとかじゃなくて、ただ恥ずかしいだけだし。
 あなたが興味のありそうな映画、という項目を選択した悟が、急に何かを思い出したかのように「あ!」と声を上げた。

「な、なに、どうしたの?」
「明日の夜、冥さんと食事に行ってくるね」
「あ、うん……」

 やば、忘れるところだった、スケジュール入れとこ。そう言ってうきうきとした様子でスマホを弄る悟に「二人きりで?」と聞くことはできず、小さく「映画、恋愛系以外で」と呟いた。とてもじゃないが、今は恋愛映画を観る気分ではない。変に感情移入してしまったら、いろいろときつい。
 冥さん、一応女なんだけどな。一気に気持ちが沈んでしまった自分に嫌気がさして、私は隣に座る悟にばれないように小さくため息をついた。別にいいんだけど、ね。

* * *

「結構遅くなったっスね……このままご自宅まで行っちゃって大丈夫っスか?」
「ん~」

 どっちつかずな返事をする私を、新田ちゃんが一瞥する。彼女はシートベルトを締めながら苦笑したあと、「さすがに呪霊三体はきつかったっスよね」とキーを回した。
 暗い景色の中にぽつぽつと散らばる明かりが流れていくのを眺めながら、昨日のこと、そして今頃楽しく食事をしているであろう二人のことを思う。悟と冥さんだから、『楽しく』ってのはちょっと語弊があるかもしれないけど。
 雑念をシャットアウトしようと目を閉じたとき、隣に放り投げていたスマホが短く震えて自分でも驚くほどの速さで手に取った。電話じゃない。SMSのようだ。それだけで期待している相手とは違うことが分かりテンションが下がったが、意外な送り主とその内容に私は大声を上げた。

「新田ちゃん!」
「んえ!?」

 驚いて普段とは違う反応を見せた新田ちゃんは、座席から腰を浮かせて運転席を両手で掴む私に目を見開いた。戸惑いながらも運転を続ける彼女に向かって、「行き先変更で!」と告げる。
 SMSの送り主は冥さんだった。そして内容はこうだ。

 『久しぶり。五条くんが間違えてお酒を飲んでしまって、悪いけど迎えに来てもらえるかな』

 いや、普通間違えるか? 思わずそう零した私に、新田ちゃんは不思議そうに首を傾げた。

* * *

「忙しいところすまないね」
 
 絵面的にイタリアンとかフレンチが似合いそうな二人が会食の場に選んだのは、都内でも有名な創作和食の店だった。個室の部屋は狭いが小綺麗で、丸く切り取られたような窓のそばには高そうな丸皿が置いてあり、その隣には白い花が活けてある。ほりごたつに脚を入れたまま襖に背を向けて横になる悟と、猪口を片手に笑う冥さんを交互に見てまず出てきた言葉は「冥さん、日本酒も飲むんですね……」だった。

「意外かな」
「なんというか、ワインのイメージが強くて。悟も日本酒を?」
「ああ」

 グラスに入れていたのを誤って飲んだらしい。そう話す冥さんは私服姿で長い髪を片側に流しており、いつにも増して妖艶に見えた。
 飲む前に気付かなかった? 上着を脱ぎながらそう問いかけ、悟のそばにしゃがみ込んで顔を覗き込む。どうやら眠っているようだ。頬が僅かに赤くなっているような気もするが、暖色の照明のせいだと言われればそんな気もする。伏せられた睫毛の長さに思わず見惚れていたら、冥さんがことん、と猪口をテーブルに置いた。

「五条くんから聞いたよ」
「え?」
「付き合ってるらしいじゃないか」

 頬杖をつき楽しそうに笑う冥さんの顔には、『面白いこと聞いた』と書かれているように見える。「まあ……」と覇気のない言葉を返し悟の隣に座った私を見て、彼女は小さく首を傾げた。
 あまり深くは知らないが、冥さんはお酒に強いのだろう。まったく酔っている様子はない。「何か悩みでも?」と尋ねる彼女は顔色一つ変えることなく、手酌で酒を注ぎ始めた。
 お酒に強い弱いも知らないのだから、冥さんの恋愛経験なんて知るはずがない。しかし、胸の内で燻っているこの気持ちを吐露してしまうには十分すぎるタイミングと質問だった。

「冥さん……」
「ん?」
「今まで全然意識してなかった相手に告白されたら、いつの間にか自分の方が好きになってた……って恋愛あるあるですか?」
「さあね」

 さらりとした冷たい返事に、思わず口から「ええ……」と不満が漏れ出す。しかしそんな私の反応に冥さんは動じることなく、指で輪を作り微笑んだ。

「私は愛だの恋だのには興味がないんだよ」

 金に換えられないからね、という冥さんの決め台詞に私は項垂れた。しかし興味がない、という割には話を続けたいのか、すぐに次の質問が飛んでくる。

「今はくんの方が五条くんを好いている、ということかな」
「う、まあ、そうなります、かね」
「若いね」
「……でも悟って恋人らしいこと全然してこないし、何を考えているのか分からなくて……ひょっとして全部冗談だったのかなって思ってます」

 いずれ終わってしまう関係なのだから、悟の気が済むまでとりあえず付き合ってあげよう。すぐに終わったとしても、それはそれで別にいい。そう思っていたはずなのに。いつからだろう、私の気持ちが変わってしまったのは。
 笑いながら「冥さんと二人で食事に行くって聞いたときも、少し嫉妬したんです」と言えば、冥さんは喉の奥でくつくつと笑い、「嫉妬だなんて光栄だね」と呟いた。余裕だ。この余裕を私にも分けていただきたい。
 そろそろタクシーを呼ぼう。そう思い悟を起こそうとしたとき、冥さんはテーブルに伏せて置いていたスマホを軽く持ち上げた。

