自他ともに認めていることだが、俺は真面目な人間じゃない。呪術師である以上、任務は卒なくこなすものの報告書は補助監督から催促されるまで提出しないし、通常授業の日は遅刻が当たり前。担任からよく後輩のフォローをするよう言われるが、そんなの一度だってしたことない。『真面目』だなんて言葉、一生自分に充てられることはないだろう。
『夜には戻るから、明日はいつも通り授業に出るよ』
昨日の夕方、携帯に届いた一通のメール画面を開く。『出るよ』の後ろに添えられた笑顔の絵文字につられて頬が緩んだ。返信をした方が良かっただろうか。昨晩、散々悩んで結局しなかったくせに、また同じことを考えているらしくない自分に嫌気がさす。
短い文章を何度も読み返したあと、俺は携帯をしまい静かに自室のドアを開けた。そしてそのまま音を立てずに廊下を歩き、一番注意しなければならない隣の部屋の前は息を止めて通り過ぎる。
邪魔が入ったら困るんだよ。今日は。
* * *
「悟だ、珍しい」
教室には、自席につきボールペン片手に足をぶらぶらさせているがいた。三日ぶりに顔を合わせたは、俺を見て「おはよう」と柔らかく笑う。いつものだ、と妙に実感したあと、久しぶりに自分へ向けられた笑顔の破壊力に目眩がした。
「珍しい、ってなんだよ」
席順は、窓際から硝子、、傑、俺だ。しかし俺は自分の席を飛ばし、の隣──傑の席に腰を下ろした。ちらりと彼女の机に目を向けると、ちょうど書き始めたばかりだったのだろう、日付と場所のみが記載された空白の多い報告書が置かれている。
「だって悟、授業の日はいつもギリギリか遅れて来るでしょ。だから早く来るなんて珍しいなと思ってさ」
「バーカ、俺だって真面目になるときくらいあんだよ」
に、どうしても二人きりで話したいことがあったから。
わざわざ早く教室へ来た本当の理由を隠し、一生自分に充てられることはないと思っていた『真面目』という言葉を使ってごまかす。は「真面目な悟、ちょっと怖いかも」と言うと、くすくすとおかしそうに笑った。
ばつが悪くなった俺は、の目の前にある報告書を指先でとんとん、と叩く。
「今回の任務、特に問題なかったんだろ?」
「うん、私が現着してからは被害なし。問題なく終わらせたよ」
得意気にそう言ってのけたは、報告書に視線を落とすと記入者の欄に『夏油』と自身の名前を記した。
よく『字には書き手の性格が現れる』と言う。根拠も何もない話だが、の字を見ているとあながち間違いではないように思えた。迷いのない線で書かれたの癖のない整った字は、ぶれることなく誰に対しても平等で、そして誰からも好まれるの性格が表れているような気がする。
静かな教室に、がボールペンを走らせる音が響く。開いている窓から入ってきた風がの髪をさらさらと揺らし、俺はその髪に触れたい衝動に駆られながら彼女の横顔に「なあ」と声をかけた。重力で落ちてくる髪を耳にかけながら、が顔を上げる。
「ん?」
「あのさ……今度の休みなんだけど」
今日、早く教室へ来た本当の理由。それは、この話をするため。切れ長の瞳を俺に向け、は「休み?」と首を傾げた。
妙に心臓の音がうるさい。生まれて初めて呪霊を祓ったときですら、こんなに緊張はしなかったように思う。
溜まった唾液を飲み込み、意を決して口を開いたときだった。
「俺と、」
「おや、明日は雪が降るかもしれないな」
その聞き慣れた声を耳にした瞬間、自分の口からは言葉の続きやため息よりも先に舌打ちが飛んだ。それまで独り占めしていたの視線が教室のドアの方へ向けられる。
「悟がこんなに早く教室にいるなんて」
「傑、おはよ」
「おはよう、」
全身から力が抜けてしまった俺は椅子の背もたれに身体を預け、こちらにやってきた傑をサングラスの隙間から睨みつけた。
つーか、お前だってこんなに早く来るタイプじゃねえだろ。胸の内でそう悪態をつきながら、「学生が早く教室に来ちゃいけないんですかあ~?」と声を上げる。
「別に悪いとは言ってないさ。そんなことより」
「『そんなことより』だ?」
「、昨日の夜は遅かったみたいだけどちゃんと休めたかい?」
「車の中で寝てたから、全然平気だよ」
先程までの俺に対する冷ややかな目つきは何だったんだ。混乱してしまいそうになるほど、と話すときの傑は慈愛に満ちた表情を浮かべている。
俺には双子の妹なんていないから、傑の気持ちはよく分からない。しかしよく分からなくても、傑がへ注ぐ『愛情』と呼ぶことすら憚られるそれは『家族』の枠を超えているのでは、とたまにぞっとするときがあった。
結局、今日もいつものように邪魔が入ってしまった。苛立つ俺の肩に、との会話を終えた傑が軽く手を乗せる。
「悟」
「んだよ」
お前のせいで。そんな感情を乗せて聞き返せば、傑は目を細め、口元だけに笑みを携えて俺──ではなく、机を指さしてこう言った。
「そこ、私の席」
* * *
「シスコン、きっも」
体術の授業に備え、着替えに行ったや硝子よりも先に外に出ていた俺は、軽く腕や脚を伸ばしながら隣に立つ傑にそう吐き捨てた。傑はちらりとこちらを一瞥すると、俺の挑発に、ふ、と息を吐いて笑う。
「心外だな、可愛い妹を野蛮な狼から守るのは当然だろ」
「だーれが野蛮な狼だコラ、お前は度を越してんだよ」
軽く傑の膝裏に蹴りを入れたものの、傑は体勢を崩すことなくジャージのポケットに手を突っ込んだまま呆れたようにため息を零した。
「別に、君なら……」
「あ?」
「悟、君ならでなくてもいいだろう」
何度も言われたことのあるその言葉に、次は傑の尻に蹴りを入れる。今度は先程よりも些か苛ついたらしい。不機嫌な様子の傑に向かって俺は鼻を鳴らし笑ってみせた。
と初めて出会った日のことは今でもよく覚えている。高専には入学式なんてものはなく、教室で初めて顔を合わせた俺や硝子に対し、僕たちは双子なんだと説明する傑の後ろにちょこんと立っていた。
「双子にしてはチビガキだな」
俺のその言葉にそれまで笑顔を浮かべていた傑は表情を一変させ、はそんなことを言われるとは思っていなかったのか「えっ」と小さく声を上げた。そして傑が俺に向かって何かを言う前に、彼女は傑の横を通り過ぎて俺の前に立つと、こちらを見上げて片手を差し出し、ふわりと笑ってこう言った。
「確かにチビガキだけど弱くはないよ。クラスメイトとして仲良くしてね、五条くん」
握手こそしなかったものの、傑のように怒るわけでもなければ硝子のように無関心なわけでもなく、素直に俺に歩み寄ってきたに不意打ちを食らった気分だった。理由は二つ。男でも女でも、媚びることなく対等な立場で仲良くしようと言われたのは初めてだったから、というのが一つ。そしてもう一つは、そのときのの顔が呼吸を忘れてしまうほどきれいだったから。
それが俺との出会いであり、俺がに惹かれるきっかけとなったできごとである。
悟、と呼ばれて我に返る。目の前には、あの日と同じように妹のことを想う傑がいた。
「いくら親友でも、が御三家の人間と一緒になって幸せになるとは思えない」
「勝手に決めつけんなよ、いい加減妹離れしろよな」
肩を竦めもう一度「きもいんだよ」と言えば、傑は空を見上げて深く、長く息を吐いた。
双子のくせに、全然似てねえな。辺りに鳴り響くけたたましいアラートの音に頭を掻きながら、今までに何度も思ったことを改めて思う。傑はと違い、冷静なように見えて案外キレやすいのだ。
* * *
「たそがれてるね」
声が聞こえ、顔を上げる。ガゴン、と音を立てて自販機から吐き出されたペットボトルの水をは手に取り、近くの長椅子に座っていた俺に向かって投げた。俺がそれを受け取ったのを確認し、もう一度自販機に向き直るの横顔は相変わらず美しかった。
「……傑は?」
「夜蛾先生から雑用任されてる」
は「今回の喧嘩の原因は?」と尋ねると、追加で買ったペットボトルのお茶を持ち俺の隣に腰を下ろした。
あのあと、傑が呪霊を出したあと。すぐに駆け付けた先生からそろって鉄槌を食らい、先に術式を発動させた傑はそのまま連行されてしまった。
首を傾げて俺の答えを待つに、喧嘩の原因はお前だなんて口が裂けても言えない。もらった水を一口飲み、「お前の兄貴、なんなのまじで」と言えばはけらけらと笑った。いや、笑いごとじゃねえんだけど。
「でもまあ、傑は悟と一緒にいるときが一番楽しそうだよ」
「なんで一緒にいて楽しい相手に呪霊けしかけるんだよ」
「愛情の裏返しってやつじゃない? あと私、今度の休み暇です」
軽く挙手しそう告げたの顔をまじまじと見つめる。私、今度の休み暇です。話の流れが掴めず、急な報告に一瞬だけ戸惑ったものの、すぐに朝の話の続きをしているのだと気付いた俺は情けないことに「な、なんで」と声を裏返らせた。
「なんでって、今度の休みの日、どこかに誘ってくれようとしてたんじゃないの? それくらい分かったよ」
持っていたペットボトルに視線を落とし小さく笑うを見て、俺はあることに気が付いた。今、二人きりじゃん。警戒すべき邪魔者も、今なら来ることはない。
昨晩、眠りにつく前に何度も考えた言葉を頭の中で繰り返す。今度の休みなんだけど、俺と映画でも行かない?