「実はもう迎えは呼んであるんだ」
「あっ、え? すみません!」
「店の前にタクシーが来てると思うから、見てきてくれるかい? 五条くんの名前で呼んでる」

 その間に起こしておくから、と言う冥さんにもう一度頭を下げる。しかし立ち上がり襖を開けたところで、なんだか嫌な予感がした。冥さん。私が今まで話をしていた相手は、あの冥さんなのだ。そのことに今更気が付いて、恐る恐る振り向いた。

「あの……話を聞いてもらった上に迎えまで呼んでもらって、き、今日のお代は如何ほど……?」

 不安そうな私とは対照的に、冥さんは一瞬だけ目を丸くしたあと、初めて声を上げて笑った。

「君から金はとらないよ」
「よ、よかった……ありがとうございます!」

 ほっと胸を撫で下ろし、そのまま部屋を後にする。冥さんの言う「君から」という部分が少し引っかかったものの、恐らく今日の食事代は全部悟が持つということなのだろう。特に私の悩みが解決したわけではないけれど、お金をとられることはないと分かっただけで出口へ向かう足取りは来たときよりも軽やかなものだった。

「……振込はいつもの口座によろしく」

 君も女々しいところがあるんだね。襖の向こうで日本酒を煽る冥さんの小さな呟きを、私は知らない。

* * *

 私は馬鹿だ。よくよく考えてみれば、最初からおかしかったじゃないか。悟が間違えてお酒を飲んだことも、他人に興味のない冥さんが私に悩みを聞いてきたことも、それでいてお金をとらなかったことも、酔っ払って眠っていたはずの悟の足取りがタクシーに乗る前から悟のマンションの部屋に入るまでしっかりしていたことも、全部全部おかしいじゃないか。
 広々とした清潔なベッドの上で私を組み敷く悟の瞳を見つめたまま、私はぐっと眉間に皺を寄せた。やっぱりだ。悟、全然酔ってなんかない。それなのにどこか熱っぽく、いつもと違う調子で「」と名前を呼ばれたものだから、心臓が口から飛び出るのではと思うほど勢いよく跳ねた。

「だっ……騙した、ね?」
「ふ、馬鹿だなあ。僕が間違えてお酒を飲むなんて、あるわけないじゃん?」
「なんで……!」
が今、僕のことをどう思っているのか確かめたかったんだ」

 そのために冥さんに高~いお金払って協力してもらったの、と笑う悟を目の前に、どんどん全身の力が抜けていく。私がどう思っているかだなんて、私に聞けばいいのに。いつもの悟らしくない。
 そう言おうとしてはっとした。私だって、悟が何を考えているか分からない、と冥さん相手に零したばかりだ。

「でもも僕のことをちゃんと好きで、恋人らしいことをしたがってるみたいで安心した」
「それは、あ、ちょ!」

 油断していた。服の隙間から侵入してきた悟の手が、何にも守られていない無防備な私の腹をするりと撫でたので思わず悲鳴を上げた。空いた方の手で悟の胸を押せば、彼の膝が太腿の間に割って入ってくる。

「こっ、こここここ」
「いつから僕の彼女はニワトリになったの?」
「心の準備が!」
「え? この間映画見てたとき、期待してたじゃん」

 びくともしない悟の身体を押し返しながら、期待してたわけじゃない、少し意識しちゃっただけで、と弁明をするも、信じていないのかどうでもいいのか、悟は嬉しそうに笑いながら「可愛い」と言うだけだ。
 今まで一度も言われたことがないその言葉に不覚にも胸を打たれてしまったが、それを隠すように苦し紛れに言葉を繋いでいく。

「私、あれ、任務だったから! 汚いし、くさい……」
「別にくさくないけど……でもシャワー浴びてくる? なんなら一緒にお風呂入る?」
「なんでそんな急に積極的になるの!?」
「冥さんとの話を聞いちゃったらね、こうなるでしょ普通」

 悟はそう言うと、顔を寄せて私の額に優しく唇を落とした。というかなんで僕じゃなくて冥さんに言うの。僕も冥さんに嫉妬しちゃうよ。ふにゅ、とくっついた唇の柔らかい感触とすぐ目の前で動く悟の喉仏に、ずっと激しく動き続けている心臓がぱたりと止まってしまいそうだ。

「シャワー浴びてくる? なんなら一緒にお風呂入る?」
「じっ時間を巻き戻すな……!」
「戻せても戻さないよ、だって僕ら」

 額の次は瞼、鼻、頬とゆっくり悟の唇が下りてくる。普通のキスよりもなんだか色っぽくて、抵抗の仕方も、そもそも自分が本当に抵抗したいのかも分からないまま、ひいい……と小さく声を上げる。少しして、悟は私から顔を離すとにんまりと笑った。
 そんなきれいに、悪戯っぽく笑わないでほしい。そんな顔をされたら、私を騙したことも、相変わらず腹をするすると撫で続けていることも、全部全部許してしまうから。

「そろそろ、先に進む頃じゃん?」

 言いたいことはたくさんあるはずなのに、何も言えない。とりあえず「すけべ野郎」とでも言ってやろうかと思ったけれど、「す」の次に口から出てきたのは私の意に反して「き」だった。何とも弱々しく短い愛の言葉だ。
 とうとう悟の唇が私の唇に触れる。優しいけれどどこか強引な口付けに、私は思考を手放したのだった。


その先にはただの愛



(2022.12.16)リクエストありがとうございました!