「じゃあ、俺がどういうつもりで誘おうとしてるかも分かってんの?」
考えていたものとは全く違う言葉が口から出てきて、自分でも驚いた。でもそんな俺以上に、の方が驚いているように見えた。
暫し沈黙が流れ、すぐに「しまった」と後悔する。こんな試すようなことを言ってしまったら、勘のいいは俺の気持ちに気付いてしまうだろう。せっかく今まで、はもちろん傑にだって気付かれないように気を付けていたのに。
──でも、あれ。傑って、なんで俺がを好きってこと、知ってんだっけ?
すぐそばにある自販機の音がやけに耳障りだ。小さな声で、が「……じゃあ」と呟く。ぼうっと、どこを見ているのか分からなくなっていた俺はに視線を戻した。
「じゃあ、悟は私がどういうつもりで朝の話の続きをしているか、分かる?」
双子のくせに全然似てない、と思っていたの顔が傑と重なって見えた。あいつと同じ、相手のことを何でもお見通しだ、と言わんばかりの表情を浮かべる。彼女の頬が、ゆっくりと赤らんでいく。
「悟は、分かりやすいんだよ」
初めて握ったの手は、当たり前だが女子の手だった。小さくて柔らかくて、温かい。
どんなに俺が分かりやすい人間だったとしても、彼女が俺の手をそっと握り返してくれたとき、不覚にも泣きそうになってしまったことだけは一生隠し通したいと思った。
* * *
勢いよくドアを開ければ、部屋の主は風呂上がりだったのだろう。上半身裸で濡れた髪を拭きながら、ちらりと俺に視線を寄越しわざとらしくため息を吐いてみせた。
「悟、ノックくらいしなよ。常識だろ」
「俺、と付き合うことになったから」
「そう」
壁際に置かれているボックスの中からTシャツを引っ張り出し、着替える傑の背中を俺はぽかんと眺めた。少しだけ悩んで、もう一度「俺、と付き合うことになったから」と、先程よりも大きな声で告げる。
傑は手首に引っかけていたゴムで髪を束ねながら、鬱陶しそうな表情をこちらに向けた。
「不愉快だから二度も言わないでくれるかい」
「いや不愉快ってお前……つーか、聞こえてんじゃん。なんだよその冷めた反応」
てっきりいつものように憤慨して「君とは一緒になっても幸せになれない」だとか、「可愛い妹を守る」だとかなんとか、ぞっとするようなことを言われると思っていた俺は呆気にとられながらもそう尋ねた。いつもの反応だったらだったで面倒なのだが、あっさり納得されてしまうとそれはそれで気味が悪い。
ベッドにぼすん、と横になった傑は、仰向けになり黙って天井を見つめている。恐る恐る、俺はベッドのそばに立ち傑を見下ろした。
「兄としてを守ることも大事だけど、それと同じくらいの意思を尊重することも大事だからね……不愉快だけど」
「お前こそ不愉快って二度も言うんじゃねえよ」
「まあ」
傑はむくりと起き上がると、人差し指で俺の腹を軽く突いた。
「を傷つけたら、私は君を殺すけど」
「……上等だよ」
笑ってそう言えば、長い間ひっかかっていた何かがようやくとれたような、そんな気がした。長年想いを抱いていた相手と付き合うことになったし、もう俺との関係を邪魔するやつもいない。このまま順調にいけば、傑がシスコンを卒業する日も案外近いかもしれない。
久しぶりに清々しい気持ちで部屋を出ようとしたとき、傑が俺の名前を呼んだ。
「聞いたよ。今度の日曜、十時に映画だって?」
ベッドに座ったままの傑は、そう言うと今日はじめて俺にちゃんとした笑顔を向けた。しかしその笑顔のせいで、俺の清々しい気持ちがどんどん萎んでいく。嫌な予感しかしない。
「私も行くから。予定空けとく」
「うっぜーなお前!」
前言撤回だ。傑がシスコンを卒業する日は、きっとまだまだ遠い。
(2022.10.21)リクエストありがとうございました!